第2話
早朝。上野駅から出発した特急列車に乗り岡村は一路、N県を目指していた。特急に乗るのはかなり久しぶりである。
単純に金がなかったというのもあるが、全てを放り出して勝手に故郷を出た岡村が家族に会いづらいと思うのはごく自然なことだった。
N県から岡村の故郷であるM県までさほどかからない。どうせ予定もないし、取材がひと段落したら久しぶりに実家を訪ねてみるのも悪くない。両親や兄弟に仕事で東京から来たんだぞと言ってやれば、みんな少しは見直してくれるかもしれない。そういうことだったら東京土産でも買っておいてやればよかった。などと、岡村はのん気に凱旋気分で列車に揺られていた。
列車は四時間ほどでN県に到着した。そこから例の牛久尾村まではバスで二時間くらいの場所だったのだが、まず先に依頼主である名新大学の教授を訪ねろと言われていた。
大学はN駅から車で十分くらいの立地の良い栄えた場所にあった。校舎も大きくかなり広大な土地がキャンパスの敷地として広がっていた。確かにこれほどのものなら相当な金がかかっているはずだ。大学とは言え商売である。客である生徒が来なければ、大学側が抱える負債は計り知れない。
ただひとつだけ納得がいかなかったのはそういう事態なのであれば、なぜ大学は遊神社のような弱小出版に仕事を依頼したのかである。本当に死活問題ならもっと金をかけてもいいところではないのか。それとも、既に大手からは断られてしまったのか。色々な考えを頭に浮かべながら、岡村は大学の門をくぐった。
確かに言われている通り、大学に生徒は少なかった。いや、決していないというわけではないのだろうが、このキャンパスの規模にしては非常に少ないように思えた。やはり事件が及ぼす影響は大きいのだろう。
岡村は聞いていた担当教授の名前を窓口で告げた。
「は、濱口教授の研究室はど、どちらですか」
「濱口教授?えーっと、東棟の三階です。階段を右に行って突き当たりですね」
「ど、ども」
岡村にはどもる癖があった。初対面の人間と話す時だけどうしてもどもってしまう。取材命のルポライターとしては致命的だったし、本人からしても相当なコンプレックスだった。不思議なことにこの癖は二回目三回目と会った時は全くと言っていいほどどもらない。一度会話したことのある相手ならお互いに気が付いていなくとも支障なく話せるのだ。しかし取材においてのファーストコンタクトは何よりも大事である。この不思議などもり癖のせいもあって、岡村は取材するのが本当に苦手だった。
まだ真新しい匂いのする校舎の中を進んでいき、支持された通りの場所にたどり着いた。
「民俗学第二研究室」
と書かれたそこは、心なしか他の研究室よりも狭そうな部屋だった。
「し、失礼します」
恐る恐る岡村が中に入ると、そこは物置のようにとても狭い場所だった。所狭しと積み上げられた段ボールの山。書類や本が散乱し、
「うぁああああ、キタキタキタぁ!」
「うぁああ!」
突然大声で叫ばれたので岡村も驚いてつい大声を出してしまった。
「しゃああああ!とったああああ」
声の主はよれよれのチェックシャツを着た中年の男で、髪と髭が伸び放題になっている。顔中が脂で光っていて、不健康にでっぷりと太った体型をしている。
「ああ。やったぜ。11レースいただきだ。このまま最終までぶっこ抜くぞ」
男はイヤホンをしていて、何かを夢中で聞いているようだった。岡村の存在にはまるで気がついていない。
「あ、あの。すみません。と、東京から」
「うぁ!ビックリした!なんだお前!誰だこの野郎!」
「ひゃあ!ゴメンなさいゴメンなさい!」
いきなり相手がどう喝してきたものだから岡村は腰を抜かしてしまった。そのうえ恐怖のあまり泣きそうな声を出し、頭を地面に擦り付けた。四十を間近に控えた男の行動としては、あまりに情けない姿である。
「な、なんだよ!お前!誰だ!金ならねえぞ!」
「いえ!ち、違うんです!わ、私は、遊神社のものです!しゅ、取材の依頼を受けて、東京からき、来ました」
そう言うと相手は怪訝な顔つきになった。そんな話は聞いてない。とでも言いたげである。
「あ、あれ?聞いてませんか?あ、有野学長に依頼されたと、東京のか、加藤から言われて」
「学長?東京。まてよ‥加藤、かとう」
「そう!か、加藤さんです!ごっつい坊主あ頭で、日焼けし、してる」
そこまで言うとまるで漫画のように相手はポンと手を打ってみせた。
「あー、はいはいはい。わかったわかった。加藤ね。加藤。うんうん。はいはい。そっかそっか。で?あのーなんだっけ」
「あ、お岡村です」
「俺は濱口だ。いや、そうじゃなくて。なんで来たんだっけ」
「え?しゅ、取材です」
「そうそう取材ね。ええっと。なんの取材だっけ?」
「え?し、知らないんですか?」
岡村が訝しむと、相手は突然に憤慨し始めた。
「なんだよ!?いけねえのかよ。俺はな、学長に頼まれてるだけだ。橋渡し役なんだよ。いちいち内容まで把握してねえんだよ」
「は、はあ。す、すみません」
「で?なんの取材だよ」
「せ、聖身教会事件の、しゅ取材です」
「あーそうだったね。そうそう。聖身教会ね。で?なんでここに来たの?」
「いえ、あの。加藤さんに、こ、ここに行けと」
「あっそ。まあいいや。ご苦労さん。じゃ」
「え?」
濱口がまたイヤホンを耳にあてて自分を追い払おうとしたので流石の岡村も食い下がった。
「ちょ、ちょっと待ってください。わ、私は依頼されて取材にき、来たんですよ?濱口さんからも、なにかお、お話が聞けると思ってきたんです」
そう言うと濱口はさも迷惑そうな顔でため息をついた。
「あのなあ。取材なんて困るんだよ。見ろ。分かるだろ?忙しいんだよ。最終レースが控えてんだ」
「は、はあ」
「分かったらもう行ってくれ。ほら、コレ。あげるから」
そう言って濱口から一枚のよれよれの紙を手渡された。茶色のシミがくっついている。
「牛久尾村までのバスの時刻表だ。さ、もう行ってくれ。忙しいんだ」
「ちょ、ちょっと待ってく、下さい。こ、これ、次のバスまで三時間もあるじゃないで、ですか」
「だから?俺には関係ないね。知ったこっちゃない。田舎じゃよくあることだ」
ここへ来ないでまっすぐ牛久尾村へ向かっていたら今ごろバスに乗れていた。それなのにこの男は「ご苦労さん」のひと言で終わらせようとしてる。岡村には納得がいかなかった。
「教授。ほ、本当にそれでいいんで、ですか」
「なんだよ。もう最終レース始まるんだよ。早くどっか行ってくれ」
「私のい、依頼者はあなたのじ、上司の有野学長だ。私のじ、上司から何かあればが、学長に連絡すると言われています。今から上司にで、電話してもい、いいんですよ」
「なんだ?急に威勢よくなりやがって。望むところだ。電話できるならしてみろよ」
「もしもし加藤さん?すぐ有野学長の連絡先送ってください。濱口教授があまり取材に協力的ではないので、少し説得していただこうと思って」
すでに携帯を片手にしていた岡村に驚いて、濱口はすぐさま電話を取り上げて態度をあらためた。
「わーかったよ。わーかった。あんた意外と骨があるな。よしいいだろう。協力するよ。だがひとつ、条件がある」
「なんです?」
濱口は顔の前に指を一本立てて差し出した。
「あと一レースだけ待ってくれ」
そういうことになり、岡村はひとまず懐から煙草を取り出した。
「あれは五年前、突然降って湧いたような事件だったよ。何しろ普通に爺さんが寿命で死んでも騒ぎになるような村だ。それが殺人、しかもカルト宗教絡みときてる。逆にインパクトが強過ぎて、住民はどいつもこいつもピンときてなかったね」
「聖身教会自体はい、いつから村にあったんで、ですか?」
「十年前かそこらだと聞いてる。正確なとこは分からない。今は知ってる人間がいないからな」
「ど、どういうことです?」
「教会は村から出て行ったんだ。それに、もともと聖身教会の信者には村の人間はいなかったんだよ。みんな外から来たんだ。ま、辺境の村への布教活動ってやつだな。逮捕された幹部三人、殺された一般信者二人と他にも三、四人の信者が住んでたかな」
「む、村の人に信者はいなかったんですか?じゅ、十年も住んでいて?」
「牛久尾村は土着信仰の強い土地でな。
「な、なにを信仰してるんで、ですか」
「それ、興味ある?」
「は、はい。聞いておきたいです」
「そうか。変わったブン屋だな。奴らが
「件獣?」
「首から上は人間、首から下は牛という妖怪だ。シンプルに
「ど、どんな妖怪なんです?」
「おっ?本気で興味あんのかい?」
「ほ、本当はゴシップ系の記事がせ、専門なんです」
「胡散臭いオカルトが本文なわけか。それならこっちの方が面白いかもしれねえな。件はな。予言する妖怪なんだよ。凶事や吉事を予言し伝える。まあだいたい凶事が多いがな。しかも規模が大きい話をするのさ。疫病が流行るとか、戦争に負けるとか。大地震の予言もある」
「な、なんだか恐ろしい妖怪ですね」
「恐ろしいだけじゃねえ。件は牛から産まれるとされている。産まれたての子牛に人の頭がついてて人の言葉を話すっていうんだ。にんべんにウシで件。読んで字のごとし。気味が悪いなんてもんじゃねえ」
岡村は産まれたばかりの件を想像して背筋が寒くなるのを感じていた。
「まあ俺の見解だと件はただの牛の奇形児だな。予言をしたとか人の言葉を話したなんてのは後付けだ。動物の奇形児は昔から不吉なものとされていた。おそらく昔、奇形が産まれたその前後でたちの悪い病気が流行ったり凶作になったりしたんだろうな。それで奇形児と凶事を結びつけたのが件の伝説だ」
「結びつけるなんて。な、なんでそんなことをす、するんです?」
「おいおいアンタ。ブン屋なのに意外と物知らないな。そんなの怖いからに決まってんだろ」
「こ、怖い?」
「人間てのはな。理由とか意味が分からないものをとかく怖がるもんなんだよ。いいか。例えばアンタが部屋で寝てたとしよう。真っ暗な部屋の中で、突然ペチャペチャ妙な音が鳴り出したらどうする?」
「ま、まあ、寝れないかもし、しれませんね」
「じゃあその音が次第に大きくなって、なんだか人の声みたく思えてきたら?」
「こ、怖いですね」
「そうだな。じゃあそこで灯りをつけて、その音が水道の締め忘れだったと気が付いたらどうだ?」
「ぜ、全然怖くな、ないです」
「それだ。つまり、理解と解明が恐怖を克服する秀逸にして画期的な方法なんだよ。凶作は今でこそ天候や土壌の浪費なんていう科学的な原因が解明されてるけど、昔は理由が分かっていなかった。原因が分からなきゃみんなパニックだ。だからこじつけに妖怪や神の怒りを理由にして納得してたんだよ。超常の力なら仕方ないとね。そうすることで恐怖を和らげていた。奉り崇めることで怒りを鎮めようとした。今日でも続く祭りの原型だな。昔の人間は自然との付き合いをよく分かっていたんだな」
なるほど、と言いながら岡村はため息をついた。こんな見てくれをしていてもやはり濱口は大学の教授だったということか。それにこうしていれば、知的でなかなかいい男なのになと思っていた。
「今みたいにここが嫌だから別の土地に引っ越そうなんて気軽なことは早々できなかった。だからこそ、住んでる土地で凶事があると恐ろしいんだよ。土地を失えばのたれ死ぬ。凶事が起こればそのまま死のイメージに繋がってたんだ。誰だってそうは信じたくないだろ?だからねじ曲げるんだよ。信仰や崇拝によってさ」
「そ、そうだったんですね」
しかし岡村にはそう言われても解さないことがひとつだけあった。
「き、教授」
「やめろ。濱口でいい。学生にだって呼ばれないんだやめてくれよ」
「じゃ、じゃあ先生。聞きたいんですが。仮にそ、それで恐怖が収まったとして。で、でもそれって一時しのぎですよね?また次の年、また次のと、年って凶事が起きたらどうするんですか。ず、ずっと誤魔化し続けるんですか?」
「ほう‥」
岡村の質問に濱口は答えなかった。彼は突然に目を細めながら岡村の身体を舐め回すように眺めだした。岡村は濱口に視線に困惑していた。
