第15話 委任状.pdf.exe

総務部のエリアを後にして、

少し離れたところに会議スペースが用意されていた。

仕切りを立てただけの聞き耳を立てれば話し声が聞こえる場所から

IDカードによる認証がなければ入れない部屋まである。

昔ながらのシステムを謳っておきながら、

こういうところはしっかりしているようだ。


使うのはもちろん、IDカードで認証しなければ入れない場所。

なるほどここなら話が外に漏れることもないだろう。


「ど、どうぞ・・・。」


墨名とかいう社員がペットボトルに入った水を持ってきた。

だいたいコーヒーかお茶だが、ここは水らしい。

しかも、水素水だ。

水質が安定しているため安全といわれている海洋深層水を利用。

こんなものを配るこの社長の意識の高さに頭が上がらない。


社名の入ったものを配るという行為は、相手にインパクトを与えられる。

そこらの小さな会社では、配布物にまでコストをかけられない。

例えば飲み物は、業務用の安いものを採用する。

しかしこうやって自社製品を目の前に出されると、

『こんなものをわざわざ用意してあるのか』と、驚かされてしまう。


「ふふ、ちょっとしたサプライズかな?

 僕がリコメンドするのはコーヒーより水素水。

 社会人はヘルスコントロールもライフワークのひとつ。

 最前線で働く人間にとってはイスペシャリー。

 ノマドワーカーにはフィジカルの強さがマストだからね。

 そもそも、ホスピタリティとして、コーヒーはディスアグリー。

 コーヒーが飲めない人もいるはずだ。

 この水素水は、コスパだけをブラッシュアップしたコーヒーとは違う。

 誰が飲んでも基本的にOKだ。」


うん。もう、この社長はすごいな。

ここまで徹底的に意識を高められると感嘆の声しか出ない。

利尿作用のあるカフェインを多量に含む飲み物は避けるなど、

他にも言い方はあると思うが、

健康を維持するためというのは、働く者として重要な理由。

仕事を優先するあまり生活習慣が乱れに乱れている現代人にも勧めたい。


セキュリティの人材が不足している場合、

セキュリティにかかわる人間に欠員が出ないように気をつけねばならない。

サイバー攻撃の対応をするために予定を組むことはできないので、

常にベストコンディションを保たねばならない。

SOCと呼ばれる、24時間体制でセキュリティ監視を行い、

インシデントの対応ができる拠点があればすべてを委任することもできるが、

何事も健康は大事だ。


担当者不在の恐怖は、サイバー攻撃には常について回る。


縛戸を見ると、さっそく水素水をきめてトリップしていた。

正直、水素水が本当に体にいいかどうかは定かではない。

俺が知っているのは、水素水はペットボトルで保存すると、

数日後には高いだけの普通の水になってしまうことだけだ。

水素のような粒子の小さい物質を閉じ込めるのは難しいらしい。

アルミ容器なら水素の減少スピードを遅くできるらしいが、

目に見えないものを信じろというのが無理な話だ。


ネットワークの通信が目に見えていれば、

セキュリティに対する認識も少しは変わったかもしれない。

もちろん、擬似的に通信を可視化することはできるし、

世界中の通信を可視化したものを眺めているだけで面白い。

だが、世の中の空間を飛び交っているはずの通信の流れを、

人間は見ることができない。


見て見ぬ振りをすることができる人間が、

見えないものを気にするはずがない。


「さて、ノープランで申しわけないが、簡単にアジェンダを」

「あ、はい。」


社長の指示で会議内容をホワイトボードに書き始める墨名。

慣れた手つきだ。いつもやっているのだろう。

書く内容を指示していないのに、会議予定が出来上がった。

ゼネラリストというのは、あながち嘘ではないらしい。


「一つ目、ここまでにリサーチでセットされているのは?」

「今回の事象を引き起こした原因となる人物が複数いるということです。

 社内規定に違反した保守端末の使い方をした人間が何人も。

 その中の一人がサイバー攻撃の引き金となるマルウェアを

 招き入れてしまった。

 故意なのか、事故なのか、わかりませんが。」


そう。問題はここにある。

この会社にはセキュリティを担保するための明確な規定がない。

よく知らないままマルウェアを入れてしまった人間と、

セキュリティをよく知っていてマルウェアを仕込んだ人間、

どちらも複数いる可能性がある。


せめて端末の不正利用とは何をすることなのか周知してあれば、

ここまでひどい状況にはなっていなかっただろう。

現状、『知りませんでした。』と言われたら、それ以上追及はできない。

やってはいけないことを決めていなかったのだから。

ルールとはそういうものだ。


「なるほど。アグリー。

 二つ目、これからアクトすべきことは?」

「調査を継続するのはもちろんですが、

 やはり社内の状況に詳しい人を交えて対応させてください。

 不要なツールを躊躇なく入れられるのは、

 社内のルールの抜け穴まで詳しく知っている人物。

 部外者だけでは追跡が不可能かと。」

「考えたくないことだが、エビデンスを見るにそういうことだろうね。」


性善説を愛する意識高い系社長も、流石に内部犯行を考えざるを得ないらしい。

人間は犯罪を行う生き物として、事前準備だけは進めておくべきだ。

