扉がすーっと開いた瞬間、緊張の糸がぷつんと切れて、あたしはなかば転がるように、慌てて外へ飛び出した。

 天井が高いロビーには、まばらだけれど人がいて、ようやくホッと一息つく。


 今日はもう早く帰ろう。

 そう思ったのに、バス停に行くと運悪く、駅行きのバスは出たあとだった。

 仕方ない、歩くか。

 一刻も早くここから離れたくて駅を目指し歩き出したが、いくらも行かぬうちに気付いてしまった。


 入館証、返すの忘れてた!

 首から下げっぱなしだったそれを急いで外し、すぐ返すべきか明日でもいいか、しばし迷う。

 ああ、でもやっぱ、返さないとまずいか。


 しぶしぶ回れ右したところで、あたしの動きは止まってしまった。

 黄昏たそがれ時、あるいは逢魔時おうまがときと呼ばれる時間。

 人気のない住宅街のまだ浅い闇の中に、女が一人たたずんでいる。

 紺のセーラー服を着た、髪の長い女だ。

 顔は下ろした髪に隠れ、はっきりとは見えないが、こちらを見つめてくる視線を強く感じる。


『返せ』


 割れた声が、ポツリといった。


『指輪を返せ』


 もしやと思ったけど、そのセリフで確信した。

 コイツ、真緒がいってた女だ。

 今日もなんか視線を感じるとかいってたし、あれからずっと真緒のそばいていたんだ。

 それが今度は、あたしに憑いてきたってこと?

 なんで?

 だってあたし、指輪なんて──


「持ってないわ!」

『ウソつき!』


 叫ぶなり、女が動いた。

 驚くべき早さで、目の前に現れる。


『早く返せ!』


 掴みかかるように伸びてきた手は、寸でのところで弾かれた。

 バチバチと、静電気に似た衝撃が走り、女を後ろへ退けたのだ。

 その瞬間、長い髪が乱れて広がり、ギャーと叫ぶその顔が表に出る。

 骸骨に皮だけを張り付けたような、ひどくせこけたみにくい容貌。

 病気のせいか知らないが、そこに写真の面影はない。


 あんなキレイな子だったのに、これじゃあまるきり別人じゃないか。

 生き霊かもって石川いしかわさんいってたけど、自分の見た目より、指輪のが大事ってこと?


 少し離れたところからうらめしげににらんでくる彼女が、恐ろしくも哀れに思え、あたしは落ち着いて考えてみる。


 真緒からこっちに来たってことは、単純に考えれば、指輪もこっちへ来たってことだ。

 でも、そんなものもらった覚えはない。

 ノートとお菓子しか……もしかして!


 リュックを前に回し、急いでファスナーを開ける。

 出したのは、真緒からもらったコンビニの袋。

 真緒の荷物は、道に散らばったのを、誰かが拾って入れてくれたっていってた。

 そのとき、外れて飛んでった指輪も、紛れ込んでしまった可能性がある。

 例えば、何かの間、もしくは袋の中に。

 まずはお菓子を抜き取って、袋を逆さに振ってみる。


「ビンゴ!」


 道路に転がり落ちたモノに、思わず声が出た。

 細部はよくわからないけど、多分間違いないだろう。


「それでしょ、あなたが欲しいのは」


 そこから距離を取って叫ぶが、女はナゼか動かない。

 見えてないのかな?

 迷った末、指輪を拾い、彼女の方へ投げようと構える。


「ダメだ、渡すな!」


 聞き覚えのあるその声に、あたしは動きを止めた。


「石川さん?」

「『しん清明せいめい神水しんすい清明、神心しんしん清明、神風しんぷう清明、善悪応報、清濁せいだくしょうけん』」


 何か不思議な、呪文みたいなものが聞こえたかと思うと、女の全身から闇色の、霧のようなものが吹き出してきた。

 それと同時に、輪郭りんかくがドロリと崩れ、ヘドロ状の黒いかたまりとなったが、ぐ様、ぶよぶよふくれ上がり、倍以上高く伸び上がって、またいびつなヒトガタとなる。

 身の毛もよだつ咆哮ほうこうが、空気をビリビリ震わせた。


「やはりお前は、持ち主ではない。よこしまなモノは去れ」


 あたしをその背にかばう形で、目の前に現れた石川さんは、パンっと両手を打ち鳴らした。


「『あめ切る、つち切る、切る、天にたがい、地にとお文字ふみひめひとつ十々とおとおふたつも十々、みつも十々、よつも十々、いつつも十々、むつも十々、ふっ切って放つ、さんびらり』」


 言葉とともに生まれた光が、あれを攻撃したのだろうか。

 ドンッと激しい衝撃が起こり、目もくらむような閃光が、視界を一瞬白く染める。

 すさまじい断末魔の叫びに、チラッと様子をうかがえば、散り散りになった黒いモノが、光にまれき消されていく。

 やがて光も消え去ると、そこには手を付きうなれるセーラー服の少女がいた。

 透ける身体ははかなげで、今にも消え入りそうに見える。


「タマキさんの、ご友人の方ですね」


 石川さんの呼びかけに面を上げたその顔は、年相応のふくよかさを取り戻していたが、写真で見たあの少女ではなかった。

 もっと素朴であどけない顔立ちをしている。


「指輪を元の持ち主に、タマキさんに、お返し願えますか?」


 そう声をかけたとき、彼女の隣にもう一人、セーラー服の少女が現れた。

 とてもキレイな、あの写真の女の子だ。

 目を見張った石川さんは、「間に合わなかったか」と悲しげに呟く。


『リカ』

『ごめんなさい、タマキさん。わたし、あなたの婚約が許せなかったの。あなたを誰にも渡したくなくて、それで指輪を……』

『いいのよ。わたくしは指輪より、急にあなたがよそよそしくなったことが、ずっと気になっていたの。指輪をなくした責任を感じているなら申し訳なくて、学校へ持っていったこと何度も後悔したわ。だって指輪なんかより、あなたの方が大切だから』

『タマキさん……』


 タマキさんが差し伸べた手を取って、リカさんが立ち上がる。


「タマキさんですね。遅くなりましたが、ご依頼の品、お届けします。どうぞ、お納め下さい」


 石川さんは、あたしが持ってた指輪を受け取り、スッとかかげた。


「『はやかぜの神、取次ぎ給え』」


 そう唱えると、指輪は光の玉に変わり、あるじの元へふわりと飛んだ。

 それをぎゅっと握りしめ、タマキさんは、『これですべて元通りね』と満足げに微笑む。


『指輪と一緒に、リカまで戻ってきてくれた』

『でもわたし、タマキさんと同じところへは……』


 確かに、彼女のしたことを思えば、地獄行きとかになってもおかしくはない。


『大丈夫よ。リカは反省しているし、送って下さる方がいらっしゃるもの』


 タマキさんの言葉に、石川さんは苦笑した。


「ええまあ、送って差し上げることは可能ですが、そのあとのことまでは、どうにも出来ませんよ」


 そしてまた、胸の前で手を合わせる。


「『かくり大神おおかみ、憐れみたまい恵み給え、さきみたまくしみたま、守り給いさきわい給え』」


 一言一句はっきりと、神に祈りをささげれば、淡く光った二人の身体は、天高く舞い上がり、暮れなずむ空に溶けて消えた。

 キレイにそろった、ありがとうの声を残して。

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