雨雲さんにこんにちは
雨が降り出した。
もやがかかったようにはっきりしない、ガラスの向こうの遠景。窓の隙間から忍び込んでくる土の匂い。薄暗い白熱灯の下で、湿気をまとった指は重くなる一方だった。私はパソコンのキーボードから手を下ろして、横の椅子に放ってあった携帯を見た。
誰からも着信はない。そんなことはどうでもいい。慣れた指運びで、娘の携帯番号にかけた。
「もしもし、やえちゃん」
『あっ、もしもしママ?』
電話越しの若くて楽しそうな声も、少し湿気っている。
「雨降ってきたよ。傘持ってってないでしょ?」
『うん、持ってない!今どうしようって思ってたとこ』
「迎えに行く。遠蛙駅でいい?」
『よくわかったね』
「彼氏ちゃんも乗ってきなって言っといて」
『すごいママ、なんで知ってるの?一緒にいるって言ってないのに』
私の頭の中で、なにも知らない娘のびしょ濡れの笑顔がはずんでいた。
「そのくらい分かる。あと、あんた風邪引いた?」
『さっき濡れたの。めっちゃ寒い』
「了解。今から行くね」
『あ、ちょっと待って』
電話を切ろうとした私の指が止まる。
『今日の晩御飯なに?』
私は、台所で刻みかけのキャベツに目をやった。
「お好み焼き。彼氏ちゃん、好きでしょ?」
『さすが!じゃあ後でね』
プツッ、と電話が切れた。
携帯を耳から離すと、なんだかすーすーした。言葉にしなくても伝わるのが私と娘の仲なのだと、電話越しの声が私を押しつぶしてくる。明るい子に育ったものだ。言葉にしていないことが何も伝わっていなくて、私はほっとする。言葉にしなければ何も伝わらないことすら、知らずに生きていけばいい。そんなピュアな世界が、娘の中に見られるだけできっと私は幸せなのだ。
パソコンの画面を一瞥すると、開いてあったエクセルのウインドウを保存もせずに閉じた。傘は何本持って行こうか。うっかりしたふりで、一本だけ持って行ってやろうか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます