シンポジウム

 シンポジウムの日はぎらぎらと太陽が輝く夏日だった。太平洋を見晴らす高台のキャンパスを行き交う軽装の大学生の素肌が眩しかった。


全国シンポジウム

犬咬から日本へ

産廃列島を脱却しよう

~癒着を断ち切ってゴミのない日本を取り戻そう~


 シンポジウムの大きな立看板が講堂の前に立てかけられていた。もともと副題の癒着の前には「行政と産廃業者の」という形容句があったが、行政の責任を糾弾する場には立ち会えないという伊刈のクレームで削除したのだ。それがかえって皮肉だった。癒着といえば市民団体にとっては政官財の癒着に決まっていたからだ。

 シンポジウムの立看板はプロの看板屋が作成したものだったが、その周辺には環境派の団体が手作りしたベニヤの立看板やプラカードが無数に掲げられていた。安保闘争や学生運動時代から変らないその無骨さはちょっと笑えた。どのベニヤ看板にも手刷りのビラがベタベタ貼られていた。その一枚を読んでみると水俣市の最終処分場反対運動だった。水銀で汚染された水俣湾が湾ごと埋め立てられてしまったことは有名だが、今でもここは環境運動のエルサレムだった。かつての水俣湾で最終処分場反対運動が盛り上がっている様子が伺えた。所沢市の産廃処分場を無差別に全廃させようというビラもあった。所沢のダイオキシン汚染報道は誤報だったという判決が確定しているのにもかかわらずである。ほうれん草は汚染されていなかったし、ダイオキシンによる健康被害にあった市民は一人もいなかった。それでも環境派の団体は所沢を環境運動の新たな聖地にしたがっていた。走り出してしまったら間違いだったとわかっていてもやめられないのは公共事業だけではなかった。

 「あたしもあれやったことある。一日中やってると日焼けで真っ黒よ」ビラを配るボランティアの学生を見ながら大西敦子が言った。顔見知りなのか、何人かの学生が敦子に向かって手を振ったり会釈したり一緒にいる伊刈を睨みつけたりしてきた。敦子は役所では絶対に見ない白いタンクトップにショートパンツ、ローヒールのサンダルという軽装だった。いつもの無粋なメガネはサングラスに代えらていた。船腹に「望洋丸」と書かれた帆船が埠頭に停泊していた。望洋大が東洋商船大と統合されたときに譲り受けた練習帆船だった。

 敦子がさっさと埠頭に向かうので帆船に案内してくれるのかと思ったら隣の小さな調査船のデッキへと上がった。待っていたのは伊刈にシンポジウムの案内状をくれた準教授の秋篠圭子だった。年齢的にはもう四十代になるが、三美人と呼ばれるだけのことはあって日差しに負けないきめ細かな肌がつややかに光っていた。ヨが教室にでも通っているのか背筋がすっと伸びているので地味な紺のスーツがおしゃれ着に見えた。社交的な笑みを浮かべながら秋篠は新しい生物を鑑定するような目線を伊刈に向けてきた。学界から見れば官界は下等な下界にすぎないと言いたいのか。そうではなく敦子の新しい彼氏に興味津々だったのだ。

 「お電話では話しましたが初めてお会いしますね」伊刈はわざとタメ口で挨拶した。

 「ご協力いただけてほんとにうれしいわ。犬咬でシンポジウムを開催する以上は地元の話題をどうしても取り上げたくってね。だけど私たち意外と地元のことを知らなかったのよ」

 「一つ不躾なことを聞いてもいいですか」

 「ええなんでもどうぞ」

 「犬咬の水とみどりを守る会のメンバーは何人ですか」

 「まあそんなこと。だいたい三十人くらいかしらねえ。主婦の勉強会みたいなものね。それでも毎月例会を開いてるのよ」

 「ほかの団体もそんな感じですか」

 「そうねえ、どこも同じくらいかしらねえ」

 「予算は三十万円から五十万円くらいですね」最後の質問に秋篠はどきりとした顔を一瞬見せた。

 「どうして予算なんか聞くの」

 「主婦が出せる会費といったらせいぜい一月千円くらいかなと思いましたから」

 「会計報告はホームページに載せてるからご覧になって。そろそろ会場に行きましょうか」秋篠は明言を避けて調査船のタラップを降り始めた。

 講堂前には参加者が集まり始めていた。その一角に環境事務所の同僚が固まっていた。伊刈が普段着の敦子を同伴しているのを見てやっぱりといった顔をする者もいた。

 「ここは大西さんの出身校でシンポジウム事務局に居たこともあるそうなんでいろいろ案内してもらってたんだ」伊刈は敦子の立場を考えた説明をしたが、とってつけた感は否めなかった。

 同僚たちに軽く挨拶してから、伊刈は敦子と連れ立って楽屋へ向かった。楽屋でも敦子は顔が売れていた。伊刈はシンポジウムのパネラーというよりも敦子の彼氏という扱いを受けた。三美人の残りの二人も楽屋に集まっていた。射端範子弁護士は年齢に似合わないラブリーなレースのついた黒いブラウスにレース飾りのついたショートパンツ姿だった。ヒールの高いプラダのサンダルを履いているのが目立った。三美人の中で一番色白で一番華奢で顔立ちは一番チャーミングに思われた。しかも終始柔和な表情を崩さない。法廷であんな表情をされたら年配の裁判長はめろめろだろうと思われた。海猫ミュージアムの三ノ宮玲子館長はヌード地に花柄をあしらったマキシのワンピに麦藁帽子という夏リゾートモードでの登場だった。貴婦人風の優雅な外見に似ずとんでもない行動派で出会う人出会う人に声をかけ強引に自分のペースに引き込むところはやり手営業マンそのものだった。公務員の伊刈は彼女の営業対象にはならないのか目もくれようとしなかった。三美人をエンバイラーズ・エンジェルと呼ぶものもいたし、クールな秋篠、ビューティな射端、アグレッシブな三ノ宮をセックス&ザ・シティのヒロインたちになぞらえる者もいた。とにかくアラフォーの三美人が揃ったところは圧巻だった。シンポジウムがだんだん楽しみになってきた。

 シンポジウムは二日間のスケジュールだった。初日の午前中は各団体の活動報告、午後は伊刈が参加するパネルディスカッション、夜は犬咬ホテルでの懇親会、二日目は現地視察の予定が組まれていた。滅多にない機会だからと敦子に勧められて伊刈はチームのメンバーと一緒に午前の活動報告から参加することにしていた。

 「○○処分場建設反対運動経過報告」、「××処分場許可取消訴訟経過報告」といった活動報告が延々と続いた。全国大会とあって北海道から九州・沖縄まで、ありとあらゆる処分場が標的として網羅されていた。その情報量はさすがだが活動内容はワンパターンだった。事前協議制度や同意書制度がある自治体の場合には許可申請以前の段階で反対運動を組織する。最初は勉強会から始めて集会を開き実力行動へと発展する。実動といっても最初は路上に反対運動の看板を立てる程度だ。どの運動にもプロの活動家が介入しているので活動内容がステレオタイプになってしまうのだ。施設設置許可が出てしまった処分場の場合は行政不服審査請求、工事差止仮処分申請、施設設置許可取消行政訴訟へと発展する。操業が開始されている処分場の場合は処理業許可取消訴訟に移行する。こうして延々と反対運動が展開されていく。

 「午前中の感想は?」敦子はキャンパスの裏山のベンチで手作りの弁当を広げながら伊刈に言った。

 「捕鯨禁止運動なら鯨肉食を全廃すればいいことだけど、全国のすべての処分場をなくしたら経済活動が止まってしまう。つまり処分場の全廃はゴールにならない。部分最適化が全体最適化にならないことくらいプロの活動家ならわかりそうなものだ」

 「それくらいちゃんとわかってるわよ。でも捕鯨よりもむしろタバコ反対運動みたいなものじゃないかな。どんなに反対してもタバコがなくならないことはわかってる」

 「産廃業者を悪徳の権化と決め付け行政を無能呼ばわりするステレオタイプは織り込み済みだけどにな」

 「お役所はいつも欠席裁判よ。だけど午後は伊刈さんが呼ばれてるから」

 「あんな独善的なプロパガンダばかり聞かされてたら、主婦はその気になるよな」

 「戦う公務員なんだから戦えば」

 「それにしても誰も彼も同じことしか言わない。これで教祖様が出てくれば新興宗教の法事と変らないな」

 「教祖様なら一応いるわよ」

 「誰?」

 「たぶんパネルの司会者をやると思うからわかるわ」

 「ゼンサンキョー(全国産廃残土協議会)の会長か」

 「一応五島会長が処分場反対教の教祖みたいなものよね」

 「何者?」

 「知らないわ。たぶん全共闘崩れじゃないのかな。環境系団体の幹部はみんな昔は日本赤軍か全共闘だったって聞くからね」

 「懐かしいなあ。全共闘ねえ、よくそんな言葉を知ってたな」

 「生まれる前のことだもんね。そうか伊刈さんはぎりぎり生まれてたのか」

 「幼稚園か小学生かそんなとこだったけど安田講堂陥落のニュースはなんとなく覚えてる」

 「案外ませガキだったんだね」

 午後一時からパネルディスカッションが開始された。壇上に司会者とパネラーの席が三日月形に並べられた。司会者席には全国産廃残土協議会の五島会長と犬咬の水とみどりを守る会の秋篠圭子準教授の二人が座った。パネラー席には三美人の残りの二人、廃棄物関係の著書が多く各団体の精神的支柱となっている畠山弁護士、元沖縄県庁職員の活動家として知られている嘉屋敷氏、犬咬高校の生物学の教師だという袖浦氏、共民党公認犬咬市議会議員の椎柴氏、犬咬漁業協同組合副組合長の阿比留氏が座った。現職公務員としての出席者となった伊刈の席は司会者の五島に一番近い上座だった。無能呼ばわりされてもやはり現役の役人は偉いのだ。伊刈の隣は畠山弁護士、その隣は椎柴議員だった。

 シンポジウムが始まると司会者の五島が壇上のパネラーに自分の立場を順番に説明するよう促した。伊刈以外のパネラーは大きく二つのグループに区分された。第一のグループは特定の処分場の問題に深くかかわっている活動家で一般論には関心がない。第二のグループはそうした泥臭い現場の活動を卒業して、もっと大所高所から論じようとする弁論家だ。伊刈はそれぞれの論客の話に耳を傾けた。三十年もこの問題にずっと関わってきた割には持っている情報が乏しいとすぐに感じた。産廃業者と行政を目の敵にしているのだが、どちらの具体的な内情にもほとんど通じていない。あくまで外側から眺めたイメージで語っているのだ。元公務員として行政の内情を知っているはずの畠山弁護士と嘉屋敷氏にしても行政はダメだという観念論に終始していた。発言順が最後になる伊刈はだんだん戦闘モードに傾斜していく自分を感じていた。

 パネラーの最後に伊刈の発言順が回ってきた。

 「伊刈さんは今日のパネルの特別ゲストです。普通お役人は出席をお願いしても尻込みして出てきませんが伊刈さんは違うようです。この勇気をまず喝采したい。それでは伊刈さんどうぞ」五島が伊刈を紹介する言葉はやっぱりどこか上目線だった。それもそのはず、いかに現役の役人といっても伊刈の産廃行政のキャリアは僅か二年足らず、この道三十年の五島からすれば素人同然なのだ。

 「午前中から聞いていましたが行政の責任追及の大合唱でしたね。でもこの合唱団には参加しかねます。皆さんが幼稚園生のように無知だからです。とてもこの道三十年の活動家とは思われない」伊刈のいきなりの挑発的発言に目が覚めた者も居たようだった。

 「不法投棄問題は行政がしっかりしていれば起こらなかった問題だなんてそんな甘い話じゃないんです。壇上のパネラーも含めてみなさんは現場で何が起こっているのか何も知らない」静まり返った会場を見下ろしながら伊刈は挑発を続けた。

 「不法投棄はとてつもなく巨大で複雑な構造を持っています。みなさんの想像を絶する世界です。みなさんの活動は残念ながら不法投棄対策としてはほとんど無意味だと言っていい」静かだった会場がざわつき始めた。隣同士でひそひそ話をしているのだが、それが会場全体に渦のように反響していた。