犯罪というものが人間によって定義されている以上、

定義した人間以外は、どんな行為が犯罪に当たるか理解していない。

当たり前にように他人の物を使うことがあるだろう。

日常的にやっていることが犯罪と定義されているかどうかなんて、

調べながら生きている人間がどれほどいるか。


仮に犯罪だとわかったとして、

日常的にやっていることをやめられないのが人間であり、

どうしたら今までと同じことができるか考えるのが普通だろう。

『USBなどの記憶媒体によるデータの持ち出しを禁止したら、

 スマホを使ってデータを持ち出すようになった。』

そういうことをするのが人間だ。


「ふむ、ジャストアイディアだが、

 墨名をアサインするのはどうかな?」

「ふぇ?」

「このインシデントに対して、

 フルコミットできそうなのが君しかいないんだけど。」


ああ、なんとなくわかった。

墨名がどうしてゼネラリストになったか。

だいたいいつもこんな感じなのだろう。

雑用を全て押し付けられて、全部こなしていった結果、

社内の何でも屋、あるいは便利屋になってしまったわけだ。


長時間労働を強いるブラック企業が問題になっているが、

この会社はブラックなのだろうか。


残業が増えることは悪いことばかりではない。

残業が増えた分、いろいろな仕事を経験すれば、

墨名のように社内のことをいろいろ把握している頼れる人材になる。

頼れる人材は出世も早く、出世のためには残業は当たり前、

そんなイメージが昔からできていった。


しかし、最近の残業は、決まった作業をこなすだけであり、

残業したからといって頼れる人材になれないことが多い。

人手不足が原因で仕事が片付かないことに対する残業だからだ。

だから出世につながらない。過労死に繋がってしまう。


頑張った結果成功した世代は、経験から残業は必要だと思っている。

だが、残業の目的そのものが違ってきているのだ。

ゼネラリストと呼ばれる墨名も、高い地位にいるわけではない。

何年働いているか知らないが、未だに一般社員なのだ。


「そんなサイトを感じるんだが、どうかな?」

「アグリー!アグリーです!」

「・・・はい。」


縛戸!勝手に決めるな!

可哀想に。墨名は今日も残業するのだろう。


しかし、毎日残業している割には、墨名は健康そうだ。

目に下に隈のひとつやふたつ、あってもいいのだが・・・。

もしかして、水素水が効いているのか?


「では、このミッションについて、

 僕のオーソリティを君にトランスファーしよう。

 なに、難しく考えなくてもいい。

 ブレストをしながらシックスセンスでセレクトするんだ。」


要するに行き当たりばったりじゃないか。

失敗したときの責任は誰が取るんだ?


「困ったら・・・、縛戸さん?」

「えっ、私ぃ?!」

「そう、君だ。

 墨名のサポートを頼みたい。

 ボトルネックがあるとすれば、セキュリティ知識と、対人能力。

 墨名が他の部署とコンセンサスをとるのは、ディスペアーだからね。」


それに関しては、俺も同意する。

セキュリティ調査の一番の敵は門前払いだ。

『いざ調査しようと意気込んで出かけたら阿修羅が勢揃いだった。』

なんてことがよくある。

自分の対応に自身を持っているに人間を相手にするならなおさら、

特にこの会社のように個人の判断にすべてを任せているところだと、

部外者なんて入り込む隙間もない。


そのための縛戸だ。


既にこの会社の大部分の人間は縛戸にノーと言えない状況になっているはずだ。

何をどうやっているかは本人は話さないが、

聞かないほうが身のためだろう。

セキュリティは機密情報を取り扱う仕事だからよく分かる。

知らなくていいことを知ろうとしてはいけない。


「よし、後は任せたよ。

 申し訳ないが、このあとのタスクが山積みでね。

 しばらくステップアウトする。

 夕方までにはリターンするから。」


話がまとまるかまとまらないかのところで社長は行ってしまった。

初めて会うタイプの社長だった。

ここまで俺の活動に付き合ってくれた依頼主はいない。

だいたい丸投げが多く、それでいて結果にはちゃんと文句を言うのだ。


さて、稀有な存在の期待に答えるためにも、調査を進める必要がある。

実はサーバーにアクセスしているマルウェアには目星がついている。

不測の事態に備えて駆除はしていなかったが、

あの社長なら、マルウェアをなんとかしておく必要があるだろう。


正直、気に入らない相手にはまともな対応をしないこともある。

サイバーテロという言葉があるように、

社内セキュリティは、対応を変えれば、会社を破壊できる。

契約の都合上、セキュリティ診断を行うことはあっても、

未来に暗い影を落とし続ける会社を守る必要はない。


そのための縛戸でもある。


どんな会社にも不満を持つ人間は一定数いる。

そういった人間の背中を押してやれば、セキュリティ事故は簡単に起こせる。

それが事故で終わるか、攻撃になるか、テロに発展するか、

すべては縛戸のさじ加減。


サイバー攻撃は現実世界から引き起こすこともできる。

縛戸が社内に入り込んだ時点で、その気になれば内部から崩壊させることも、

可能だ。

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