お魚は海で泳いでいるだけ
七月は伊刈と大西敦子の共通の誕生月だった。二人は箱根を目的地にドライブにでかけた。行き先のあてもなくホテルも予約していなかった。伊刈も大西も段取りを気にしない質だったので気の向くままのドライブだった。箱根に向かってみようというのも朝決めたことだった。途中までは順調だった。小田原厚木道路に入り真鶴に近付いたあたりで夏休みの渋滞に巻き込まれた。行くあてがないので気にしなかった。カブリオーレタイプのパジェロは車高が高く見晴らしがいいので渋滞していても精神的に楽だった。
「原稿できたんだよ」渋滞でげんなりしていないかと伊刈は助手席の大西の顔色を伺いながら言った。
「そっか、とうとう完成かぁ。結構徹夜してたもんね。タイトルはどうなったの」
「今のところ『不法投棄の構造』。ちょっとまともすぎかと思うけどね」
「出版できるといいね」
「自信はあるんだ。ただ手柄を独り占めしていると言われるのがちょっと心配だな」
「そんなこと気にするなんて伊刈さんらしくない。本を書く資格があるのが伊刈さんだってことはチームのみんなわかってるよ」
「一緒にやってる仲間はわかるけど、本課とか県庁とかに居る人はきっとわからないよ」
「不法投棄の撲滅に意味のある本なら中傷なんか恐れずに出すべきよ。そのために書いたんでしょう」
「まあそうだけどね。制約も多かったんだ。公務員には守秘義務があるから真実を真実のままに書くことが許されないんだ」
「それって変よね。公務員て一番真実を語らなきゃいけない仕事でしょう」
「戦後民主主義になってからはそうだろうけど戦前は天皇の官吏だからすべからく秘密主義。どっちかって言うとその伝統が今も濃い。公務員が真実を語ることを禁じられているというのは考えてみれば確かにおかしな話だけどね」
「でもあたしわかる。法律とか仕事とかじゃないの。公務員て嘘もつかないけどホントも言わないって感じがする。なんていったらいいかなあ」
「口は災いの元って意識が強いんじゃないかな。たとえば議会答弁とか、いかに無意味な文章にするかに何時間もかけてる。それが身についちゃってるんだ」
「それそれ絶対それだとあたし思う。女をナンパするときもさ、なんか公務員て振られたときの弁解まで考えつくされてるみたいな誘い方するんだよね。いや実は僕はほんとはそういうつもりじゃくてなんだかんだとかさ、振られたあとの話がばっかみたいにめんどくさいんだよ。振られちゃったでいいじゃん」
「振ったことあるんだ。しかも一般論で括るってことは一人じゃないね」
「どっかな。誘導尋問には乗らないよ」
「仕事がら素直にごめんなさいって言えない習慣が身についてるのかも」
「伊刈さんもそうなの」
「僕は今まで振られたことないから」
「言うねえ」
「ほんとにそうだからね」
「それくらい自信ないと本なんか書けないよね。ねえあたし先に読んでもいいの」
「だめ。それだと本になったときに読まないから」
「厳しいねえ。それはそうとお昼はどこで食べるか決めてるの」
「別に」
「成り行きってことね」
「今日だけ特別」
「成り行きだからって失敗は許さないよ」大西は愉快そうに笑うと伊刈が持ってきたCDを選び始めた。ガラにもなく伊刈はCHARAのファンだった。マラルメやランボーだってここまで意味不明な歌詞は書けないというのがファンになった理由だ。CHARAのつぶやくような歌が車内に流れると暑苦しくよどんでいた空気が透明になった。
じ、ぶ~んの、し、た、こと~に、おど~ろい~て、なきた、く、な、る~
かんがえて~る、よゆうな~いよ、だって~そのこえを……
渋滞は熱海方面までずっと続いていたので比較的流れていた真鶴道路へと折れた。午後一時をかなり過ぎていて腹ペコだった。真鶴半島を一周する道路を走りながら昼食の場所を探した。似たような小料理店が無数にあった。そんな中、妓鵬という割烹が気になった。大きな暖簾が出ていたので料理店だと思ったのだが入ってみると旅館だった。広々した玄関に立っていると上品に和服を着こなした女将と思われる女性がしずしずと現れた。
「お昼やってるんですか」伊刈が尋ねた。沓脱ぎに靴がなく、お客は誰もいないように思われた。
「やってるけどうちはメニューがないのよ。お一人様一万円だけどいい」敬語を使うでもない、さりとてタメ口でもない普段使いの言葉が不思議と心地よかった。年齢は四十歳手前くらいだが細面の驚くほどの美人だった。
「いいですよ」
「それからカードはだめよ」
「わかりました」
「そうじゃ上がって頂戴」
女将に案内されて湾が見晴らせる二階の客間に上がった。やはりほかに客はいないらしく館内全体がひっそりとしていた。女将以外の人影は一つも見えない。その女将が音も立てずに静々と廊下を進んでいく。いや上等の着物なのか、かすかに衣擦れの音がする。雨月物語の浅茅が宿に出てくる幽霊宿さながらだ。大丈夫かなと思ったがとにかく上がってしまったので覚悟を決めた。
「何かお嫌いなものはあるかしら」女将が自らお茶を淹れながら尋ねた。
「ないです」
「お車だからお酒は飲まないわよね。こちらのお嬢様はどう」
「私ビールをもらいます」
「わかった」やはり敬語を使わない。不思議な魅力のある女将だと思った。部屋の冷蔵庫からビールを出すと女将はいったん下がった。
「面白いお店ねえ、これでやっていけるのかな」大西も心配そうだった。
料理が出始めたとたん心配が吹き飛んだどころか、度肝を抜かれた。いきなり生きた白魚がどんぶり大の鉢に一杯、さらに伊勢海老の生造りが一尾出てきた。伊勢海老はかなり大ぶりで、これだけで都心なら二万円はしそうだった。白魚だって鉢から飛び出すほどの生きのよさだ。それをどんぶりで出したら安くないだろう。さらにアワビの生造りが一人に一枚出た。これも手抜きのない大きさだった。さらに平目の生造りが続いた。これがまた半端な大きさじゃなかった。一人一万円というのは一品一万円の聞き間違いかと心配になった。いや一品二万円でも安い。ぼったくりに嵌ったなら十万円は覚悟だろう。
「ちょっと驚いたかしら」伊刈の心配をよそに女将が優しい声で微笑みかけた。「うちはねえ切り身は出さないのよ。だってお魚っていうのはね生きているからおいしいの。切ってしまったら美味しくなくなるのよ。だから全部一尾で出すのよ」
「でも全部一尾のお造りってのはすごいですね」
「ほかにお客さんいないからね」涼しい声で言っている。やっぱりぼったくりなのか。ますます心配になってきた。カードは使えないと言われたし、いざとなれば駅前までお金を下ろしに行くしかないか。
「みなさん驚かれるのよ。でもね、お魚ってね、そんなにお貴いものじゃないのよ。だって海に泳いでいるだけなんですものね」女将の言葉にはますます不思議な説得力があった。
「それはそうですね」伊刈は曖昧に相槌を打った。
次は何が出るのかと思っていると女将がまた驚くことを言った。「今日はこれで終わりよ。お食事になさるならご飯お持ちするわ」
十万円相当の生造りがどどーんと出ていきなり終った。小鉢のたぐいは一切ない。焼き物も揚げ物もない。懐石の流れを完全に無視していた。
「お願いします」
「わかった。じゃ、お食事お持ちするわね」
女将は自ら大皿を下げ始めた。仲居さんとかは居ないらしい。
食事はご飯と味噌汁だけだった。味噌汁のお椀は直径三十センチもあり、そこに伊勢海老と鯛の頭が入っていた。参りましたという味だった。
「ご飯のおかわりはお願いしていいかしら」
女将は大西に微笑みかけてから退室し、それきり二度とやってくる気配がなかった。完全な放置状態である。しばらくのんびりしてからおそるおそる階下に降りると女将がしずしず出てきた。やっぱりほかに一切人気はない。大将の気配すらない。やっぱりここは幽霊宿なのかと思った。
「どうだったかしら」
「おいしかったです」大西が答えた。
「そうよかった」女将はうれしそういうと沓脱ぎに二人の靴を出した。
「お勘定は」
「あっそうか、忘れてた」女将が本気でうっかりしたというように手を打った。「それじゃ二万円いただくわ。あっビール飲まれたからあと五百円だわね」
「それでいいんですか」
「うんうちはいつもこのお値段だから」
「信じられませんね」
「またお二人でいらしてね」女将は代金を受け取ると駐車場まで見送りに出てきた。
「これからどうする」
「熱海でも箱根でも、どこ行ってもこれ以上おいしいものは食べられないと思うよ」
「うんしかしまあとりあえず日帰り温泉でお風呂に入ろう」
「そうだね。それにしてもなんかうらやましいかったね、あたしもあんなこと言ってみたいなあ。お魚って海で泳いでいるだけなのよ」
「いつも嘘つきばっかり相手してるからあそこまで正直な人だと信じていない自分が恥ずかしかったよ」
「伊刈さんの負けね」
「人生に何度もない完敗を今月だけで何度もした」
真鶴から箱根まで道路は気持ちいいほどノンストップだった。昼食に二時間も使ったので日帰温泉についたときにはもう五時近くだった。
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