高校生

 劣等感と羞恥心に苛まれながらも、だがしかし、俺は卒業して心底から安堵した。なぜならもう鈴井や佐伯に会うこともなかったからだ。

 鈴井と佐伯は勉強が良くできたため、地元の進学校へと進んだ。

 俺はといえば、不登校でろくに授業も受けず、また自宅でぼんやりと引きこもっているときも勉強なんかしていなかったもので、卒業時の成績は下から数えた方が早いほどのものだった。

 そのため、俺に残されていた選択は、試験の答案用紙に自分の名前さえ正しく書けていれば入学できると噂の底辺高校しかなかった。

 それでもまぁ、鈴井と佐伯から離れられることは嬉しかった。

 あの軽蔑した視線を向けられることがないのだと、そう思うと未来がようやく明るく開けたような気さえした。

 如何せん不良の溜まり場と評判の高校でもあるものだから、あの不良被れどもとは同じ高校に通うことになってしまったわけだが、鈴井と佐伯がいない上に、他のクラスメイトたちも俺や不良被れどもよりは成績が良くて他の高校へと進学していったぶん、新しい学生生活は以前よりは幾分か気楽なものだった。

 今度こそ静かに平穏に暮らそう、そう決心した。そう決心した矢先に、出鼻を挫かれた。

 きっかけは不良被れの集団が何やら話しながらよそ見して歩いているところに、その中の一人に肩をぶつけてしまったことだった。

 もっとも、不良被れどもは高校生になって髪を各々奇抜な色に染め、未成年にも関わらず煙草を吸ったり酒を飲んだりするいっぱしの不良集団になっていたが、それはともかく。

 肩をぶつけたことで、俺はそいつらに目をつけられる破目になった。元々同じ中学校だったから、そのせいかもしれない。

 不良どもは肩をぶつけただけなのにビビッて地面に土下座する俺の頭を踏みつけ、「ここ一週間、俺たちのパシリをやるなら許してやってもいい。もちろん代金はお前が支払え」と偉そうに言った。

 すっかり暴力に委縮していた俺に反論なんかできる余裕はなかったから、二つ返事でその命令に従うことを誓った。今から思えばかなり軽率だった。

 俺は一週間、そいつらのパシリをした。

 教科書を忘れたと言われれば貸したし、宿題を写させろと言われたら抵抗することなく自分の宿題を見せ、昼休みにジュースやパンを買ってこいと言われれば急いで買いに行った。少しでも遅くなると容赦なく殴られた。

 一週間で終わると思っていた。そもそも、その考えが間違いだった。

 一週間が経つと、不良どもは俺にこんな風に抜かしてきた。

「ダメだ、まだ許せない、あともう一週間だ。あともう一週間、パシリをしろ」

 逆らえなかった。俺はもう一週間、パシリをした。しかし一週間経てば、また同じようにもう一週間と言われパシリをし、また一週間経てば同じように――。

 あとは特筆すべきことではない。いつの間にか不良どものパシリは俺の日常になっていた。

 悔しいという感情はあった。忌々しいという感情はあった。それでも毎日パシリをした。

 不良どもの昼食代をほぼほぼ俺が出すことになってしまっていたため、俺はバイトを始めた。

 俺は元来鈍臭い人間だから、ちょこちょこ小さなミスを繰り返し、そのバイト先の店の店長にしょっちゅうこっ酷く叱られた。

 学校では不良どものパシリで、少しでも意に添わなければ痛めつけられるし、俺の高校生活は中学生のときよりも明らかに散々なものだった。

 散々でも我慢していた。我慢して耐えていた。

 だが、その我慢の糸がぷつんと途切れたのは、一体何が原因だっただろう?漫画か小説の影響だった気がする。現実の辛さから逃れるためにフィクションの世界にのめり込もうと本を読む機会が増えていたから。

