クダンの件

三文士

第1話

寒空の東京、神保町。


春はとうに訪れているはずなのに突然の冬日である。白い息こそでないものの、勤め人と思しき連中はみなトレンチコートの襟を立てて歩く。


岡村はすずらん通りの裏路地に入り「スタンドそば」と書かれた紺色の暖簾をくぐる。


「っしゃーい」


六人も入ってしまえば満杯な店内。朝の九時とは言え先客が一人、かき揚げをかじっていた。


「かけそば。大盛りで」


「あい。三百円ね」


昭和の臭いがこびりつく店内には券売機などというものはない。オヤジと客のやりとりのみである。かけそば一杯二百五十円。大盛りは五十円まし。ここのそばは盛りがいい。昔から変わらない。


岡村が百円硬貨三枚を手渡すと、オヤジは汚れた前かけで手を拭いてそれを受け取った。オヤジの手は少し濡れていた。


「かけ大盛りぃ」


二分とたたず受け渡し口からそばが出てくる。受け渡し口にしろ食べる用のテーブルしろ全体的に店の中の物は位置が低い。かき揚げをかじっているサラリーマンはやり辛そうだが、背の低い岡村にとってはかえって好都合だった。岡村にとって、今の世の中はなんでも高すぎる。


どんぶりの中には真っ黒なつゆとそば。そして山盛りのネギとワカメがのっている。本来、かけそばにワカメはのっていないのだが岡村がそばを頼むと必ずワカメが付いてくる。店からのサービスだ。一度、岡村の方も気を遣ってワカメそばを頼んだことがあった。しかしオヤジはかけそばの料金しかとらなかった。それ以来、岡村はずっとかけそば大盛りだ。


もう十年以上になる。神保町のこの立ち食いそば屋で初めて岡村がかけそばを頼んでから十年以上だ。


ズズズーッ、ズズズーッ


はふはふはふはふ


ズズズーッ、ズズズーッ


岡村はワカメ入りの大盛りそばを勢いよくかっ込み、うす汚れたプラスチックのコップの水を一気に飲み干した。


「はー。ごっそさん」


楊枝をくわえて暖簾をくぐる。ずいぶんとオヤジ臭い仕草だがもうすっかり習慣になってしまっていた。それに、岡村ももう四十近い。オヤジ臭い仕草をしなくても充分にオヤジなのだ。


すずらん通りを出て九段下の方に真っ直ぐ歩く。大通りに面した老舗の古本屋の角をまた一本裏に入る。


古ぼけたビルが一棟立っている。ここもそば屋同様にずっと変わらない。エレベーターのない四階建の階段を昇っていく。コンコンと建物内を靴の音が反響している。


一番上の四階まで来ると心なしか息があがっている自分に気付く。いつからだろうか。ひゅうひゅうと妙な音が、肺の奥から鳴り出すようになっていたのは。


煙草、やめようかな。もう何度もそう思ったがこればかりは実現できた試しがなかった。時代の流れとか健康とか、岡村にとってそれは余裕のある人間の考えることだった。今の岡村には余裕がない。毎日が精一杯過ぎる。妙な音は年々大きくなっていくが、岡村にはどうすることもできなかった。


遊神社ゆうじんしゃ」と書かれたガラス張りの古びたドア。岡村はそのドアノブに手をかける。


陽当たりの悪い二十畳ほどの部屋に事務机が三つ。傷だらけでボロボロになった来客用のソファとテーブル。テーブルの上には乱雑に置かれた本と牛丼の持ち帰り用の丼が積み重なっている。奥にあるバカでかい本棚にはショッキングな見出しと色の背表紙がぎゅうぎゅうに押し込まれている。


「あ、なんだ岡村さんか」


「やあ鈴木くん。おはよう」


鈴木と呼ばれた男は二十代前半の若者で男にしては長めの茶髪をしていた。メガネをかけたひどい猫背で、いつも青白い顔をしているようだった。なんだ、という口ぶりから岡村への態度はあまり良いものではないととれる。岡村の方もなんだかよそよそしい態度だ。


