小学生

 初めて誰かを殺したいと思ったのは、いつのことだったろうか。

 まだ社会人として働いていたとき? 高校生のとき? 中学生のとき?

 あぁ、思い出した、そうだ、小学生のときだ、小学五年生の頃のあのときだ。

 あれはどういう経緯だっただろう? どういう経緯でああなったのだろう?

 きっかけは――きっかけはそう、俺の出来心のせいだっただろうか。

 小学生の頃の俺は、自分で言うのもなんだが、相当な優等生だった。

 俺が物心ついた頃から変な新興宗教を信仰していた両親から、「善行を積め。さすれば神からの御加護がある」と耳にタコができるほど説かれた。これが中学生のときにでも聞かされていれば鼻で笑って受け流すこともできたが、如何せんまだ自我があやふやなときに断るごとに聞かされた教えだ。俺はすっかりその教えに洗脳されていた。

 小学生になった俺は、両親に教えられた通り、善行を積むことに徹した。

 クラスのやつらが嫌がるような当番や係は積極的に引き受けたし、毎朝近隣住民や教師たちへの大きな声での挨拶も欠かさなかったし、バスや電車の中で老人や妊婦を見かけたらすぐに席を譲ったし、車椅子のやつが階段を上がるのを手伝ったし、道路に無造作に捨てられているチリ紙や空き缶などのゴミをちゃんとゴミ箱に捨てたし、一円でも小銭が落ちていたらパクらずに交番へと届けたし、学校のトイレや公衆トイレで トイレットペーパーが切れかけていたら、そっと新しいトイレットペーパーに交換したりなんかもした。

 善行を積めば積むほど、俺への神の加護は強くなる一方だと俺は信じていたし、実際に善行をすることは気持ちが良かった。事実、それは社会的にも精神的にも良好なことだった。

 当然、教師たちの評判も良かったし、クラスのやつらからもよく頼られた。

 ここまでは順風満帆といって差し支えなかった。あの出来事が起きるまでは――。

 あのときは確か放課後だった。窓が西に面した教室に、オレンジ色の夕日の光が流れ込んできていた覚えがあるから、きっとそうだ。

 教室の中には誰もいなかった。俺だけが放課後のその教室に一人、ぽつんといた。なぜ俺だけ居残っていたのかは憶えていない。大方、教師に何か用事を頼まれてそれを済ませているうちに、みんな帰ったというところだろう。

 俺も早く家に帰ろうと、ランドセルを背負ったとき、教室の窓の一つが少し開いているのに気付いた。閉め忘れだ。俺は小声で「閉めろよ」とぼやきつつも、その窓に手を伸ばした。

 その窓に手をかける手前で、俺はふと動きを止めた。隣の窓が目に入ったから。

 隣の窓は妙なことになっている。大きな厚紙がどんと窓の中心にガムテープで貼り付けられている。紙には文字が書かれていて、それは『この窓は危険、触るな!』。

 その日の朝のことを思い出した。

 朝、俺は誰よりも真っ先に学校に登校してくるのだが、その日の朝に教室に着いてみれば、一つの窓が割られていた。窓の真ん中に、大きな穴が開き、窓ガラスの破片が大量に床に散らばっていたのだ。

 俺が呆然としていると、後から続々と同級生たちが登校してきて、徐々に騒ぎになった。担任の山橋先生はただでさえ狐目の目をさらに尖らせて、「この窓を割ったのは誰ですか!」と大声を張り上げた。

 もしそこにいた同級生の中に、窓を割った犯人がいても、なかなか名乗り出ないだろうと思ったが、そいつはあっさり名乗り出てきた。

「はい、割ったのは僕です」

 そう言って手を上げたのは、俺の席の右前の席に座っていた佐伯という児童だった。

 佐伯は俺が思う限り、あのときのクラスで、誰よりも不真面目な人間だった。授業中は大人しく席に座っていなければならないのに、席を立って、みんなが勉強している間を駆け回って授業の邪魔をしたし、宿題をやってこないことなんかしょっちゅう、授業自体をサボることもしょっちゅうで、体育の授業のときなどは、まともに出ていた試しがなかった。

 だから佐伯が窓を割ったと知っても、そんなに驚くことではなかった。

「何で窓を割ったんです?」

 山橋先生が険しい声音で訊ねると、佐伯は俯いてしゅんとした様子で言い訳した。

「その――やってみたくなったから。あの――お母さんが聞いてるCDにね、オザキユタカって人の、なんとかの夜って曲があって、それに校舎の窓を割るみたいな歌詞があって――それで割ってみたくなって、割ったらどんな気持ちになるのかって――」

 要領を得なかった。稚拙だし、到底窓を割ったことを正当化できるものではなかった。

 現に同級生たちの間では、小声で「なんだこいつ」「キモい」と悪口が交わされていた。

 しかし、山橋先生は怒らなかった。むしろ哀れみのような表情を浮かべ、腰を屈めて佐伯と目線を合わせると、諭すような口調で佐伯に語り掛けた。

「あのね、佐伯くん、窓は割っちゃダメなんだよ。これはね、常識だから」

 佐伯はうんと頷き、「もうしません」とぺこっとお辞儀するように頭を下げた。

 周りでそれを見ていた同級生たちは「そんなものでいいのか」と驚いただろうし、また不満にも思っただろう。

 俺もそうだった。普段から悪行しているぶん、元からの印象が悪いからこのような悪事も珍しいことではないと思えるのかもしれないが、学校という公共の施設の窓を割るなんて行為は一時間の説教を受けても文句を言えないレベルのことではないか。そんな簡単に許してしまうのは、良いものなのだろうか?

