触らぬ神

 シンポジウムの翌週の月曜日、地域の住民男女七人が伊刈を名指しで環境事務所に訪ねてきた。

 「伊刈さん、私たち土曜日のシンポジウム感動しちゃいました」柴咲町自治会の書記だという長嶺教子が七人を代表して馴れ馴れしく挨拶した。ジーンズ姿の小柄で化粧っけのない女性だった。小太りのせいで肌の張りはよかったが三十代後半は疑いなかった。

 「それはどうも。とにかくこちらへ」伊刈は住民たちを面接テーブルに案内した。環境事務所で住民に接するのは初めてだった。

 「それでね、私たちどうしても伊刈さんにお願いしたいことがあって伺ったんです」長嶺は座る間も惜しむように話し始めた。

 「どんなことでしょうか」業者相手には強気な伊刈も住民の前では言葉を慎重に選んでいた。住民は無視しても甘くしてもどっちみち際限なく増徴するから触らぬ神に祟りなしが一番だというのが公務員から見た通り相場だった。伊刈にしても特別に違った思い入れがあるわけではなかった。シンポジウムに参加した住民からすると伊刈は何かやってくれそうな異端児に見えたらしかった。

 「阿武隈運送って会社ご存知でしょうか」

 「ああ知ってますよ。森井町に自社処分場を持ってる産廃業者ですね」

 「よかった。それなら話が早いわ。その阿武隈がね、今度は柴咲町でまた自社処分場を始めようとしているのよ」

 「法律が変って新しいミニ処分場はもう作れなくなりましたよ」

 「そうでしょう。やっぱりそうよね。それなのにね、市の産対課はね、自社処分場の承継届けを受理しちゃったのよ」

 「なるほど既設処分場の承継ですか。それなら可能ですね」

 「可能じゃないわよ。あそこにファミリア住宅の処分場があったなんて嘘なのよ」長嶺は声を荒げた。

 「つまりファミリア住宅から阿武隈運送への既設処分場の承継届けを産対課が受理したってことですね。いつのことですか」

 「三月よ。柴咲町の自治会長が届け出を受理しないように陳情書を提出したのよ。そしたら課長がね、なんて名前だったかしら、あの生意気な課長」

 「鎗田次長ですか」

 「あら次長になったのね」

 「鎗田前課長がどうしたんですか」

 「住民のみなさんのお気持ちはよくわかりましたと言って陳情書を受け取っておいてね、いけしゃあしゃあと承継届けも受理していたのよ。あたしたちちゃんと知ってるのよ。あの課長ね、市議会議長の殿村から頼まれたのよ。今次長になったと聞いてやっぱりそうかと合点がいったわ」

 「それで僕にどうしてほしいんですか」

 「もちろん阿武隈の処分場を認めないで欲しいの」どうやら長嶺らは本課あての陳情書を無視されたため矛先を環境事務所に変えたようだと伊刈も悟った。

 「もう承継届けを受理しちゃったんですよね」

 「残念だけどね」

 「だったら難しいですね。自社処分場の届出を受理する権限は産対課にあるんです。残念ながら本課が認めたことに今さら事務所が異を唱える余地はありませんよ」伊刈にしては杓子定規な回答だった。

 「それじゃ不正を見逃すんですか」

 「不正かどうかはわからないですから」

 「不正に決まってるわよ。ファミリア住宅の処分場なんか絶対なかったわよ。あそこはただの崖だったのよ。住民なら誰だって知っているし鎗田課長だって知ってたはずだわ」

 「場所はどこですか」

 「ちょっと待って。陳情書の写しに地図がついてるの」

 「住宅地図を持ってきますよ」伊刈が目配せすると喜多が気を利かせて住宅地図の柴咲町のあたりを広げながら持ってきた。

 「ここよ、この崖。ほらこの地図にだって砂採場と書いてあるじゃないの。処分場じゃないのよ」長嶺は勝ち誇ったように地図を指差した。

 「ここってもしかして東洋エナジアが検挙された不法投棄現場の隣ですか」

 「そうよ」

 「最近行ってないから隣に処分場の承継届けが出てたなんて全然気付かなかったなあ」

 「どうせまた東洋エナジアと同じことになるんでしょう」

 「それはどうでしょうか。森井町の自社処分場では阿武隈運送は大きな問題を起こしていませんよ。東洋エナジアとは違うと思いますよ」

 「処分場じゃなかったところを処分場だと偽って届け出る会社がいい会社なんですか」

 「おっしゃりたいことはわかりました。できるだけ調べてみますよ。本課が受け取ってしまった承継届けを破棄することはできないけど現場に問題があれば指導できます。それでいいですか」

 「頼りはもう伊刈さんだけなのよ。鎗田課長は大嘘つきだし、シンポジウムに出てた環境団体の人たちだってね、住民なんかほんとはどうだってよくって自分の本を売りたいだけなのよ」

 「そんなことないでしょう」

 「ほんとよ。私たちは法律を守ってる会社なら反対運動はしないわ。だけど阿武隈は絶対おかしいわよ」

 「わかりました」

 「シンポジウムのときみたいに胸のすくことやってほしいわ」長嶺は言いたいことを言い終えると本課に提出した陳情書の写しを置いて帰った。長文の陳情書だった。要するに阿武隈運送からの承継届けを受け取るなと書かれていた。承継届けが提出されるとどうしてわかったのか、住民の情報源はどこなのか、それが一番の疑問だった。法改正後でも自社処分場問題がまだくすぶり続けていることは確かだった。

 旧法には最終処分場の設置許可基準に面積要件があり、安定型で三千平方メートル未満、管理型で一千平方メートル未満なら設置許可が不要だった。この面積要件が撤廃され、新規のミニ処分場は作れなくなった。しかし既設処分場の使用継続は認められた。問題は面積要件だけではなった。中間処理残渣は中間処理施設が排出者になるという法解釈によって中間処理残渣の自社処分が認められたため、結果的に中間処理の許可さえあれば中間・最終の一環処分ができることになっていた。伊刈はこの問題を出版予定の本で法の欠陥として厳しく指摘するつもりでいた。その後、この法解釈は通達で破棄され、中間処理残渣を最終処分するには最終処分場の許可が必要になった。

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