第4話
「おい、帰ったぞ」
「お、おじゃま、しします」
好意に甘えて武田村長の家に泊めてもらうことになった岡村だったが、何しろただでさえ他人とのコミュニケーションが下手な男である。居心地悪くて仕方がなかった。
どうして泊まるなどと言ってしまったのだろう。ホテルや民宿ならまだしも、見ず知らずの人の家に泊まるなどとストレスでしかない。心の底から後悔していたが、しかし人からの好意を絶対に断れないというのもまた、この岡村らしい結末ではあった。
「なんだい。その
奥からひどく年老いた老婆が出てきた。昔話に出てきそうなくらい独特な雰囲気を身に纏っている。
「有野さとこから言われて来た人だ。村を取材してんだと。今日ウチに泊めるからな」
「あいなんだい。それならそうと言ってくりゃあいいのに。なんも用意してねえぞ」
「いいんだよ適当で。急だったんだから仕方ねえだろ」
「んじゃ、急いで支度せな。お客さん、上がって居間んとこで煙草でも喫んでてくれ」
「す、すみません。きゅ、急に来ちゃって」
目の前で口喧嘩を始めた村長と老婆に申し訳なく、余計に居心地が悪くなってしまった岡村だった。
こっこっこっこっこっ
包丁と木のまな板が小気味よくぶつかる音が響く。
居間にはまだこたつが置かれており、流石に電気だったが暖かくはなかった。薄汚れたこたつ布団の手触りがどことなく故郷を思い出させ、岡村の居心地の悪さを少しだけ和らげてくれるのだった。
「ううっ寒いっ」
日が暮れてきたせいか、先ほどから随分と部屋の中が冷え込んでいる。こたつの電源を付けていいですか、とひとこと言えばいい話なのだが岡村にはそれができない。
布団の中で足の先を擦り合わせていると老婆が卓上タイプのガスコンロを持ってきた。
「あ、あの」
「兄ちゃ東京の生まれかい?」
コタツの話をしようとしたら突然質問されたので泡を食ってしまった。
「いえ、あの、と、隣のMです」
「なんだぁ。ホントに隣じゃねえか。シンジが東京からって言うからよ。オレはてっきり」
「い、いえ、生まれはMですけど。い、今は東京に住んでます。今朝も東京から」
「そういうことか。んだら悪いことしちまったな」
「へ?」
そう言うと老婆は台所から土鍋を持ってきてコンロの上に置いた。火をつけ蓋をとる。ブワっと、湯気が立ち込める。醤油とネギや生姜のいい匂いがぷうんっと岡村の鼻をくすぐった。
「猪鍋なんてMの人にゃ珍しくもなんともねえやな。東京だっていうからよ、オレは良かれと思ったんだがな」
「いや、そ、そんなことないですよ。懐かしいで、です。牡丹鍋。よく婆ちゃんが作ってく、くれました」
「婆ちゃ、まだ生きてんのかい?」
「いえ、もう五年前に」
「そら悪いこと聞いたな」
「いえ」
そう言われて五年前に祖母が亡くなって以来実家に帰っていなかったことを思い出した。考えてみれば祖母がいた時は頻繁に顔を出していたものだ。祖母はいつだって、岡村の味方だったから彼は両親よりも祖母に懐いていた。
「ま、食いな。これしかねえけど肉はたんとあっからよ」
「あ、ありがとうござい、います」
ネギと白菜とこんにゃく。そして薄紫色の猪肉。それを醤油ベースの甘辛い汁に長時間煮込んだ鍋。それがここら辺りの郷土料理である牡丹鍋だった。
久しぶりの牡丹鍋だった。岡村は他人の家であることも忘れ空きっ腹にまかせてかっこんだ。
「はははふっはっはっは…うっうんうん」
「そねえに急がなくても、アンタしか食わないわ。誰もとらんよ」
「ああ、す、すみません」
「どうだい。
「
忘れていたはずの郷土の言葉がつい口を出てしまうくらい懐かしい味わいだった。祖母の味よりやや甘めだったが、それでも充分に美味いと感じれた。なんだか、途端に家が恋しくなった。
肉厚な白菜を噛み締めながらこの仕事が終わったら実家に帰ろう。祖母の仏前に線香をあげに行こう、そう決心した矢先だった。
「…れ?…か…しいな…」
突然、猛烈な吐き気と共に右手が痺れ始めた。一瞬「疲れかな?」とも思ったがその考えに納得する前に今度は全身が激しく痙攣していた。
なんだ。いったいどうした。もしかして、煙草のせいで脳梗塞でも起こしたのか。岡村は悠長にそんなことを思っていたが状態は悪化するばかりでごうごうと煮える鍋を前に、倒れ込んでしまった。
まずい。助けを呼ばなければ。どうやら老婆はまるで気がついていないようで台所から出てくる気配はない。
しかしその時、幸運にも出かけていた武田村長が帰ってきた。
「おう婆さん。戻った」
よかったこれで助かった。岡村は薄れゆく意識の中で安堵した。帰ってきた武田はまず、自分の様子を伺うはずだ。
そう考えてた岡村が直後に耳にしたのは世にもおぞましい絶望的な会話だった。
「あれ?なんだ。婆さんやっといてくれたのか。話が早えや」
「んだろ。オメエ何も言わないで出て行くからよ。しかしこの季節に客だろ?オレもしかしてと思ってよ。逃げられちゃ困るからテングダケの粉入れといたんよ」
「婆さん。何もきかねえでテングダケ入れるなんて。普通の客ならどうすんだ?」
テングダケ?逃げる?一体何を話しているのか岡村には到底理解できなかった。もう、意識も途切れそうである。
「んだらシンジ。この兄ちゃは普通のお客かえ?」
岡村が最後に耳したのは、武田村長の低くて恐ろしい言葉だった。
「いんや。そいつぁ
件。彼はたしかにそう口にした。
続く
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