 「みなさんお静かに。今の伊刈さんのご発言にどなたか反論は」五島の司会ぶりは落ち着いていた。

 「どうして瀬戸内海の手島の教訓は生かされなかったのかしら」射端範子弁護士がチャーミングな笑顔を崩さずに発言した。

 「生かす価値がないからでしょう」伊刈があっさりと切り捨てた。

 「まあすごいご発言ね」さすがの射端も伊刈の独断に絶句した。

 「聞き捨てならないご発言だわね。もう少し詳しくご説明願えないかしら。手島がどうして無意味なの」海猫ミュージアムの三ノ宮玲子館長が身を乗り出すようにして発言した。

 「結論を出すのに時間がかかりすぎました。その間に汚染が進行してしまいましたね」

 「それが行政の責任ということじゃないの」

 「違います。みなさんが行政を信用しないからです。敵対的な態度で来られるから行政も硬くなって動けなくなるんです。その結果公害調停とか行政訴訟とか法律家の無駄な出番になってしまう。手島はそんな人たちの売名行為に利用されただけだといってもいい。みなさんの活動の最悪の失敗例ですよ」

 「まあ驚いた。伊刈さんて犬咬の不法投棄問題を解決してしまったスーパーマンだと聞いていたけどとんでもない独善家だったのね」三ノ宮は呆れたように天を仰いだ。

 「行政と業者の癒着の問題はどうなんですか」元沖縄県職員の嘉屋敷が発言した。

 「癒着とは具体的に何を言っているのですか」伊刈が切り替えした。会場内の聴衆は予想外の白熱した議論に聞き入っていた。場を支配しているのは明らかに伊刈だった。

 「処分場を作ってもらいたい行政が業者に便宜をはらうとかそういうことですよ」嘉屋敷が答えた。

 「そうとしか思われないことがたくさんありますよね。どう考えても行政は業者よりです」三ノ宮も加勢した。

 「袖浦さんは最終処分場の反対運動をされているということですが、これまで県庁や市庁には何度行かれましたか」伊刈は矛先を高校教師の袖浦に振った。

 「何度も行きましたよ」

 「具体的に何度ですか」

 「三、四回ですかね。だけど無意味なんですよ。四月になるたび担当者が変ってしまう。そうなると前任者にお願いしていたことは白紙です。わざと白紙にするため担当者を毎年変えているんじゃないんですか」

 「なるほどわかりました。でもね担当者が変るたび話が振り出しに戻ってしまうのは業者だって同じですよ。業者は許可が欲しいですから担当者が人事異動で交代するたびに根気強くまた一から説明を繰り返すんです。処分場の許可を一つもらうために役所に通う回数は百回や二百回じゃすまないですよ。処分場だけじゃなくゴルフ場でも住宅開発でも区画整理でもなんでも同じです。三十くらいの課との協議が同時に必要ですから二十回ずつだって六百回でしょう。六百回も役所に来なければならないのは癒着しているからじゃないですよ。むしろ癒着がないからです。みなさんは業者が毎日のように役所に呼び出されて書類を補正させられるのを癒着だと思うんですか」

 「伊刈さんちょっと言いすぎじゃないかね。確かに癒着というのはあると思いますよ」共民党市議の椎柴が発言した。「ここで私の口からどの業者がどうと具体的なことは申せませんが与党の先生方に口利きのお願いに行くってことは処分場を作ろうと思う業者にとっては常識なんじゃないですか」

 「有力な議員に電話を一本入れてもらったらあとは昼寝をしていても許可証が出るとでも言うんですか。共民党とも思えないのんきな話ですね。処分場の許可はそんな簡単じゃないですよ。業者が百回来る間に反対派の住民のみなさんは一回しか来ない。堀の外から石を投げたって届きませんよ」

 「住民が百回行ったら百回会ってくれるんですか」司会者席から秋篠圭子が質問した。

 「会い方によりますね」

 「会い方とは?」

 「業者は許可が欲しいから担当者の言うことを聞こうという姿勢でやってくる。ところが住民のみなさんは担当者に言うことを聞かせようという姿勢でやってくるでしょう。だから担当者もみなさんと会うのは気が進まない。法律には市民の言うとおりにしろとは書いてないですからね」

 「それじゃつまりお役人の言うことを聞けば会ってやるってことなのね」

 「お役所に来るときはお役人の話を聞こうという姿勢の方がいいだろうと思います。頭ごなしにお前らは癒着している。お前らは悪徳役人で俺たちが正義なんだから言うことを聞けという態度ではたぶん逆効果ですよ」

 「面白いわねえ。そんなこと言うお役人初めてお会いしたわ」秋篠が精一杯の皮肉を言った。

 「市民運動の軸はこれまでもこれからも反対運動であり、それを通じて行政をよくしていくのが私たちの仕事です」五島が流れに掉さすような固い発言で議論を総括しようとした。

 「反対運動は無意味どころか逆効果だからやめるべきだと思います」伊刈は五島に総括させなかった。「反対運動をやるとかえって政治力や資金力に訴えられる強い業者が生き残るんです。いい業者が行き残るとはかぎりませんよ」

 「反対運動をやめて何をやれって言うの。後学のために聞かせてちょうだい」三ノ宮館長が余裕の表情を取り戻して言った。

 「みなさんはなんだかんだ言って結局は行政に頼っているんですよ。つまり自律していない。これからの市民団体や環境団体には行政に頼らずにゴミを自分たちで片付けるといった自律した活動をしてほしいです。行政の足らないところを市民が補うパートナーシップに基づく活動をされたら行政との対話の窓口が広がります」

 「行政に逆らう敵じゃなく行政の従順な手下になれというのね。お勉強になりました」秋篠は呆れたように引き下がった。二時間のシンポジウムは最後まで伊刈を中心にした議論に終始した。思わぬ論客の登場に壇上の司会者もパネラーもたじたじだったが自説を曲げようという者は一人もいなかった。

 シンポジウム第一日目の夜に開催された事務局主催のパーティに誘われた敦子は途中で会場を抜け、ほろ酔い気分で犬咬ホテルのロビーに下りてきた。建築年代こそ古いが大きなシャンデリアの下がった吹き抜けは風格を感じさせた。敦子を待っていた伊刈とホテルを出て、そのまま人気のない海岸通りを駅に向かって歩き始めた。JR犬咬駅から海岸にそって観光用の私鉄が走っていた。廃線が何度も検討された僅か十キロの路線だったが、テレビドラマのロケ地になって以来、一両だけのアナクロな車両が波に洗われそうな砂丘や岩礁など変化に飛んだ景色の中を走る様子が人気の観光スポットになっていた。二人が着いたバス停ほどの駅舎にはほかに待合の客は誰もいなかった。景色のいい昼間ならともかく夜は利用客がいない。まだ九時前だというのに次に来るのが終電だった。

 「あたしたちのことばれちゃったね」終電を待つ間、ベンチにかけた敦子が酔い覚めで冷えた唇を右手の指先で触りながら言った。

 「昔の仲間に? それとも今の仲間に?」

 「どっちもよ。でもいいんじゃない、伊刈さんのデビューの日だから」

 「なんのデビューかな」

 「だってかっこよかったもの。さっき飲み会でみんなに褒められたよ。あんたの彼氏、見た目はだめだけど中身は骨が太いじゃないのって」

 「まるで人を中身汁扱いだな」

 「いいじゃないモツ煮で。あたし一番好き」

 電車が近くの踏み切りまで来たのか警報機の音が遠く響いた。敦子は立ち上がって線路を覗き見た。まだ電車は見えなかった。

 「伊刈さんの本、絶対売れると思うよ。いつ出るの」

 「環境展のシンポジウムの日だよ」

 「そうだっけ」

 「酔ったのか」

 「その本じゃないよ。小説はいつ出るのよ」

 「小説は没にしたって言ったよな」

 「私、今日はっきりわかったよ。みんな知ったかぶりしてるだけ。何十年も環境やってるのにみっともない話よ。本当のことを知ってるのは伊刈さんだけだった。絶対本を出して知ったかぶりを黙らせるべきよ」

 「だから出すことは決まったよ。だけど連中が黙るかな。本なら今日のパネラーはみんな出してるだろう」

 「ベタな本ばっかりよ。知ったかぶりに意味がないってことはみんな本心ではわかってるの。だけどそれに代わるものがないから。今日わかったよ。伊刈さんなら千人を相手にしても勝てるよ」

 「なんだかやけに持ち上げるなあ」

 「あたし酔った」敦子は電車に乗り込むなり人目もはばからず伊刈の膝に頭を乗せて横になってしまった。

 「敦子は明日もシンポに出るのか」

 「出るよ」

 「付き合いも大変だな」

 「伊刈さんきっと笑うだろうけどさ、明日は国への請願書を採択するんだよ」

 「請願書? あれだけ役所をバカにしておいて最後は国に頼るのか。呆れた連中だな。いつもそうなのか」敦子は何も答えなかった。彼女の胸の隆起がゆっくりと気持ちよさそうに上下するのを伊刈は静かに見守っていた。

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