降り終わる
案の定『マルヤマ』の中は大勢の人で賑わっていた。
仕事をやめて久しく、カレンダーもまともに覗いていなかったから知らなかったが、今日は運よく休日だったようで、子供連れの大人も多い。中には子供だけで出歩いているのもいる。
これは好都合だ。女や子供なんかの力の弱いやつは刺しやすくて良い。
俺は自然な足取りで店内をうろつきながら、絶好の通り魔ポイントを探した。
その結果、スーパーマーケットと本屋の間にある通路が最も人通りが多く、また見晴らしがよくて人を襲いやすく、周りも通り魔の現場を目撃しやすいだろうという判断に至った。
腰バッグのチャックを開け、そこに恐る恐る手を突っ込む。出刃包丁の柄が手の平に触れる。そっと握る。
この腰バッグから出刃包丁を取り出して、近くにいる人から片っ端に襲えば良い。
大丈夫だ、人を刺すなんて簡単なことだ。人を殴るくらい簡単なことだ。
殴ったことは二度、刺したことはすでに一度ある。
あのときの感覚を思い出す。大柄な不良の肩に切れ味の悪いカッターナイフをぶっ刺したときの感覚。あれをここで実行すれば良い。何の恨みもない、見ず知らずの人々に対して実行すれば良い。そうすれば俺は満たされる、はずだ。
俺はゆっくり、腰バッグから出刃包丁を取り出そうとした。
だが途中で、その手は止まった。邪魔が入ったわけではない。急に身体が固まったのだ。
腕から手の平にかけてが石になったように、出刃包丁の柄を握る手がまるで動かない。
動け、動け、と念じてみても、そのカチコチに凍った手が氷解する様子はない。
ここまで来て尻込みか。どうせこのまま生きていたってろくなこともないのに。
俺は柄を握る右手首を左手で掴み、無理やりにでも出刃包丁を引っ張りだそうとする。
ダメだ、動かない。自分が最後にこんなに踏ん切りがつかない人間だったのか。
あの不良を刺したときも、部長をぶん殴ったときも、躊躇なんかしなかったのに。
なんか段々とやる気が失せてきて、今日はもう帰ろうかと思い始めた、その矢先だった。
「きゃああああああっ」
背後で女性の悲鳴が響いてきて、鼓膜を鋭く射抜いた。
驚いて振り返ると、人々が狼狽えた表情を浮かべて逃げ惑っている。
通路の中心に、一人の若い女性が倒れている。腹部から床に赤黒い液体を垂れ流して。
その女性の前に、一人の男がぼんやりと立っている。頭が薄く、中肉中背の、中年くらいの男だ。白いシャツとジャージのズボンという簡素な格好の男。白いシャツには、床に倒れる女性の返り血なのか一部がペンキを塗ったようにべっとりと赤く汚れている。片手には
――あれは、そう、あれはナイフだ。サバイバルナイフくらいの、太いやつ――。
ふと虚ろに宙を見上げていた男が目線を動かした。俺と目が合った――気がした。
いや、恐らく目は合っていた。だって男はその後、呆然と立ち尽くしていたのが嘘のような速さで俺の方へと駆けてきたからだ。
俺は狼狽して動けなかった。普通なら逃げるべきなのだろうが、その逃げるという単純な選択肢がぱっと頭に浮かんでこなかったのだ。
迫ってくる男の姿がスローモーションに見えた。大きなナイフを振り翳し、猛犬のような形相で駆けてくる男の姿が、ゆっくりとした動作で眼前へと近づいてくる。
そのナイフを振り上げている腕は拳を振り上げているようにも見えて、その顔はどことなく高校生のときに殴って刺したあの大柄の不良を連想した。いや、連想しただけではない。
重なった。あの大柄の不良の姿と、その男の姿は、一瞬ではあるが確かに重なった。
そのとき手は勝手に動いていた。その男に向かって、無謀にも拳を突き出していた。
どんと鈍い衝撃が手の甲に伝わった。咄嗟に目を瞑った。音が何も聞こえなくなった。
その間は、数十分は時間が経過した気もしたけど、きっと実際は数秒ほどだっただろう。
周囲の音が戻ってきた。喧騒と息を飲む音と、歓声にも似た声。
恐る恐る目を開けた。俺の目の前に、あの中年の男が床に手足を大の字にして伸びていた。
視線を見下ろす。俺の腹に大きな穴が開いていることも、ナイフが突き刺さっていることもない。血も流れていないし、至って平常なだらしない腹のままだった。
もう一度、床に仰向けで倒れ込んでいる中年の男の方に視線を戻す。
男は半開きの口からくすんだ舌を覗かせ、白目を剥いた間抜けな顔で気絶していた。
ナイフは男の隣に無造作に放り出されていた。
もしかして――これは俺がやったのだろうか?
俺は戸惑ってきょろきょろと周囲を見渡す。人々は皆一様に驚いた表情、安堵した表情を浮かべて床に伸びる男を見遣り、俺に対しては尊敬にも似た視線を向けてきていた。
普段の小さな善行をした程度では、決して向けられない類の視線だった。
いや、それだけではない。視線だけではないことに、俺は気付いた。
カメラだ。正確にはほとんどが携帯電話のカメラを、俺と床に伸びる男に向けていた。パシャパシャ、カシャカシャ、あからさまに撮影する音があちらこちらで響いた。まるで動物園の動物を撮るように、無遠慮にパシャパシャ、カシャカシャ。
今まで感じたことのない、得体の知れない不快感が込み上げてきた。
一瞬「撮るな!」と怒鳴りたくなった感情は、四人の警備員が現れたことで途絶えた。
俺は咄嗟に腰バッグのチャックを締めた。中には出刃包丁が入っていたから。
その四人の警備員のうち一人は先程、男に刺されたであろう女性の元へ駆け寄り、もう二人は気絶している男に組み付いて男が気を失っているうちに男の動きを封じ、もう一人は未だに白昼夢の中のように呆然と立ち呆けている俺に声をかけてきた。
「あなたですか? この男の犯行を殴って止めたのは」
「――は、はぁ」
俺は何と答えていいかわらかず、遅れた上にシドロモドロの要領を得ない返事になった。
「すごい勇気と技術ですね。何か格闘技でもなされていたんですか?」
俺は首を横に振った。格闘技どころか、ろくにスポーツに打ち込んだこともなかった。
しかし、その警備員は俺が格闘技をしているかどうかは、心底どうでもいい様子だった。
「今警察を呼んでいますので、こちらで待っていていただけますか?」
マニュアルなのか、警備員は俺を警備員室に案内し、そこで待機するように命じた。
警察が到着するまでは、警備員室の時計を見ていた限り、十分とかからなかった。
厳めしい顔の警官に声をかけられ、事情聴取っぽいものを受けた。
黒皮の手帳を開き、一々メモを取りながら、俺に質問を投げかけてきた。
「あの通り魔犯を殴って倒したというのは、あなたで間違いないでしょうか?」
「はい」
「お名前は?」
「――――です」
「年齢は?」
「――――です」
「住所は?」
「――――です」
「電話番号は? できるなら携帯電話の番号が望ましいです」
「――――で――――です」
「ここにいらした目的は?」
「その――か、買い物です」
まさか自分も通り魔をしに来たとは言えず、嘘をついた。
「あの通り魔犯の男と面識はありますか?」
「ありません」
「あんな男を殴り倒せるとは相当な勇気と技術ですが、何か格闘技の経験を?」
これは警備員にされた質問と同じだった。
「いえ、そのような経験はないんですが――」
変に思われるかとも思ったが、正直に申し訳なさそうな調子で答えた。
警官は別段、何か可笑しいとも思っている風ではなかった。
「そうですか、まぁそういうこともありますよね。少なくともあなたの勇気は称賛に値する」
警官はメモを取るのを止め、ぱたんと手帳を閉じた。
「ありがとうございました。もう帰ってよろしいですよ」
「え? もういいんですか?」
「はい、いいですよ。このままあなたを拘束していても、何にもならないじゃないですか」
俺は案外呆気なく解放された。いや、犯罪の当事者以外はわりとこんなものかもしれない。
警官は何やら無線で誰かと話すと、帰り際ににっこりと笑ってこう言った。
「――さん、もしやすごいお手柄かもしれませんよ。何せ、あなたが殴り倒し、警備員が取り押さえ、私どもが逮捕した犯人は、つい昨晩にこの近くで通り魔事件を起こしたばかりの男だったんですから。後日、こちらから感謝状を授与させていただくかもしれません」
俺は警官の言葉に「はぁ」と相変わらずの生返事をし、そそくさと警備員室から逃げるように飛び出した。
『マルヤマ』店内から駐車場に出ると、赤いランプの光を遠慮なしに撒き散らすパトカーが目に入った。
もう一台、救急車も停まっていた。救急隊員が担架の上に誰かを乗せて、救急車に乗り込んでいる。恐らくあの刺されていた若い女性だろう。救急車は担架を積み込むと、ピーポーピーポーと、喧しいサイレン音を轟かせながら駐車場を出ていった。
頻りに携帯電話のカメラ機能で撮影しまくっていた野次馬も、徐々に散り始める。
今から腰バッグから出刃包丁を取り出して、そこらにいるやつを刺して回っても良かったのだが、やる気は疾うに失せていた。それに、馬鹿らしくもなっていた。
雨はまだ降っている。俺は傘を差して歩き出し、『マルヤマ』の駐車場から出る。
家のある方角へと、漠然ととぼとぼ力のない足取りで歩いた。
段々と落ち着いてきて、白い靄に覆われていた思考もはっきりしてくる。
なにがなんだか、今にもなってもまるでわけがわからなかった。
通り魔をしようと出かけたら、逆に通り魔を捕まえてしまった。そんな落語の小話みたいな話がそう簡単に現実に転がっているだろうか?でも現に、俺はそうなった。
あの通り魔犯を殴った、自分の手の甲をぼんやりと眺める。何も変わらない手の甲だ。
あのときの感覚は本当に、自然と手が出たとしか言いようがなかったし、自分でも信じられないが無意識下であの通り魔の男を殴ったというのは間違いがないようだった。
ただ、一瞬不良の姿と重なったにも関わらず、殴っただけで腰バッグに入っていた出刃包丁を使用しなかったのは、意外とまだ残っていた俺の理性的な部分が働いたせいかもしれない。
それはともかくとして、格闘技も何もしていない俺があの通り魔犯の男を殴ったのは事実だった。俺の記憶が証明できなくとも、周囲の傍観していたやつらが証明するだろう。
そうか、写真を撮っていたやつか。写真を撮っていたやつもいたのか。
あのパシャパシャ、カシャカシャと当然とばかりに鳴らされるシャッター音を思い出す。
通り魔をすることが今更馬鹿らしくなったのは、あれのせいだった。
きっとあいつらは、ああやって携帯電話のカメラ機能で撮影した画像を、SNSにアップするのだろう。編集して動画にするかもしれない。とにかく、一度撮ったからには黙って取っておくとか、黙って削除するとか、そんな真似はしないだろう。ネットで投稿して、「こんな大変な現場に居合わせちゃったよ」と野次馬自慢をするのは目に見えるようだった。
そこで俺は改めて気づいた。気づいてしまった。
連中にとっては、通り魔犯もしょせんは失言や失態で炎上した芸能人や政治家と同じ、炎上の種であり、暇潰しの玩具でしかないのだと。そこには畏怖なんてものはない。動物園の動物に、畏怖の感情なんか抱かない。刺された当事者でもない限り、近くで通り魔犯が暴れようが、遠くで暴れようが大した違いではない。だって自分とは関係ないのだ。自分とは関係のない悪行に、恐怖などしない。「怖いなー」と表面的に呟いてみるくらいだ。
俺が通り魔をしたところで、きっとそうなのだろう。
刺した張本人たちに恐怖を植え付けられたとしても、その他の連中には何のダメージも負わすことはできない。連中は俺が起こした事件を玩具にして遊びに励むだけだ。
善行をしても見向きもしなかった連中に、善行しなければ見下した目でこちらを見てきたような連中に、遊ばれてお終いだ。
進んで悪行をすれば救われるのではないか、という俺の考えは、浅はかだった。
悪行をしたって結局のところ、善行をしなかったのと同じだ。
何をしてもしなくても、誰かに馬鹿にされ、嘲笑されていることには変わりない。
そんな風に思うと、何もかもが放り出してしまいたくなるほどしょうもなく感じた。
あんなやつらに笑われるくらいなら、俺の方が笑う立場になってやる。
やつらのことを見下して、善行も悪行もできないやつと貶せる場所に行ってやる。
俺は遅いながらも湧いてきた怒りと一緒に、そんな妄言を頭の中に吐いた。
明日には忘れているかもしれない。でも少なくとも、もう通り魔は懲り懲りだった。
ふと雨粒が傘を揺らしていないことに気付く。傘を下ろしてみると、雨はもう止んでいた。
その代わり、空は変わらず曇り空。まだいつ雨が再開しても可笑しくなかった。
しかし俺はビニール傘を閉じ、道中にあったコンビニの傘立てに差し込んで置いていった。以前に、そのビニール傘を盗んだコンビニの傘立て。いずれ元の持ち主が、戻っていることに気づいて持って帰るだろう。
それから途中で狭い橋の上に差し掛かった。ぼんやり見下ろすと下には濁った川が流れていた。
俺は腰バッグから出刃包丁を取り出すと、その濁った川にそれを投げ込んだ。出刃包丁は何度か茶色い水の上にぷかぷか浮いたかと思うと、沈んで見えたくなった。
俺は再び歩き出した。曇り空に晴れ間はまだ拝めそうにない。
とりあえず、明日にでもハローワークに行って仕事を探そう。
通り雨 すごろく @hayamaru001
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます