血の川

 海士美産業の場内に入って最初に目に付いたのは何十トンも積み上げられた鶏の鶏冠と羽だった。赤と白のツートンの山の底から真っ赤な血が流れ出していた。

 「班長、僕ムリです」喜多が青ざめた顔ですがるように伊刈を見た。今にも吐きそうだった。

 「臭いにはすぐに慣れるよ。毒ガスじゃないんだ。動物の臭いなんだよ」伊刈ももどしそうだったがムリしてなだめた。

 「でも…」

 「ムリなら崖際に行って深呼吸したらいい」

 工場は扇面ヶ浦の崖ぎりぎりに立地していたので崖際に立てば潮風が悪臭を吹き飛ばしてくれそうだった。

 「案外この臭い俺は平気すね」長嶋が言った。「遺棄されて蛆がわいた死体なんかに比べたらどおってことないっすよ」さすが警察官だと伊刈は首をふりながら長嶋を見た。

 「腐敗臭じゃないですから大丈夫ですよ」遠鐘も平気なようだった。

 「でも僕はやっぱムリそうです」神経質な喜多だけはまだ青ざめたままだった。

 伊刈もだんだん臭いには慣れてきたものの、すさまじい光景には変わりがなかった。鶏冠と羽の山の間を抜け、血の川をまたいで壊れかけたアスベストスレート葺きの事務所に近付いた。まるで地獄の一丁目だった。

 「ごめんくださあい。どなたかいらっしゃいませんかあ」伊刈が大声で挨拶したが応答はなかった。

 崖際に近付くと目もくらむ断崖が足元から急転直下太平洋へと落ちていた。崖から空中に向かって塩ビのパイプが伸びていた。ここからの排水に血が混ざっていたことが海洋汚染防止法に問われたのだ。

 「あんたら、誰?」いつの間にか背後に作業服を来た男が立っていた。腰の曲がった小柄な老人だった。

 「東部環境事務所です」伊刈が先頭に立って説明した。

 「は?」

 「海上保安庁から通報があったので来たんです」

 「もう排水はやめてんよ」

 「ほかに誰かいないんですか」

 「ああ今日は俺一人だわな」

 「ここでは何を作ってるんですか」

 「見てのとおりフレークを作ってんだわ」

 「肉骨粉ですね」

 「ああそんだ。配合飼料やペットフードに混ぜて使うんだよ。とうもろこしだけじゃうめえ肉はできねえかんな」

 「最近肉骨粉は問題になってますね」

 「狂牛病のことかい。豚や鶏なら問題ねえんだがそうもいかんみてえだな。ここもいよいよおしめえだな」

 「売れなくなった肉骨粉はどうされたんですか」

 「国が買い取って燃やしてんだろう。せっかくこさえたっつうのにもったいねえことをするよ。会社は売れねえ在庫がはけてよ、けえって喜んでっけどな」

 「国の事業はもう終わりましたよね」

 「そっかい俺は知んねえよ」

 「会社の方はほかにいらっしゃらないですね」

 「さあねえ。来たことねえねえ」

 「大変な仕事ですね」

 「ああこんな仕事後をやるもんはもういないね。あんたら勝手になんでも見てったらええわ。ここにゃあ盗むもんはなんもねえんだ。へっドロボウもたまげてけえるわな」愛想のない老人は勝手にしろとばかりさっさと作業場へと戻っていった。

 さすがの伊刈も何も調べようがなかったので流し場で長靴の血を洗い流して車に乗り込んだ。体中に臭いがしみついているような気がしてかえって場内にいるときより気持ちが悪かった。

 「こんなディープなところがあるとは思いもしませんでした。ここに比べたら産廃なんてまだきれいなものですね」喜多がしみじみ言った。伊刈も死臭漂う作業場を見て、廃棄物の闇の深さをあらためて思い知らされたような気がしていた。

 「エコユートピアってどこかな」

 「あれっすよ班長」長嶋が行く手に見える高い煙突を指差した。

 「なんだ隣なのか」

 「ここらは崖が近すぎて家が建ちませんからねえ。でも潮風で臭いが飛びますし処分場には適地なんじゃないすか」

 「だって国定公園なんだろう」

 「さっきの海士美産業なんかは戦前からあるんでしょうからねえ、公園の指定から外れてんでしょう」

 「なるほど公園指定の隙間に最終処分場ができたってわけだ。それにしてもなんかおかしいよな。どうしてシンポジウムで取り上げる予定の処分場ばっかり次々と問題を起こすのかな」

 「誰かがわざわざチクッてんのかもしんないすねえ」

 いつもは口の堅い長嶋がめずらしく思わせぶりなことを言ったが、そうなのかもしれないと伊刈も思った。

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