無職
会社を退職後、俺は何もせずにだらだら日々を消費した。
基本的に家の中に引きこもって、外にはあまり出なかった。
外に出ると真っ先に他人の視線が気になった。
例えばバスに乗っていたとき、目の前に腰の曲がった老婆が立っていたときなんかは良い例だ。
俺は初めのうちは満員のバスの中で確保できた席を譲るのが癪で何食わぬ顔で座り続けていたが、そのバスの中にいた乗客全員が、俺に視線を寄越している気がするのである。責めてくるような視線だ。席を譲らない俺を、非人間のように思っている視線だ。半ば妄想なのはわかっている。わかっているが、汗が全身からだらだら流れ出てきて、結局その老婆に席を譲った。そうしたら視線を向けられている感覚は消えたが、代わりに誰も自分を見ていないような気がした。せっかく席を譲ったのに、善行をしたというのに、誰も俺のことなんかちっとも気にかけないのだ。だって席を譲るなんてのは常識レベルの当たり前のことだから。老婆だって席を譲られたとき、感謝の言葉の一つもなかった。自分は老人だから席を譲られるのは当然という顔をして、席について一息つくだけだった。
外に出るたびにそういうことを感じた。
この世では善行をできるタイミングが溢れていて、それは唐突に目の前に現れる。無視して通り過ぎようとすれば、周りからは非難の目で見つめられ、手を出したところで誰も気にすら止めてくれない。いっそのことマザーテレサのように、世界規模の大きな善行をすれば、周囲だって俺を褒め称えるのだろうが、生憎そんなことをする金もやる気もない。街頭やコンビニの店先の募金箱に小銭をいくらか落としたところで、小さな自尊心すら満足に養えやしない。ひたすら虚しくなるだけだ。
俺が家に閉じこもって、ほとんど外出しなくなるのも、頷ける話ではないだろうか。
家に閉じこもっていると、飯を食うことと寝ること以外にやることがない。精々テレビを観たりネットを覗いたりして暇を潰すようになった。
テレビは適当にチャンネルを操って、大抵はくだらないバラエティかワイドショーのようなニュース番組を観ていた。
ネットの方は動画サイトにアクセスするときもあったが、SNSにアクセスしていることが多かった。
別に誰とも繋がってはいなかったが、SNS上にたまに話題になる炎上事案を見つけ、そこに並ぶ攻撃的な文字の羅列を見つめて鼻をかむのが日々の日課の一つになっていた。
誰かが何かしらの失言をしたり失敗したりして炎上したときの、ネット上でのネットユーザーの盛り上がり方は異常なものがあった。
喜々として揚げ足を取りたがる輩が湧きに湧き、その当事者をどれだけ苛烈な言葉で責め立てられるかと、躍起になっているのだ。
テレビもそれと大差なかった。
芸能人が不倫騒動やら薬物騒動やら起こそうものなら、まるで獲物を狙う猛獣の如く食いついて言葉尻を曲解し、勝手な推測や憶測を垂れ流し、人権を無視しているのでは疑うほど叩く。政治家の汚職事件などさらにこれの比ではない。このまま叩き殺さんばかりの勢いで、冷静に眺めてみれば狂気としか言い表しようがない。
善行のニュースは報道されたって一瞬だ。
ネットでだって話題になったとしても、すぐに炎上のニュースが覆い被さり、その中に埋もれるだけ。誰もが他人の善行よりも悪行に注目していた。
善行をした人間はすぐさま横目で見送るくせに、悪行をした人間に対しては一度獲物に食らいついたワニのようにきつく噛み付いて離さないのである。
俺はそれを、下には下がいるという卑下た安心感と、優越感を確保するために漠然と眺めていたわけだが、とある通り魔犯が逮捕されたときの炎上に、俺は目を奪われた。
その通り魔犯は夜の路上で二人の男女を殺害し、一人の男を重体にした犯罪者だった。
いや、炎上自体は普段と大して違うものではなかったのだ。
よくある批判、よくある注意喚起、よくある中傷、よくある罵詈雑言のオンパレード。
しかし普段の炎上には感じない、何というか違和感のようなものがある。
何だろうか、この胸を締め付けるような感情は。少なくとも安心感や優越感ではない。もっとこう――憎しみに近しいような――。
あぁ、わかった。俺は気付いた。この感情は――嫉妬だ。