 その読んだ本の中に、いじめてきた相手に復讐する話だとか、そういうのがあったのだと思う。いや、そんなのはこじつけで、単純に俺の我慢が限界に達していたせいだろう。

 ある日、俺はパシリの帰り、こっそりポケットにカッターナイフを忍ばせた。

 買ってきたパンとジュースを渡すと、一番大柄な不良が言った。

「おい、これ俺が頼んでいたものと違うだろうが」

 そして俺にそのペットボトルのジュースを突きつけてくる。

「俺が頼んでいたのはコーラで、ウーロン茶じゃねーよ」

 俺は黙っていた。黙って睨み付けてくる大柄の顔を睨み返していた。

「あぁ? 何だ? そのいつにも増して反抗的な目は?」

 大柄は俺を殴った、一発、どんと俺の右頬を思いっ切り殴った。

 そのときだ。俺の我慢の糸は完全に途切れた。

 衝動的だった。自然に手が出ていたとしか言えなかった。

 俺は殴っていた。目の前の大柄の左頬に、拳を叩き込んでいた。

 といっても、ひょろひょろの弱々しいパンチだったが。

「この野郎、何すんだ――」

 眉間に皺を寄せた大柄が、再び大きく腕を振り被って俺をぶん殴ろうとした。

 俺は咄嗟にポケットに忍ばせていたカッターナイフを出し、無我夢中で振り回した。

「いてぇっ」大柄が悲鳴に近い声を上げた。

 見ると大柄は拳を握った片手の甲を押さえて呻いていた。

 指の合間から血が滴り落ちていた。殴ろうとしてきた大柄の拳を、このカッターナイフで切り付けたようだった。カッターナイフの先端にも、少量の血が付着していた。

 もうここからはやけくそだった。記憶も曖昧だ。

 気づけば、俺は大柄の上に馬乗りになって、大柄をとにかく両手を駆使して引っ切り無しに殴りつけていた。

 周りには不良どもは呆気に取られていたのか、俺の暴走を止めようとしなかった。

 が、さすがにずっとそうさせているわけにもいかなく、複数人に羽交い絞めにされて俺は大柄から引き離された。

 そこで気づいたのだが、大柄の肩には俺の持っていたカッターナイフが深々と突き刺さっていた。大柄は何よりもその怪我を痛がって呻いているようだった。

 これが、俺が初めて人を殴った経験であり、初めて人を刺した経験だった。

 大柄は病院へと搬送された。刺したのは肩だったから命に別状はなかった。

 俺は停学処分になった。退学になっても可笑しくないし、下手をすれば少年院送りだったが、不良どもにパシリとして扱き使われて鬱憤が溜まっていたのを考慮され、その程度の処罰で済んだ。

 俺は停学中、外には出ず、一日中自室に閉じこもってぼんやりし、自分の手を執拗に眺めていた。人を殴った手を、人を刺した手を、ただ嘗め回すように眺めていた。

 初めて人を殴ったときの感触、初めて人を刺したときの感触、あのときの感覚を、思い返して反芻していた。

 不思議だった。気持ちが良かったとか不快だったとかではなくて、不思議だった。

 初めて人を殴ったという事実も、初めて人を刺したという事実も、夢の中の出来事のようにふわふわしていた。誰かに危害を加えたという実感が、まるで乏しかった。

 停学の期間が終了し、高校へとまた登校するようになったが、不良どもは二度と俺に近寄ってこなかった。

 俺が殴って刺した大柄なんか、殺される前の羊のように怯えた目で俺の方を見遣り、すぐさま目を逸らした。

 さらには俺が人を刺したことは校内中に広まっていて、俺は密かに学校内の有名人になってしまっていた。

 不良の溜まり場と有名な底辺高校だったが、どいつもこいつも見た目は立派でも中身はこじらせた中学生に毛の生えたようなやつばかりで、人を殴ったことは幾度となくあっても、人を刺したことのあるやつは少なかった。

 俺は自然と同級生から避けられるようになったし、教師からは執拗に睨まれた。

 同級生や教師たちが俺に向けてくる、恐怖と警戒が綯い交ぜになった視線は、しばらくの間は慣れなかったが、そのうち感覚が麻痺した。

 少なくとも、中学生のときの、あの軽蔑の視線を向けられているような、妄想に囚われていた環境よりは、遥かにマシだったのだ。

 俺は改めて悟った。善行なんかいくらしたって意味はない。なぜなら善意になぞ誰も見向きもしないからだ。善意は世間の連中にとって当然のことであり、わざわざ褒めることではないからだ。

 しかも、善行をできるタイミングで善行をしなければ、周囲からは責められる破目になる。善行をすることは人間として当然の行為であり、できるときにしないやつは非人間も同然に扱われる、俺はそれを小学生から中学生の時を経て学んだ。そして新たに確信した。

 善行と違って、悪行は目立つ。善行には見向きもしない連中も、悪行には敏感に反応し、忌み、嫌い、恐れ、気を遣う。そうやって向けられる視線は、善行をしなかったときに向けられる視線と似たものではあったが、善行をしなかったときに向けられる視線はあからさまに侮辱するようなものがあり、悪行に対して向けられる視線は侮辱というよりも畏怖の意味合いが強いぶん、俺には悪行の対しての視線の方がとても居心地よかったのだ。

 だからそれからの高校生活は比較的に充実して過ごせたと思う。

 もう人を殴る気も、人を刺す気もなかったが、ポケットにはいつもカッターナイフを持ち歩いているようにしていた。

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