「あのぅ、加藤さんいる?」


「社長いないですよ。まだ出社してないです。なんか用ですか?約束してます?」


「いや、約束はしてないんだけどね。じゃあ少し待たせてもらおうかな」


「良いんすか?いつ来るか分かりませんよ」


「うん大丈夫。オレ特に予定とかないから」


「あ、そう、ですか」


いかにも煩わしいなという表情をしてから、鈴木はノートパソコンに顔を戻した。


散らかった来客ソファにスペースを探して腰掛ける。ひとまず一服しながら待たしてもらおうと、岡村は懐から煙草を取り出し火をつけた。その瞬間にこれ見よがしの大きな咳払いが聞こえてきた。見ると、鈴木がもの凄い形相でこちらを睨みつけている。


「あれ?ココ禁煙だっけ?」


「はい」


「あ、そうなんだ。ええっと、先月来た時は吸ってたけどな」


「今月から。禁煙なんで。勘弁してください」


そう言うと鈴木は灰皿をひったくり奥に持っていった。煙草を奪われて、岡村はすっかり手持ち無沙汰になってしまった。


十五分くらいもじもじしていたが、そのうちどうにも堪え切れず立ち上がった。


「鈴木くん。この近く煙草吸える場所ある?」


「え?煙草?喫茶店とか?」


「いや、喫煙所的な」


「ああ。ビルの前に灰皿置いてますよ」


「どうも」


居ても立っても居られず、岡村は部屋を飛び出して階段を駆け降りた。煙草が吸いたい。吸うなと言われれば、無性に吸いたい。


一番下まで降りて辺りを見回し、置いてあった筒状の灰皿に駆け寄る。懐からさっき吸いかけた煙草を取り出して火をつけた。煙を大きく吸い込む。口から喉を通り、有害な煙が肺に浸透していくのが分かる。身体は嫌がっていても脳には快感の穏やかな波がおとずれる。


美味い。この瞬間が岡村の人生で数少ない至福の時だ。しんと冷えた春の空気で煙草が一段と美味い。


「あれ?なんだよ岡村かよ」


「加藤さん!」


声に振り向くとスーツを着た中年の男が立っていた。男はがっしりとした身体つきで肩はばが広く、対峙した相手に圧迫感を与える印象だった。唇が分厚く眉毛が太い。全体的に暑苦しい顔なのだが目が大きくてまつ毛が無駄に長い。坊主頭で色が浅黒く、気温とは反対に南国のような雰囲気をまとっている。この男が先ほどの「遊神社」の社長兼編集長、加藤であった。


「なんだよ借金取りかと思ったじゃねえか」


「やめてくださいよ。こんな貧相な借金取りいないですよ」


「そうだな。借金取りっていうか、貧乏神だよな」


「笑えないですよ、加藤さん」


「笑えよ。おまえが笑わなかったら誰が笑うんだよ」


「加藤さん」


「笑えよ」


加藤は口元こそにやけていたが目は全く笑っていないかった。暗く、とても冷たい目をしていた。貧困が冗談にできるほど加藤もまた余裕がある人間ではなかったのだ。


「で、なに?今日はなんで来たの?」


「聞かなくても分かってるじゃないですか。例の記事、言われた通りS社に持って行ったけどダメだったんですよ。加藤さんのとこで買ってください」


「ああ、アレね。いやあ。アレはダメだろ。つまんねえし。ソースも不確かだし。アレじゃ素人の妄想ブログだよ」


「そんな。酷いや。加藤さんが書けって言ったのに」


「おまえな。ただ書けばいいってもんじゃねえの。調べろよ。足使えよ。何年やってんだよ」


岡村は加藤の言葉にすっかり打ちのめされてしまっていた。


岡村はフリーのルポライターを名乗っているが、取材があまり得意ではなかった。得意でないというよりも、好きではなかった。加藤のように足を使ったり人に接触して情報を得るということが不得手であったし、仮に話せても有益な情報を引き出すことができなかった。決定的に会話能力に欠けている部分があった。岡村はお世辞にもルポライターに向いているとは言いがたい男であった。


「とにかくあんな記事は買えねえよ。ただでさえアクセス数落ちてんのにあんなの載せたらまたSNSで吊るし上げだ」


「そんな。あの時は、俺のせいだけじゃないでしょう」


「でも岡村さんの書いた記事でした」


煙草を吸い終えた岡村は遊神社の事務所で加藤と鈴木から叱責を受けていた。


「今は素人でもアレコレ詮索できる時代だ。嘘っぱち書くにしたってユーモアのセンスがなきゃダメだ。センスもねえ、信憑性もねえじゃ相手にすらされねえんだよ」


「僕だって毎日最低二つ記事上げてるんですよ。リアルとジョークの両方。それだって一定のアクセスがつくのに二年くらいかかったんですから。週一でしか書けないようじゃ今の時代すぐ埋もれますよ」


加藤と鈴木の言葉はもっともだったが、岡村にとってはただ頭上を過ぎていく言葉にすぎなかった。ただこの時が早く終わってくれればいい。岡村はそれだけを考え、頷いているふりを続けた。


「ま、とにかくだ。おまえも書いてくるんだったらもう少し詰めて持ってこい。俺だってヒマじゃねえんだからさ」


「僕も岡村さんの記事ばっかり校閲できないですよ。ウチはそんな人の余裕ないんだから。持ち込みの人にはみんな自分で確認してもらってますから」


「はい。はい。ごもっともです。以後、気をつけます」


「じゃ、今回のはボツ。次また頑張れや」


「はい」


そう言って加藤は手で追い払うような仕草をしたが、岡村は俯いて机の前に立ったままだった。


「なんだよ」


「いや、そのぅ」


加藤は分かっていて聞いている口ぶりだった。岡村から確信的な言葉を引き出す為にわざと聞いている。


「まだ用事あんのかよ」


「いやじつは、しばらくロクな飯を食ってなくて」


「おう」


「で、また少し借してもらえませんか」


「またかよ」


嫌な空気だった。人が金を借りる時に生まれる独特の濁った空気が漂っていた。鈴木は耐えきれず席を立って何処かに行ってしまった。


「あのなあ。昔のよしみであんまり返せとか言わねえけど、俺だって余裕ないんだぜ。従業員も抱えてるし」


「はあ」


「おまえもそろそろ定職に就けよ。もうギリギリだろうが」


瀬戸際どころではなく既にドロ沼にハマっているのは明らかだった。しかしハマっている当人も、そこに誘い込んでしまった加藤もそれはあえて口にできないでいた。岡村がこうなってしまった責任の一旦は加藤にもあるからだ。



もともと岡村はM県の出身で、高校を出た後そのまま地元の工場に就職した。


大きな精肉会社の工場で働いていたのだが、不況のあおりで入社六年にしてリストラにあった。確かに岡村は有能な工員とは言い難かったが、あまりに急で不当な解雇は明らかであった。しばらく働かずにくさっていたところ、見かけない男に声をかけられた。


「○○精肉会社の工場で働いていた方ですよね?ちょっとお話し聞かせてもらっていいですか?」


男は記者を名乗り岡村に工場のことについて色々聞いてきた。


よく話してみれば記者といってもゴシップ記事ばかり書いている如何わしい雑誌専門のルポライターだった。だがしがないルポライターとは言え、岡村にとっては別世界に生きる輝かしい存在に見えた。


「俺はね。今はこんな雑誌にばかり書いてるけど、いずれのし上がってやるんだ。この内部告発記事をキッカケに、社会派のフリージャーナリストととしてガンガン新聞に記事を書いてやるのさ」


当時はスポーツ刈りでまだ目を輝かせていた加藤に惹かれ、岡村は取材に対し協力を惜しまなかった。内部情報を知る限りこと細かに話し、最終的には小間使いのようなことまでやっていた。


「アシスタントを雇えるほど余裕はないぜ」


と言われたが、それでも良いと身を粉にして働いた。


そしてごく自然に岡村は加藤と夜を共にするようになった。加藤は男色家だった。岡村自身は男性との関係は初めてだったが、加藤を受け入れるのに時間はあまりかからなかった。


「岡村くんさ、けっこう文才あるよね。レポート読んでるとそんな気がするんだわ」


寝物語に聞かされた話だったが、誰かに認められたことのなかった岡村が加藤と執筆の世界に熱を上げるには十分な素材だった。


それから十年以上が経過し、加藤は独立を果たした。だが岡村は彼の会社に雇ってもらえるわけでもなく、ただだらだらとした関係が続いていた。それは公私ともにであった。加藤にとって、岡村は都合のいい相手に過ぎなかった。岡村がそのことに気がついた時は、既に後戻りできる状態ではなかった。




「おまえに借してる額も結構増えてきてんだ。俺だって借金がある。このままじゃ双方共倒れだ」


「はい」


「そんな顔すんなよ。月曜の朝から景気が悪くなるだろうが」


「すみません」


ブツブツ文句を言いながらも、加藤は決まって最後には金を借してくれるのだった。


岡村は幾ばくかの金を受け取りそそくさと遊神社を後にした。


もう記事を買ってもらいに行っているのか金を借りに行ってるのか自分でも分からずにいた。少なくとも執筆の仕事に情熱があるとは言い難かったし、かと言って岡村の人生には他に何があるわけでもなかった。


こんな苦痛と退屈にまみれた人生は早く終わって欲しい。加藤と鈴木から叱責された時のように岡村はただ毎日をそうやって過ごしていた。


そんな金を借りた次の日の夜、珍しく加藤から電話があった。


「明日、ちょっと事務所に来てくれ。仕事の話がある」


もうそんなこと言われることもないだろうと思っていたのに、岡村はにわかに心がざわついた。まだ自分も見捨てられていなかったんだと思えた。


水曜の朝、岡村はいつもより少しだけ早く遊神社のドアノブをひねった。


いつも重役出勤の加藤が珍しく出社していて、鈴木と難しい顔で何かを話し合っていた。


「あの、加藤さん」


恐る恐る声をかけると二人とも驚いて飛び上がった。


「おお、岡村ちゃん。いや待ってたわ」


「おはようございます岡村さん」


「おはよう、ございます」


なんだか妙な雰囲気だったが二人がいつもより柔らかい態度で、岡村は戸惑いながらもホッとしていた。どうやら借金の催促ではないみたいだ。


「さっそくで悪いんだけどさ、ちょっと取材に行って欲しいんだ」


「え?取材ですか?」


「ああ。N県の牛久尾村うしくびむらってとこなんだけどよ」


「N県。ですか」


N県は岡村の地元であるM県の隣で、彼自身も何度か車で訪れたことがあるところだった。しかし牛久尾という名前は初耳である。


「そそ。地元近いっしょ。岡村ちゃんならうってつけじゃん。あそこら辺て閉鎖的な人多いから。東京から来たっていうより隣から来たって言った方が早く打ち解けられると思って」


「はあ」


「いや実はさ。N県に明新大学のキャンパスがあってさ。そこの学長で有野ってオッさんがいるんだけど、そいつから取材してくれって依頼があったわけよ」


「大学から?取材?なんのですか?」


「聖身教会事件のだよ」


「え!?聖身教会事件!?」


聖身教会事件は五年前に起きた宗教絡みの連続殺人事件だった。当時はニュースやワイドショーでも毎日取り沙汰されていたので岡村の記憶にも僅かに事件の名前が残っていた。


N県の小さな村に拠点のある聖身教会の信者二名が遺体となって発見された。遺体には信者という以外に共通点がなく、発見場所が教会の建物内であったことからカルト集団による過激な儀式によって行われた殺人ということになった。


当時教会を取り仕切っていた幹部三名が逮捕され、現在も裁判が続いている。


「なんで今さらあの事件の取材なんですか?しかも依頼って、大学から」


明らかに変だった。しかも都市伝説の類ならまだしも、こういった大掛かりな事件の取材を岡村に頼むなんて。なにかがおかしい。


「いやさ。いちおう犯人は幹部の逮捕ってことで決着してるだろ。けど、その後も事件の悪い印象がそのままN県のイメージになってるんだよ。明新大学は事件の少し前にキャンパスをオープンしたばかり。反対する親が多くて生徒は来ない。大学はあの手のこの手でイメージを払拭したいんだよ」


「へえ」


「へえ、じゃなくてさ。事件を背景にしつつ、それでも頑張って立ち直ろうとしてる村と県を取り上げて欲しいってんだよ。ま、いわば人助けだよな。立派な仕事だよ」


「なるほど。え?それでなんで俺が?」


「俺はここから動くわけにもいかないし、鈴木だって他にたくさん取材抱えてるんだよ。こういう時の岡村ちゃんだろ。な。まともな仕事だ。報酬も半金前払いする。引き受けるだろ?」


「いやあ。まあ」


「断ってもいいけど。借金。返せんの?」


「いつも仕事欲しがってたじゃないですか。ここで尻込みする必要あります?」


岡村に選択肢はなかった。加藤と鈴木から刺さる視線が、とても冷たく鋭いものに感じれた。

何故だか分からないが、彼らはどうしても岡村を取材に行かせたいようだ。


「幸い依頼主から提示された締め切りまで四カ月はある。いくらお前が遅筆でも、二万字書くのにそこまで時間かからねえだろ」


「心配しなくてもこの件に関しては僕も全面バックアップしますから。校閲もやりますから思う存分書いてください」


「はあ」


「どうするよ岡村ちゃん」


「岡村さん」


理由は定かではないが二人の態度には鬼気迫るものがあり、その目の奥にはまるで光がなかった。恐ろしい、と。岡村は素直に感じていた。


「じゃあ、やります。やらせてください」


結局その言葉が口から出てしまった。


明朝出発の電車のチケットまでしっかり用意されていたことから、そもそも岡村に断る選択肢はなかったのだとつくづく思い知った。


しかしどれだけこの取材が厄介なことなのだろうか。ただでさえ対人の取材が苦手な自分に、果たして大学側が納得するような記事が書けるのか疑問だった。


重圧と不安を身に纏い、岡村は遊神社のビルを後にした。


岡村が去った後、加藤は窓から外を眺め煙草に火をつけていた。


「社長。禁煙でしょ」


「うるせえ、俺の会社だ。俺が決める」


「もう!約束が違うじゃないですか!禁煙にするって言ったでしょ!?」


「ぎゃあぎゃあ喚くなよ。昔馴染みを処刑台に送ったんだ。煙草くらい吸わせろよ」


鈴木がムスッとした顔をしたまま、加藤の背中に抱きついてみせる。加藤は眉ひとつ動かさず煙草の煙を吐き出した。


「ふて腐れてるヒマあったらさっさと仕事に戻れよ、鈴木」


「ヤダ」


「おい。いい加減にしろよ。仕事が片付いたら好きなだけ相手してやるから」


「そういうこと言ってんじゃない」


「なんだよ?」


「社長。なんだかんだ言って、やっぱ岡村さんのこと気になってたんでしょ?」


「なってねえよ」


「嘘だよ!じゃあ、なんとも思ってない相手なのになんでそんな顔するの?おかしいよ」


加藤が鈴木の抱擁をふりほどき、抵抗する彼の唇を無理矢理に奪う。


「そんなやり方、ズルい」


「ズルくねえよ。したいからする。それだけだ」


「なにそれ」


「それにな。本当にもう岡村のことはなんとも思ってねえ。昔はアレが初心ウブだったから少しからかってたんだよ」


「本当?」


「本当だよ。ただちょっと良心が咎めてるだけだ」


「どうして?」


「そらそうだろ。いくらアイツがロクデナシでこの先の人生真っ暗でも、勝手に命を三百万で売っちまったんだ」


加藤は鈴木から離れまた窓を見つめる。加藤の背に鈴木がもたれかかる。


「アイツの借金はたかだか五十万に満たないんだぜ。それなのに俺は勝手に売っちまったんだ。アイツの人生を」


「別にいいじゃないですか。あんな人、生きてたって何かの役に立ってるわけじゃない。それに、あくまで満額の報酬ですよね?選ばれない可能性もある」


「まあな」


「じゃあ別にいいじゃないですか。今日は供養だと思って焼き肉でも行きましょうよ」


「お前、そういうとこ卑劣だな」


「社長も似た者ですよ」


「そうか、そうだな」


二人は恋人同士がそうするように、互いに見つめ合い笑っていた。けらけらとさも可笑しそうに笑うのだが目の奥は仄暗く、まるで笑っていないようにも見えた。


もしも世に恐ろしい人喰い鬼の夫婦がいるとすれば、きっとこの様な見た目に違いない。


そのような会話がされているとはつゆ知らず岡村は一人、明朝の電車に備えて早寝をしていた。



続く









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