俺は羨ましく感じていたのだ。その通り魔犯のことが、羨ましかったのだ。
炎上で叩かれる芸能人や政治家の多くは、普段は善人ぶった言動や行動をしていた輩が大半だった。
世間にはそういう顔を見せていたぶん、裏の顔が暴かれた途端に世間から反発が起こり、叩き行為が加速し、炎上に発展する。どれだけ善行を積んでいても、いやむしろ善行を積めば積みほど、一度の悪行で一気に積み上げてきたものは瓦解し、完膚なきまでに叩かれ、燃やされ、軽蔑される。そういうのが俺のよく目にする炎上というやつだった。
しかし、その通り魔犯の炎上は違った。というか、犯罪者の炎上自体がそれらとは違った。
なぜならその通り魔犯を含め、犯罪者というのは悪行から人目に触れるからだ。
善行なんかしたことがないような連中だし、していたとしても誰の目にも入ってきていない。そんなやつが急に誰かを殺したり、問題を起こしたりして、世間で有名になる。人々はそいつらの善人の顔を知らない。いや、そもそも善人の顔なんてあったかどうかも怪しいが、あったとしても誰も知りもしなくて、純然たる悪人としてそいつらは叩かれる。
そうなってくると、人々の中傷と憎悪を込めた文章や単語にも、他の炎上とは違う意味合いが含まれているような気がするのだ。芸能人や政治家なんかの炎上と違い、そう、畏怖だ。
自分には理解できない異分子を差別し、排除しようとする畏怖の念だ。芸能人や政治家への叩き行為が嘲笑や軽蔑なのに対し、犯罪者の叩き行為には、人々の畏怖の念が見え隠れてしていたのだ。
俺はそれが羨ましかった。そういう目で見られている連中に、嫉妬するほど。
それは高校生のときに俺が周囲から向けられていた視線と、同一のものだったから。
今から振り返っても、俺の人生で最も安息だったのはあの高校時代だったと思う。
善行をしても誰にも見向きもされなくて虚しくなる。善行を何一つせずにただ呑気に生きても周りから非難と嘲笑の目で見られている気がして憂鬱になる。そんな複雑な俺の心境を救ってくれたのが、あの視線だった。あの警戒と畏怖と、異分子に対する排除への意識の目が、間違いなく俺の精神に一時の安息を与えたのだ。
自分がかつて向けられていたものを、今どこかの留置所に収容されているやつが独占している。それが酷く羨ましくて、妬ましくてどうしようもなかった。
俺ももう一度そっち側へ行こう。そう決心するには、半日とかからなかった。
通り魔をしよう。何人かをぶっ刺そう。一人くらい死ぬだろう。
思い立ったが吉日。俺は興奮冷めやらないうちに、近所の百円ショップで出刃包丁を購入した。
出刃包丁を選択したのに理由はない。殺傷能力が高そうだと思っただけだ。
購入した出刃包丁を砥石で研ぎながら、次に襲撃場所を考えた。
スタンダートは商店街とか人通りが多いところで、包丁を振るうのがベターだろう。しかし生憎、この近所に商店街はない。いや、商店街の残骸ならあるが、シャッターの降りた店しかなく、開いているといえば床屋くらいで人通りなんかめっきりない。
この近所で人通りが多い場所――それを考えると、襲撃場所はおのずと一つに絞られた。
『マルヤマ』という名前の大型商業施設。あそこならこの近所で最も人が集まる。
なるべく多くの人間に俺の姿を見せるのだ。突如降って湧いた、純粋な悪人として。
善は急げならぬ悪は急げと、俺は通り魔の計画をさっそく翌日に決行することにした。
翌日、昼過ぎに起こると、俺は娑婆での最後の食事としてカップ麺を食べた。
粉スープを入れた容器に湯を注ぎながらテレビを点けたときには、興味もないスポーツ選手のインタビューが流れていた。スポーツ自体に興味がなかったから流し見した。
湯を注ぎ終えたら蓋をして、三分待てば完成。蓋を開けると、湯気がもわっと噴き上がる。
テレビからは先程の明るい調子とは打って変わって、深刻そうなレポーターの声。
『昨晩、○○県○○市○○町のこの場所で、通り魔事件が発生しました。二人の男性と三人の女性が刃物で刺され、二人が死亡。二人が重傷。一人が軽傷のこの事件、犯人と思われる男は、現在も逃亡中で、警察が行方を追っているもようです――』
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます