中学生
捻じくれた思想になったまま、中学生になった。
俺の中学生時代は、小学生の頃と打って変わって静かで大人しいものだった。
ほぼ一日中、教室の中で目立たないように過ごした。自分の席から滅多に動かなくなった。
とても平穏なものだった。誰も俺を気にかけず、俺も誰も気にかけない生活は、この上なく気楽だった。なぜもっと昔からこんな風に暮らしていなかったのか、不思議に思うほどだった。このまま学生時代をやり過ごせればいい。そう思っていたが、そうもいかなかった。
異変が起こったのは、中学二年生に上がった頃だ。
俺は運悪く、中学一年生のときは別のクラスになれていた佐伯と同じクラスになってしまった。
そこまでは、まぁまだ良かったのだ。佐伯と同じクラスなのは気まずかったが、俺が勝手に気まずく感じているだけだし、普段通り、大人しく生活すれば、何の問題もなく時が過ぎるはずだった。だが、真に問題である部分は、他にあった。
昼休み、俺が机の影に隠れて細々と昼食の菓子パンを食べていたら、唐突に怒声が聞こえた。
いきなりだったからよく聞き取れなかったが、「おぅ」だとか「おい」だとか言っていた。
俺は驚いて菓子パンを床に落としそうになりながら、声のした方に振り向いた。
俺と同じような反応をしたらしく、クラス中の視線がその一点に注がれていた。
そこには佐伯の席があった。机の上には親の手作りなのか、プラスチック製の弁当箱に入れられた食べかけの弁当が置かれていた。
佐伯はその席に座っていたが、なぜだか怯えて委縮しているように肩を窄めていた。それは佐伯の席を取り囲んでいる連中を見ればわかった。
佐伯の席の周りには、不良っぽい男子生徒数名がにやにや顔で立っていた。一応このクラスの生徒だが、授業中は平気でサボったりバックレたりする人間だ。
中学生になってから何に影響を受けたのか急に不良に被れた連中で、制服を不良っぽく着崩していること以外は髪の毛も染めておらず、一人一人を見ればひょろいやつばかりで不良と名乗られても失笑を禁じ得ないが、何人かが寄り集まるとそれなりに威圧感があった。
そいつらが佐伯の席を取り囲み、佐伯に何か声をかけているのだ。結構大きい声で。
「おい佐伯、てめぇよく堂々と、教室で飯食えたもんだな」
「てめぇは便所飯がお似合いだろうよ」
「オザキユタカに被れて窓を割った異常者が。もう許されたとでも思ってんのか?」
「先公が許そうが、お天道様が許そうが、俺たちは許さないからな」
「まぁ何はともあれ、今年もよろしく頼むわ、佐伯くん」
怒鳴ったり、急に馴れ馴れしくしてきたり、どう見ても異常な光景だった。
佐伯は俯いて顔を上げようとせず、不良被れどもの罵声に黙って耐えているようだった。
「そうだ、ささやかな友好の証として、俺たちがお前にふりかけのプレゼントをしてやろう」
不良被れの一人がにやにやを崩さずにそう言うと、ばっと後ろに回していた両手を前へと突き出した。その両手に握られていたのは二つの黒板消しだった。その時点で半ば予想できたが、その不良被れは黒板消しを力強く打ち付け合った。黒板消しに染み込んでいたチョークの粉が一気にぶわっと溢れ出し、弁当の上へと降り注いだ。弁当は真っ白になった。
佐伯はそれでも黙って身を丸めていた。不良被れどもは腹を抱えて笑い転げていた。
不良被れの一人と目が合ったような気がして、俺は慌てて逸らした。他のクラスメイトたちも早々と目を逸らし、まるで何事もないかのように食事や雑談に興じていた。
佐伯はいじめられていた。誰もが見紛うことなく、佐伯はいじめられていた。
だからってどうってことはなかった。まだ山橋先生にこっ酷く叱られる以前の俺なら、両親から植え付けられた自分の信念により、一言か二言くらいは不良被れどもに物申しただろうが、その信念も山橋先生によって取り上げられたため発動のしようがなかった。
また佐伯と助けようとしたところで、俺には何一つメリットがなかった。佐伯と友人になれる?それの何がメリットなのだ。挙句には不良被れどもに今度は俺が目をつけられる結果になり、俺がいじめなどというものを被る破目になる可能性が大いにあったのだ。
それを察していたのは俺だけではないらしく、誰も佐伯のいじめに口を出す生徒はいなかった。不良被れどもは休み時間中にしょっちゅう佐伯にちょっかいをかけ、困らせたが、俺を含めた生徒全員が素知らぬ顔をしてやり過ごしていた。教師にチクるやつもいなかった。
それはそれで教室内の均衡は保たれていたし、至って平穏だと主張できた。
俺はこのままで良かった。このまま佐伯だけが犠牲になっていれば――。
それさえも崩れたのは、夏休み明けの二学期に新たに転校生が来たことだった。
女子生徒だった。下の名前は思い出せないが、苗字は確か鈴井といった。
鈴井は如何にも優等生然とした真面目なそうな生徒だった。きつい印象を与える狐目は、山橋先生を連想させて、俺はすぐに苦手なタイプの人種であることを悟った。
それもまぁどうでも良かった。いつも通り過ごせばいいだけの話だった。
