第5話

「んぼおおおおおおおおおお」


鼓膜を貫かんばかりの獣の悲鳴で、ようやく岡村は意識を取り戻した。


「ぼお、ぼお、ぼおおおおおおおお」


大きな、獣の咆哮ほうこうだった。時折かん高いような鳴き声が混じるので、岡村にはなんとなくそれが悲鳴に感じれたのだ。


目を覚ました。とは言うものの、岡村の視界は暗闇のままだった。


ここはいったい何処だ?


目の前には闇が続き、瞬きをしようが首を左右に動かそうが何も見えない。何かで拘束されているらしく、手足も動かない。


息苦しい。


途端にそう思った。パニックになりかかっている。ヒューヒューと、例の妙な呼吸音が肺の奥底から湧き上がってくる。


苦しい。動きたい。光が欲しい。


そう思ってもがくほどにどんどん息ができなくなってゆく。


落ち着け。ダメだ。パニックになってはいけない。大丈夫。まだ生きている。どこも怪我してない。落ち着け。落ち着け。


岡村の人生の中で、これほど自分に語りかけたことはかつてなかった。もしか彼が、いつもこれくらい自分への問い掛けや対話をしていたなら、今ここでこうなってはいなかったかもしれない。だが今の岡村に、それを悔いるだけの余裕はもちろんなかった。