 俺は確かに不満だったが、山橋先生はその謝罪で佐伯を早々と許したようだった。

「はいはい、それじゃこの窓ガラス片づけてホームルームしよう!」

 同級生たちの微妙な空気を察したのか、山橋先生は大声を出して手を叩いた。

 窓ガラスは俺を含めた何人かで片づけた。残りは遠巻きに眺めているだけだった。

 穴の開いた窓はさすがにそのままにはしておけないから、応急処置としてガムテープで厚紙を貼り付けて塞いだ。『この窓は危険、触るな!』の文字は誰かが勝手に書いていた。

 山橋先生曰く、今週の土日中に業者に頼んで窓を交換してもらうとのことだった。

 その後、ホームルームが始まり、終わっても山橋先生はそれ以上佐伯の件について言及しなかった。

 同級生たちも佐伯に関して不満はあるような顔はしていたが、休み時間中も特に佐伯の話をしている様子はなかった。

 佐伯はその日一日中、青白い顔で俯き、トイレのとき以外は自分の席から一歩も動かなかった。俺はといえば、何も変わらずいつも通りだった。

 そんな日の放課後だった。俺はガムテープと厚紙で穴の塞がれた窓を見つめていた。

 ――俺も、窓を割ってみたい。

 その感情は、何と説明すればいいだろうか。心の奥底から湧き出す衝動というか、ただ単に淡く浮かび上がった願望というか、ともかく俺は唐突にそう思ったのだ。いや、唐突ではなかったかもしれない。本当は以前から窓を割りたいという願望があったのかもしれない。

 普段から善行ばかりを積み、悪行というものを一切せずに優等生を演じてきた俺は、密かに悪行をしたいという願望が頭か心のどこかに根付いていた可能性だって大いにあった。

 だがそのときの俺はただ、純粋に窓を割りたいと思った。

 俺は咄嗟に教室内を見回した。誰もいない。間違いなく誰もいない。ロッカーの中だとかに隠れている様子もない、廊下から誰かが来る気配もない。

 今さっと割って逃げれば、犯人が俺だとばれずに済むのではないか?

 邪な思考が頭をもたげた。それを、散々聞かされた両親の教えが抑え込もうとする。

『善行を積め。さすれば神のご加護がある』

 しかし、そこではたと気づいた。

 悪行をしたらどうなるかは、一言も教えられていないではないか。

 俺が教えられてきたのは善行を積むことだ。悪行をすることに関しては何の教えもない。つまり悪行を禁止されているわけではないのだ。それに、今までこれだけの善行を積んできたのだ。悪行の一つや二つぐらい、よっぽどケチ臭い神でもなければ許してくれるだろう。

 今から振り返れば屁理屈以外の何物でもなかったし、無理のある解釈だったが、そのときの俺に湧いたその欲望は、湧き上がった瞬間からみるみるうちに膨れ上がっていたのだ。

 一度だけ、一度だけ窓を割れば、窓を割れれば満足だから――。

 俺は興奮で震える手をどうにかコントロールし、近くにあった椅子を持ち上げた。

 この教室内で、窓を割るのに使えそうなものといえばそれくらいだった。

 両手でしっかり椅子を抱え、割れていない窓の前で立ち止まった。

 一度だけ、一度だけ窓を割る、窓を割ればきっと満足するはずだ――。

 自分の喉が唾を飲み込む音が耳に届いた。手の震えはいっそ激しくなっていた。

 目を瞑り、意を決して椅子を窓目がけて振り下ろそうとしたときだ。

「ちょっと!あなた、何やってるのっ!」

 怒号が耳元をかすめ、振り向くと、教室のドアの前に山橋先生が立っていた。

 廊下にも誰もいないと思っていたのに、緊張で感覚が鈍くなっていたようだった。

 俺は慌てて椅子を床に下ろした。山橋先生は般若のような顔で俺へと駆け寄ってきた。

「今、何をしようしていたんですか?」

 まだ穏やかながらも地の底から響いてくるような声に、俺はシドロモドロになった。

「え、あ、あの、その――別に何も、何も――」

「窓を割ろうとしていたんですか?」

「それは――その――」

「窓を割ろうとしていたんですね?」

 威圧するように睨み付けられ、委縮した俺は認めざるを得なかった。

「――はい、窓を割ろうとしていました」

「なぜですか?」

「えーっと、ま、魔が差して」

 俺は身を丸めつつ、恐る恐る山橋先生を見上げた。恐怖と後悔と興奮を綯い交ぜにした感情の中、どこか冷静な部分では山橋先生の次の台詞を予測していた。

 普段から悪行を散々行ってきた佐伯に対しての説教があんな諭すような感じだったのだ。今まで善行を積んで印象を良くしている俺には、なおさら佐伯と同じような反応をされるに違いない。ずばり次の山橋先生の台詞は、諭すような口調で忠告。それで終わりだ。

 そうたかをくくっていたのに、山橋先生の次の言葉は俺の予測とは大きく外れていた。

「あなたは自分が何をしようとしていたのかわかってるんですかっ!」

 怒鳴られた。思いっ切り怒鳴られた。初めに呼び止められたときと同じ調子で。

「ま、窓を割ろうと――」

「そういうことではなくてですっ!人の振り見て我が振り直せ!今朝の佐伯くんの件から何も学ばなかったのですか!一日も経たないうちに似たようなことを起こそうとして――」

 山橋先生の口はまるでマシンガンのように猛烈に動いた。脳を揺らすくらいの怒声。

 俺はもう山橋先生の顔も見られず、俯いて床を眺め、浴びせられる怒声に耐えていた。

 その佐伯の件で窓を割りたくなった、とは到底言えなかった。

 何でだ?色々綯い交ぜだった感情に、混乱と疑問と不満も加わった。

 何で俺が怒られている? いや怒られているのが当然といえば当然だ。自分が何をしでかそうとしていたのかはわかっている。ただ、なぜ佐伯以上に叱られなければならないのかは、まったく理解できなかった。俺は佐伯と違って、普段から善行を積んできたはずだ。それなら一度の悪行くらい、良いではないか。それがダメだというなら、なぜいつも悪行を繰り返している佐伯はあの程度の説教で済んだのだ?その上、俺は窓を割ろうとしただけで、窓を割ってはいない。それなのに、何で実際に窓を割った佐伯以上の怒りを受けるのか?

 可笑しいだろ? 普通は逆だろ? 理不尽だろ? これは理不尽だろ?

 頭の中がごちゃごちゃだった。思考は混濁を極め、ただ大人しく怒鳴られるばかりだった。

 そして山橋先生の説教の中に含まれているある台詞で、俺はあっさり理由を悟った。

「――あなたは優秀な児童だったのに――」

 あなたは優秀な児童だったのに、その山橋先生の声が、脳内にエコーがかって木霊した。

 優秀だったからか? 今まで善行を積み重ねてきたからこそか? 佐伯は元からそんなやつだったから?諦めていたからあの程度で済んだのか?

 期待感や信頼感があるから、裏切られたときのがっかり感が強いから、だからこんなに怒っているのか、この人は。

 でも、山橋先生は俺のこと、そんなに褒めたことはなかった。俺がどれだけ先生の仕事を手伝おうと、山橋先生はまるで当然という顔をして、「ありがとう」と短く礼を述べるだけだったではないか。その程度の賛辞なのに、一度も過ちを犯そうとすればこの過剰な憤怒だ。

 やっぱり理不尽だ。理不尽としか思えない。

 だが同時に思った。――あぁ、多分これは山橋先生だけではないのか。

 同級生たちだって、すぐに嫌われている係や当番を押し付けたり、頼りにしてくるくせに、俺に感謝している風ではなかった。

 みな口では感謝の言葉を述べていたが、それはどれも儀礼的で心がこもっておらず、軽くて白々しい響きを伴ったものだった。

 きっとあいつらも俺が佐伯と同じことをしようとしていたと知れば、佐伯以上に見下し、軽蔑し、バカにしていただろう。いじめられていたかもしれない。俺は正真正銘の善人だと思われているから。正真正銘の善人は、悪事を一つもやってはいけないから。

 何となく、何となくわかった、だが、わかることと理解することは違った。

 わかったけど、理解できなかった。俺は、結局理解できなかった。

 山橋先生に対して、胸の奥底でむわっと何かしらの感情が湧き上がった。怒りとも違う、悲しさとも違う、虚しさとも違う、でもとにかく暗い気分になる負の感情。その感情は後に殺意だと知るが、そのときは何なのかさっぱりわからなかった。この日から俺は何度も殺意という感情を抱くことになるが、恐らく最初はこの山橋先生だった。

 山橋先生とは小学生の間、よく顔を合わせることになったが、目は合わせなかった。

 両親や同級生たちにばらされなかったのが唯一の救いだった、と今は思う。

 俺はその日以来、積極的に善行をしなくなった。両親の教え通りに善人ぶるのをやめた。

 善人ぶっても何の得にもならないことに、あの一件で気づいてしまった。

 善行をすれば善行をするほど善意の価値は薄れ、感謝はなくなり当然のことになる。その上で行う無償の善行などに、一体どんな意味があるというのだろう? 両親は言った、「善行を積めば神のご加護がある」と。そんなものはなかった。

 そもそも神などいるわけではなかったし。俺はクリスマスにサンタクロースが実在しないことを悟ったように、そう強く思ったのだ。

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