しかし、あれのせいでそうもいかなくなってしまった。本当に、あのときは不運だったとしか言いようがない。
当番だった。放課後のゴミ捨ての当番。小学生の頃のように他人の当番を引き受けたりすることはなかったが、如何せん日替わりの当番は突っ撥ねられない。
渋々燃えないゴミと燃えるゴミ、二つのゴミ袋を持って教室を出た。その学校のゴミ捨て場は校舎裏にあった。そのため、俺は渡り廊下を通って校舎裏に向かわざるを得なかった。
果たして、その校舎裏のゴミ捨て場のところに、佐伯と不良被れどもが屯していた。
俺は動揺し、慌てて木の影か校舎の影に隠れて様子を窺った。
どうやら佐伯は殴られているようだった。あまり会話は聞き取れなかったが、不良被れどもの笑い声と、佐伯の助けを求めるような弱々しい声が聞こえてきた。
このまま踵を返したい気持ちでいっぱいだったが、ゴミを捨てなければならない。
俺は意を決し、何食わぬ顔を意識してゴム捨て場の方へと近寄っていった。
「あぁ? 何だ、おまえ?」
不良被れどもの一人が俺に気付いたらしく、俺を睨み付けてきた。
一人が気づけば、他の不良被れどもも気づく。全員が俺を見てくる。
佐伯も俺を見ていた。不良被れどもの足の間から、俺を見ている佐伯が見えた。
佐伯の顔には青痣が出来ていたし、鼻の穴からは血が流れ出していた。期待している目を俺に向けていた。助けられることを、救われることを、善意を期待した目を――。
俺は下手糞な愛想笑いを浮かべ、そいつらに向かって二つのゴミ袋を掲げた。
「ご、ゴミ捨てだよ、ただの。すぐに終わるから、と、通らせてくれない?」
心の中で佐伯に、すまん、お前の期待には応えられない、と謝った。
不良被れどもは一瞬目を合わせあうと、「いいぞ、さっさと済ませろ」とゴミ捨て場を顎で示した。俺は頭をへこへこさせながら、なおも睨み付けてくる不良被れどもと、失望しきったような暗い目を向けてくる佐伯を横目に、ゴミ捨て場にゴミを投げるように捨てた。
ゴミを捨てたらここに用はない。「邪魔してすいません」と敬語で不良被れどもに謝りながら速足でゴミ捨て場から離れようとした。途中で立ち止まって振り返ると、不良被れどもは俺のことを忘れ、再び佐伯いじめに興じ始めたようだった。
とりあえずはホッとし、前に向き直ったときだ。俺は「あ」と声が出そうになった。
「あんた、わざわざ声かけたのに、あのひと助けなかったね?」
校舎の壁にもたれかかった鈴井が、冷めた目をして冷めた声音で言った。
俺は返す言葉を思いつかず、押し黙った。鈴井は言葉を続けた。
「最低だとは思わないの? 助けられる状況で助けないってのは」
「た、助けられないって、俺なんかが注意したところで――」
ようやく声が出た。あまりにも掠れたような小さな声だったが。
「情けない男だなぁ、逃げただけでしょ。自分が何かされるのが怖くて」
呆れたような、軽蔑したような目だった。でも何より真っ直ぐした目で、俺は気圧された。
「だ、だって、みんな、みんなそうだし。みんな見て見ぬふりしてるし」
「みんなそうだから、自分もそうで良いっていうんだ?」
「う、煩い。助けたってろくなことにならないだろ。黙認するのが当然なんだよ」
取り乱した口調になったが、声を荒げなかったのは、背後の不良被れどもを気にしてのことだった。
「ほんとしょうもない。あんたと話してても何にもならないわ。それじゃ」
鈴井は見下したような目をしたまま、俺の横をすり抜けて通り過ぎていった。
地面から生える雑草を、踏みしめていく足音が背後で遠ざかっていく。
俺は動けなかった。その場で固まって、地面の上に落とされた自分の影を見下ろしていた。暑くもないのに額から汗がだらりと流れて、顎を伝ってその影の上にぽたりと落ちた。
さっさとここを去ってしまいたかったのに、まるで足を地面に釘で固定されたように一歩も歩き出せなかった。かといって振り返る勇気もなかった。ただそこに突っ立っていた。
「何だとてめぇ!」と野太い怒声が聞こえたとき、それに背中を押され、俺は駆けだした。ちらりとも振り向かなかった。
その足で教室に戻ると、机の上に放置していた荷物をまとめて背中に背負って教室を飛び出し、玄関で靴を履き、校庭を突っ切って校門も飛び出した。
それでも走った。まだ走った。自宅に到着するまで、一歩も立ち止まらずに走り続けた。
帰宅した直後は心臓が激しく脈打っていたし、頭痛も吐き気もあった。壁に手を当てて身体を支え、「ぜぇぜぇ」と肩で息をして自身を落ち着かせるのに精一杯だった。
だが、そのうち心臓の脈打ちも頭痛も吐き気も治まってきて、何をこんなに焦っているのだろうという気持ちになってきた。浴室に入って頭から冷水をぶっかければ、さらに冷静になった。
頭の中を整理してみる。なぜこんな風に焦って走り帰ってきたのか。
自分は佐伯を助ける意思すらなかった、という罪悪感のためだろうか? 自分にはできないことをやりにいった、鈴井に対する劣等感のためだろうか? それとも単に鈴井と不良被れどもの小競り合いに巻き込まれたくなかっただけか?