「せ、先生?」
「ああ、すまないな。いやアンタ、勿体ないな。実に勿体ない」
「え?」
「いや、こっちの話だ。悪い悪い。最近じゃ生徒だってまともな質問なんざしてくれねえのさ。三流大学の役に立たない学問だからな。人気ないんだよ俺は。でもアンタみたいに可愛いのが傍らにいてくれたら、俺だってもう少しまともに研究してたんだがな。いや勿体ない」
「そ、そうなんですか」
質問の答えも舐め回すような視線の理由も依然として謎のままだったが、久しぶりに人から褒められて岡村は嬉しかった。
「おい、支度しろよ、出るぞ」
「え?まだバスの時間までだいぶありますけど」
濱口は汚いコートを羽織り、穏やかな笑顔で親指を立てた。
「牛久尾村まで送ってやるよ。質疑応答の続きをしたくなった」
岡村はうつむき頰を少しだけ赤らめて、ありがとうございますと小さく呟いた。その言葉は、もうどもってはいなかった。
濱口の自家用であるという軽自動車はかなり古いものだった。岡村は車窓から山々が立ち並ぶ道の景色をひたすら眺めていた。本来なら新緑の季節だが、まだところどころ淡い色の桜の花が残っている。純粋に美しい景色だった。人や車の姿はほとんどなくただ山だけが延々と続いている。
岡村の故郷であるN県は同じように山に囲まれているのに杉の木ばかりで桜がほとんどない。景色を見にくる観光客も少ないので、M県に比べるとより土地全体が貧しかった。
貧しいから若者は土地を出る。それによって土地は働き手を失いさらに過疎化が進む。地方に移り住むのが流行っていると最近のテレビでは言っていたが、それはあくまでごく一部に過ぎず今でも過疎は病魔のように各地を蝕んでいる。何年か前に連絡した故郷の友人がそんなことを言っていた。
この辺りは岡村のように自らの意思で土地を捨てる人間が多いが、残された人々は一体どうしているのか。なぜ土地を捨てないのか。岡村には疑問だった。先ほどの話のように昔ならいざ知らず、現代ならばいくらでも移り住むができるだろうに。荒廃した土地に住み不便と不満にまみれ暮らす人々の心情が、岡村には理解できなかった。
「さっきの質問の答えだがな」
景色に見惚れていたらとつぜん濱口が口を開いた。気の小さい岡村は思わず身体がビクン!と動いてしまった。
「はい?」
「さっきのアンタの質問さ。研究室で話してた、もしも凶事が立て続けに起こり続けたらって話だ」
「ああ、そうです。
「そうだな。それだよ。つまり追い詰められている状況なんだよな。供物を捧げたり、焚き火を囲んで祈りを唱えたり。裸で踊ったりする儀式もあるな。だがそれじゃ怒りは収まらない。さてどうするか」
「どうするんです?」
「もっと直接的な儀式をする」
「直接的な儀式?」
「ああ。また例えばの話なんだがな。とある場所に大きな川があって、そこに橋を作ったとしよう」
「はい」
「しかし川の流れが強いからか、雨が降って増水するたびに橋が流されてしまう。それじゃ住民は困るよなあ?」
「そうですね」
「もちろん今みたいに鉄で作った橋じゃねえからってのもあるけどよ。やたら流されちまう橋なんて不気味だよなあ。ま最初は供物捧げたりすんだろうな。どこそこのありがたい木とか使ってみたり。でもそれでも流される。さて、そうなったらどうするか」
「どうするんです?」
「もっと重たい供物を捧げんのさ」
「重たい?物理的にですか?」
「違う。価値としての重さだ」
「それって‥つまり‥」
「人の命。文字通り
重く、冷たい言い方だった。
濱口は岡村と話している最中ずっと前を見据えていた。運転中であるから当たり前のことなのだが、その目はどこか遥か遠くを見つめていた。その目に光はなく、まるで真っ黒なビー玉のようであった。岡村はその目が怖いと思いつつも、しばらく目が離せないでいた。
そうしているうちに、車は牛久尾村へと到着した。
続く
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