落ち着け。大丈夫。


少なくともその言葉を胸の内で二十は繰り返したかもしれない。そうしてようやく、岡村の心臓は平穏を取り戻しはじめた。


鼻でゆっくり呼吸する。


焦るな。まだ生きてるんだ。絶対によくない状況ではあるが、手遅れってわけじゃない。なんとか今を把握しなくてはならない。


把握。そう状況の把握こそが最大のポイントだった。今何が起きているのかまったく想像がつかない。


なんの影響が定かではないが、僅かな吐き気と記憶に混乱がみられた。


何か盛られたのか?薬?毒か?こうなる前の最後の記憶はなんだったか思い出そうとするが、今ひとつ記憶が出てこない。


確か村長の家に行った気がする。そこで老婆と会話して、それからどうしたんだか。少しずつ記憶を手繰たぐっていると、また例の獣の咆哮が耳をつんざいた。


「ぼおおおおおぼおおおおおおおお」


これが、岡村の神経を逆なでしたのは言うまでもない。距離にしたら4、5メートルほどしか離れていない場所で、先ほどからずっとこの悲痛な叫びが上がっている。


手にしかけた記憶が咆哮のせいで薄れていく。


クソっ。どうせなら音も聞こえなくしてくれればよかったのに。岡村はそう思った。


だが悪いことばかりではなかった。音が聞こえていたのが幸いし、ごく僅かだが獣の咆哮に混じって人の会話が耳に入ってきた。


「おい!もっと真剣に抑えんかオマエ!さっきから何しよるか」


と、若い男の声。


「抑えとる!オマエこそしっかりやれ!はよ切ってしまえ。はよ切らんか!」


抑えろ。切れ。その単語だけが岡村の耳には異様に残ってしまう。一体、彼らは何をしてるのか。少なくとも、何か楽しんでやっている雰囲気でないことは確かである。


「ぼおおおぼおおおおおおおお」


獣の叫び声はより悲痛さを増し、男たちの焦りを加速させているようだ。


「ああもう!早う!早うせえ!」


「黙れっ!ならオマエがやれ!もうイヤじゃ、泣きそうや」


「早うしろ馬鹿が!早う!早う!」


「うるせええ!ああああ!」


ぶちゅん。と嫌な音がした。肉片を無理矢理に切断したような、そんな音だった。


ペチャペチャとも音がした。濁った水のような何かが、だらしなくしたたっていく音だった。


辺りに生臭さが漂い始める。


獣の悲痛な咆哮が止み、男たちの荒い息遣いだけが聞こえていた。


「はぁ、はぁ」


「っはぁ、はぁ」


また声が聞こえた。


「おい、何しとる。休むな」


「うるせえ。切ったのは俺や」


シュボっという音の後に嗅ぎ覚えのあるオイルの懐かしい臭いがした。


嗚呼、煙草だ。煙草を吸ってる。瞬時に岡村はそう思った。情けないことに岡村の喉は煙草の紫煙に実に羨ましそうにゴクリと音を立ててしまった。


「なんやオマエ。こんなとこ煙草吸うてええんか?上役に殺されるぞ」


「知るかそんなもん。こっちが殺したるわ。だいたい、こんなことやらせといて、煙草も吸うたらいけんのか。オカシイわ。このご時世に」


ぽうっ、と微かに紙の焼ける臭いがする。


嗚呼、煙草だ煙草だ。吸いたい。俺も吸いたい。こんな状況でありながら岡村はすっかりその衝動に取り憑かれてしまった。


気が付けば、こんな言葉が口から出てしまっていた。


「あの、す、すみませんが、た、た、煙草を、どなたか一本恵んでく、くださいますか?」


ピタッ、とした静寂があった。


しまった。マズったかなあ、と岡村は思った。案外「おおなんや、起きとったんか」くらいラフな会話の糸口になるのではとも思ったが、考えが甘かったようだ。


空気が、ピンと張り詰めるのを感じた。


「おい。今…なんぞ喋ったや?」


男の声には明らかな動揺があった。


「黙れや」


「おい!なんでや!喋ったやろ!」


「だから黙れやて!分かっとるわ!」


「黙らんわ!なんでじゃ!話ちがうやろ!起きんて言うてたやろ!」


「うるっせええええ!」


バチン、と肉と肉のぶつかる音がする。


「おい!なんや!なんで殴るや!」


「うるせえや!なんでもかんでも俺に聞いて、知らんわ!オマエも説明受けたっやろ!」


「俺も知らんわ!オマエが持ってきた話じゃろ!俺は知らん!」


「こん、クソアホがぁ!」


「んやとぉ!」


岡村の発したひと言で男たちが言い争いをはじめた。はじめこそ気の毒に思ったが、段々彼らがただの間の抜けた連中だという風に思えてきた。先ほどから聞いていればやれ単位がどうのバイト代がどうのと、どう考えてもお気楽で間の抜けた学生同士の喧嘩だった。


「あ、あの。お、お取り込みち、中すみません」


岡村の中で彼らへの恐怖が薄らいでいた。どこにでもいる奴らだ。何が目的か知らないが、下っ端に違いない。目標も志もない、恐るに足りない連中だと思えてきた。それが、岡村を大胆にさせた。


「オマエ!ホンマに殺すやと!」


「おう!ええぞ!やったる!」


口論は勢いを増している。殴り合いになりかかっているようだ。


「す、すみません!あ、あの!」


岡村が大声で制止に入る。


「おい」


「なんや」


「なんぞ言うとるぞ」


「わかっとる」


「なんか言えや」


「なんで俺が」


「はよしろや。気持ち悪いわ」


気持ち悪い。なぜそんな言われ方をしなければならないか見当もつかなかったが、ようやく自分に意識が向いたことをありがたく思った。


「す、すみません。ここはど、どこでし、しょうか?どなたか、か質問に答えてくれませんか」


しばらく沈黙があった。その後ごく短い返事があった。


「言えん」


会話が成立した。これは岡村にとって大きな一歩であった。これは上手くいけば無事に帰れるかもしれない。そんな希望が胸にいてきていた。


「そ、そうですか。で、では、わ私はどうなるんで、ですか?無事にか、帰れますか?」


答えは分かっている。分かっていてあえて質問している。もちろんこんな状況で無事に帰してくれるわけがない。だが全ては、この次の質問のハードルを下げる為だった。


「それも言えん」


案の定の答えだった。だがこれでいい。岡村は心中でガッツポーズの準備をした。


「そ、そうですよ、よね。わ、分かりました。で、ではひとつお、お願いが。た、煙草を、す、吸わせてください。せ、せめて」


煙草が吸いたいのは本心からだった。しかしこの会話にはもっと別の目的があった。岡村にはこの男たちが自分の目的に気がつく可能性は低いと踏んでいた。その証拠に、岡村の要望に対して男たちはまた口論をはじめたのである。


「おい」


「なんや」


「分かってるやろ」


「なんがや?」


「おい!」


「なんや!」


「オマエ、吸わせる気か、ソイツに」


「何がいけん?煙草くらいなんや」


「アホ!…くだんやぞ!」


件。その言葉で失くしかけていた記憶の欠片が手元へと戻ってくるのを感じた。そうだった。あの時武田たけだ村長が確か同じ言葉を言っていた。


武田村長。自分は確かこうなる前、村長の家にいたはずだった。


「関係ないやろ。もう。意識があるんや。話が違う。もう、できん」


「そんなこと言うて!オマエ、アホか!」


気配が、ゆっくりと岡村の方に近づいて来るのが分かった。ごく至近距離で、カサコソと音がする。


「ほれ。吸いや」


懐かしいフィルターの感触が唇に触れる。ほのかにニコチンの香りもする。メンソールか。それでもいい。


岡村はすかさず煙草を口から落とす。


「あっ」


「おっ」


「す、すみません。やっ、やっぱり口だけじゃ上手く吸えま、ません。手足を解いてもらえませんか」


そう言うと後ろの方から声がした。


「調子こくなや。無理やて。そんなん」


「…」


目の前の男も黙っている。


「じゃ、じゃあせ、せめて。目隠しを。目隠しを取ってくれませんか」


岡村の狙いはコレだった。煙草を吸わせる時点で男たちの緊張がゆるんでいるのは明らかだった。先ほど「何か」をしたことで、身も心も憔悴していて判断力が低下している。岡村はそれを感じていたのだ。


「おい」


「…」


「おいて!」


「なんや」


「目隠し取ろうとしてないや?」


「ええやろ。もう」


「なんてや!あかんやろ!」


「もう、声も聞かれてる。無理やて。件にできんわ」


「オマエが決めんな!」


「うるせえ。もう疲れたわ」


そう言って目の前の気配がぐっと距離を縮めて来た時だった。


ブーッ


ブーッ


と携帯のバイブレーションらしき音がした。


「おい」


「なんや」


「おいて!」


「だけんなんや!もうええやろ!」


岡村は嫌な予感がし始めた。


「上役からや。電話」


嫌な予感は的中してしまった。



続く


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