うーん、うーんとしばらく自室の端に敷かれた万年床の上で呻きながら考えた。その末、考えても仕方ないという結論に達した。
いくら考えたところで、俺の心は精神の自己防衛のために懸命に真相を隠すだろう。それをわざわざ暴いてみたところで、俺には何の得もない。もしやいらぬ傷を増やしてしまうことにもなりかねない。それならばきっぱり考えることを諦める他なかった。
なに、そんなに大したことにはなっていないだろう。精々酷いことになっていたとしても、鈴井がぶん殴られてちょっとした騒動になるくらいだろう。
そうなればいい加減に傍観していた教師どもも重たい腰を上げて、佐伯のいじめに対処するかもしれない。万事解決さえすれば、俺のことなんか有耶無耶になるのだ。俺が佐伯のいじめを見過ごそうとしたことも、鈴井が俺に放った軽蔑の言葉と視線も、すべては有耶無耶になって終わるのだ。
そう希望的な観測というやつを無理やりこじらせてみれば、心はいつものような平静を取り戻した。
あとは特筆することもない。夕飯を食い、再び風呂に入り、テレビを観て、ネットを覗き、歯を磨き、トイレで糞を出し、埃臭い布団に包まって眠った。
希望的観測が事実、希望的観測であったことは、翌日に登校してみればわかった。
まず教室に入ろうとドアを開けたときから、教室の中の様子が可笑しいことに気付いた。
なんかざわついているのだ。すでに登校している同級生たちは、こそこそと何か耳打ちし合い、教室のある一点に目を向けていた。その視線の先を追って、俺は言葉が出なくなった。
そこには鈴井の席があった。その鈴井の席を、あの不良被れどもが取り囲んでいた。
ちょうど、以前佐伯の席が取り囲まれていたような感じで。もちろん席には鈴井が座っていて、にやけ面の不良被れどもの輪の中心で凛と背筋を伸ばして座っていた。
俺は咄嗟に佐伯の姿を探した。佐伯は自分の席で鈴井の席を見ないようにするかのように俯き、一人肩をぶるぶると震わせていた。恐る恐る遠目から顔を覗き込んでみると、右頬の辺りに大きな白いガーゼが貼られていた。他にも顔の数か所に絆創膏が貼られている。
声をかけたりはできなかった。佐伯も俺とは目を逸らすばかりだった。
鈴井を取り囲む不良被れどもは、何も言わずにただそうしているのが嫌がらせのように鈴井をにやけた気味の悪い表情で見下ろしているだけだった。
一応不良被れどもの身体の合間から鈴井の顔を見た。鈴井は背筋の真っ直ぐな感じと違わない、前を向く凛とした表情で不良被れどもには見向きもしていないようだった。
目立った外傷は見当たらなかったが、額の辺りに絆創膏が一枚貼られているのが見て取れた。
そんな風にじろじろ視線を向けているうちに、鈴井と目が合った。昨日と同じく、あの真っ直ぐした目で、あの責めてくるような真っ直ぐした目で、俺を真っ直ぐに睨み付けてきた。
俺は目を背けざるを得なかった。
心臓がぎゅっと締め付けられる苦しさを感じ、足が竦んだ。
鈴井の真っ直ぐな目は、あの目が合った一瞬で、猛烈に俺を責め立ててきた。
一気に自分を愚図で矮小で卑怯者でゲスでろくでなしの存在だと自覚させるような――。
朝のホームルームのチャイムが鳴った。担任の教師が教室に入ってくると同時に、不良被れどもは鈴井の席から散り散りになって逃げるように教室を出ていった。
昼休み、不良被れどもは再び教室にやって来て、鈴井の席の周りを取り囲んだ。
ちょうど鈴井が机の上に弁当を広げたときに現れたから、機会を見計らっていたのだろう。
「よぉ、鈴井、元気にやってるか?」
不良被れどもの一人が乱暴な手つきで鈴井の肩を叩いた。鈴井は何の反応も示さない。
「前は佐伯に昼食のプレゼントをしてやってたからな。お前にもプレゼントだ」
不良被れの一人はポケットからおもむろにそれを取り出し、鈴井の弁当の上に乗っけた。
ミミズだった。うねうね蠢く数匹のミミズが、鈴井の弁当の上で踊っていた。
悲鳴はなかったが、誰かが「ひえっ」と怖がる声を出したのが聞こえた。
鈴井は無言だった。無言で前を向いていた。弁当の方も不良被れの方も見ず、ただ前を向いていた。
俺は何もせずに昼食のパンをもそもそ齧っていた。
佐伯も何もせずに弁当を細々と食べていた。
他の同級生たちも佐伯と同様に、何もせずにひそひそ話をするきりだった。
不良被れどものいじめのターゲットは、完全に佐伯から鈴井に移行していた。
佐伯はいじめられなくなった。佐伯は別段嬉しそうでもなく浮かない顔をしていたが、いじめられる鈴井を助けようとするどころか、目を背けて黙認しようとする辺り、内心はいじめられなくなってホッとしているのだろうと思った。それどころか、鈴井が身代わりになってくれて有り難いとすら思っているだろう。弁当を黙々と突く佐伯を見て、そんな風に感じた。
その日からだ。俺が他人の目が、視線が、この上なく恐ろしくなったのは、この日からだ。
初めは誰の目よりも鈴井の目が恐ろしかった。
なるべく鈴井の席の方を見ないように心がけるのだが、どうしても気になって視線が勝手に動いてしまう。それでときたま振り向いた鈴井と目が合えば、俺の心臓は飛び上がるように鼓動を速めた。鈴井の目は何度見ても一点の曇りがないほど真っ直ぐで、また俺の中の罪悪感と劣等感を揺さぶるには十分だった。
そのうち、自分が恐ろしがっているのが鈴井の目だけではないことに気付いた。不良被れどもの目もだ。
あいつらが俺にちらりと向ける視線には、明らかに馬鹿にするような、嘲笑するようなものが含まれていた。あのとき腰を抜かした間抜けな意気地なしと。
不良被れとも目だけではない、佐伯の目だってそうだ。
佐伯の目は俺に対して、どう考えても軽蔑の光が含まられていた。あのとき自分を助けようともしなかったクズ野郎を、心底から軽蔑している、そういう目だとしか思えなかった。
終いにはクラスメイト中の視線が恐ろしくて仕方なくなった。
クラスメイトたちはあの日の俺の格好悪い姿も、不良被れどもや鈴井とのやり取りも知らないはずだったが、なぜだか全員があの日のことを知っているような気がする。知っていて、俺には何も言わず、ただ視線を向けてくる。馬鹿にし、軽蔑し、侮蔑し、責めるような視線を向けてくるのだ。
そんなわけはない、そんなわけはないと思う。
誰も俺に悪意のこもった視線なんか送っていない、送っていないと思うのに、そんな他愛のない妄想が四六時中、寝ても覚めても頭から離れない。頭から離れないどころか、どんどん脳の内側にびっしりとこびり付いていく。
結果、俺は自室引きこもりがちになり、学校へも不登校気味になった。
俺は後悔した。あのときに一言でもあの不良被れどもに文句を言って、一瞬でも佐伯を助けようとするアクションを起こせば、こんな目には遭わなかったのではないかと、後悔した。
しかし、そうしたとしても、鈴井の代わりに俺がいじめの標的になるだけで、きっとそれはそれで無視してやり過ごせば良かったと後悔するのだろうと思うと、何もかもが放り出してしまいたくなるほど嫌なものに思えてきて、酷く惨めな感覚にさせられた。
その後の中学生活は、特に何もなかった。俺は不登校と登校を繰り返しながらも、なんだかんだで卒業式まで通ったし、佐伯なんか皆勤賞だった。
不良被れどもは卒業式の日まで必要な鈴井いじめに興じていたようだったが、鈴井は卒業式の日まできっちり登校してきた。
制服は以前に不良被れどもに泥で汚されて、まだクリーニングから返ってきていないのか、卒業生として卒業証書を受け取った鈴井は体操着姿だった。
それでもその凛とした佇まいは、あの日から何も変わっていなかった。もちろん、あの俺を軽蔑したような目も。
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