お線香代

 阿武隈運送に立ち入る前に伊刈は住民に経過説明の機会を持ちたいと長嶺教子に要請した。誰かと長電話していたのか、何度か呼び損になった後、本人が電話口に出た。

 「現場にいろいろ動きがあったことは存じております。私の方からもお電話しようと思っていたところでした」

 「こちらからお伺いしてもよろしいし事務所に来ていただいてもよろしいですよ」

 「お盆明けにしていただいてもよろしいかしら。犬咬は八月がお盆のお宅がほとんどだし、何軒かは新盆なのよ」

 「気がつきませんでした。それではお盆過ぎに」

 「いつも集会に使っている喫茶店があるんだけどご存知かしら」

 「どこですか」

 「カナディアンなんだけど」

 「場所はわかります」

 「それじゃ日取りが決まったらこちらからお電話するわ」長嶺の対応には陳情に来たときと比べて微妙な変化が生じていた。それがどうしてなのかはすぐに明らかになった。

 お盆の三日間は不法投棄がなかった。法律は守らない連中も縁起は担ぐのか、お盆とお正月は小休止になるのだ。日本人の精神性も完全に失われたわけじゃなかった。

 お盆明けの十八日に柴咲町自治会の役員会を招集したと長嶺が伊刈に連絡してきた。住民集会の会場となったカナディアン・コーヒーハウス「ログ」は、丸木を組んだログハウスをシンボルにしている郊外型喫茶店チェーンだった。チェーンが解散した後、個々の店舗はそのまま営業を続けたり転売して不動産屋の事務所になったりしていた。ログ犬咬店は豆の供給をCCCコーヒーに切り替えて営業していた。CCCコーヒーは国内最大手のコーヒーカンパニー、上原珈琲が創業者一族の兄弟喧嘩で三分裂した時、存続会社になって缶コーヒーのブランドを承継した。CCCコーヒーの深い焙煎が伊刈は好きではなかった。

 伊刈は喜多を同行してカウベルのような鈍い音色のガラガラのついた扉を開けた。シンメトリーな三角アーチになった店内は奥の壁に十字架とステンドグラスを飾ればまさに結婚式場の模擬教会になりそうな感じだった。中央の通路を挟んで、両側にボックス席があり、奥のキッチンの前にはカウンター席があった。ある意味ムダのないスペース配分だった。

 柴咲町自治会役員会の顔ぶれは事務所に押しかけてきた住民と同じだった。驚いたことに岩見が招かれていた。伊刈は長嶺が集会をお盆明けまで伸ばした理由がわかった。

 「岩見さんにも立ち会ってもらった方が話が早いと思ったから同席してもらったけどかまわないかしらね」伊刈が聞くまでもなく長嶺が説明した。

 「今日の集会の話題は阿武隈運送の処分場だけなんですか」

 「そうよ」

 「なるほど」

 「何か飲まれるかしら」

 「それじゃアイスコーヒーを二つ」伊刈は空いている席に座りながら言った。喜多も隣に座った。

 「事務所のみなさんがいらっしゃる前に岩見さんからお話をお聞きして大体もう状況はわかったわ」

 「どうわかったんですか」

 「東洋エナジアと阿武隈運送は違うってことかしら」

 「それは最初からお話しているとおりですよ」

 「そうらしいわね。ガスの臭いも東洋エナジアの不法投棄のせいなんでしょう」

 「それはどうでしょうか。阿武隈運送からもガスの発生源となる廃棄物が確認されています」

 「ほんのちょっとなんでしょう。東洋エナジアとは何万倍も違うんじゃないの」

 「量的にはそうですね。何万倍というのは大げさですけど百倍くらいは違いますね」

 「だったらもういいわよ」

 「は?」

 「こんないい業者をいつまでいじめることないわ」いきなり本音が出たなと思いながら伊刈は役員たちの顔を一人一人見回した。長嶺以外に誰も発言する者はなかった。

 「そういうことならもう事務所から経過説明しなくてもよろしいんですね」伊刈はとっさの機転で会議の打ち切りを提案した。

 「ええかまわないわ」誰も異議はなかった。長嶺の様子が変なのは気付いていたが、反対派住民が丸ごと岩見に懐柔されてしまうとはさすがの伊刈も思いもよらなかった。

 「わかりました。それでは住民のみなさんとの協議は終了ということにさせていただきます」伊刈は届いたばかりのアイスコーヒーのグラスには手も触れず伝票だけつかんで立ち上がった。喜多も一礼して従った。

 「なんか異様な雰囲気でしたね班長」車に戻るなり喜多が言った。

 「線香代もらって気が変ったんだろう」

 「なんですか、それ?」

 「お正月ならお餅代、お盆なら線香代かな」

 「つまり買収されたってことですね」

 「たぶんな」

 「これで一件落着にしちゃっていいんですか」

 「一件落着なんてとんでもない。住民との協議は今日で終わりにしたけど阿武隈の指導を終わりにするとは言ってない。はしごを外されたなら屋根から降りければいい」

 「どうするんですか」

 「事務所に帰ったら本社の検査日を通告しよう」

 「いよいよ全面戦争ですね」

 「まあな」伊刈は考え込むように視線を車窓外に移して沈黙した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る