第3話 見定められる体力測定
カーテンの隙間から差し込んだ朝日に直樹はくぐもった声を漏らす。枕元に置かれたスマートフォンがアラームを鳴らせば、微睡む意識を覚醒させようと彼は上体を起こした。スマートフォンを手に取りアラームを止める。通知に表示される新着メッセージをタップすれば秋から昨日の逃亡をあざ笑う文面が画面に表示され、ため息交じりに直樹は学校へ行く支度を始めるのだった。
直樹が暮らすのはこの学園の寮である。全寮制ではないが、全国から生徒が集う人気校であるため幾つかの学生寮が校内に置かれていた。入寮希望者は入試の成績によって設置された各寮に振り分けられる。その中で直樹の住むのは最もグレードの高い寮であった。
そうは言っても部屋自体は各寮とも大差はない。違いが出てくるのは一階に設置された共有スペースだけである。寮生間のコミュニケーションを図るために用意されたこの場にはテレビやオーディオ、ドリンクサーバーなどが置かれており、それらの設備によって各寮に差が付けられているのである。最もグレードの高い寮ともなれば、四六時中寮生が共有スペースに常駐するほどには快適な空間となっていた。
けれど、直樹は共有スペースを滅多に利用しない。自室の冷蔵庫から牛乳とヨーグルトを取り出せば部屋の中央に置かれたテーブルで一人朝食を取る。階下に行けば寮が用意した朝食を取ることもできるのだが彼はそうしない。その理由はこの寮が男子寮でも女子寮でもなく、男女共用の寮であるからであった。
もちろん、居住スペースは男女で別れているが、一階の施設は男女とも使用することができるので、実質彼にとっては使用禁止のようなものなのである。大浴場やトレーニングジムなども完備されているが、どちらも男女の更衣室からの出入り口が隣接しているため不意打ちで女子に出会ってしまえば見せたくない失態を見せてしまう危険性がある。
それ故に直樹は自室で生活の大部分を完結させている。食堂も利用しなければ風呂も自室のシャワー室で済ます。そうすることで彼は生活の安寧を保っていたのだ。
「行くか」
始業ギリギリの時間に直樹は立ち上がる。自室から廊下へ出るとさすがに他の生徒は登校しているのだろう、階下からの姦しい声が彼の耳を震わすことはなかった。それに安堵し、階段を下りて行く。
共有スペースの方に視線を向ける。点けっぱなしのテレビがどこかで起こった爆発テロのニュースを誰に聞かせるでもなく垂れ流している。誰もいないことを確認し油断していると、慌てた様子の足音が女子の部屋へと繋がる階段の方から聞こえてきた。
「うわあ、遅刻です! 遅刻しちゃいますよ、これはぁ!」
そうして姿を見せたのは、シャツの袖に腕を通しながら階段を駆け下りてきた冬華であった。捲れたキャミソールから小さなおへそを覗かせ寝ぐせの付いた髪をさらに乱しながら、彼女は突然の登場に体を強張らせる直樹の前に躍り出た。
その無防備に晒された異性の肌に直樹は後退る。冬華がそんな彼の姿を認めると、どこか嬉しそうに表情を明るくした。
「あ、師匠!」
「弟子にした覚えはない」
冬華の嬉しそうな声とは対照的に直樹は恐怖を押し殺したような小さな声であった。
「低血圧ですか?」
「……そう認識すればいい」
「えへへ、一緒ですね。私も朝はちょっぴり弱いんです」
照れ笑いで頭を掻くような仕草をすれば、再び彼女の白く健康的な肌が覗き、直樹は頭を抱えるように俯いた。
「師匠、大丈夫ですか? 頭痛いんですか? 私、優しさが半分の薬持ってますよ」
「そっちが主成分みたいな言い方はやめろ。良いからお前はちゃんと服を着ろ」
「へ?」
直樹に言われて冬華は自分が着替えながら部屋を出たことを思い出す。乱れたシャツに目を落とすと、慌てた様子を見せる。
「わわっ」
いそいそと格好を整える。布の擦れる音に直樹は心拍数を上げる。
「はい、もう大丈夫です。お見苦しいものをお見せしました」
そう言って冬華は頭を下げる。
「……なぜここに居る」
それは直樹の素朴な疑問であった。ここは成績上位者に割り振られる寮である。にも関わらず、彼女はあたかもここに住んでいるかのように向こうの階段から降りてきたではないか。それが彼には不思議でならないのだった。
「もちろん、この寮に住んでるからですよ」
当然のことだと言わんばかりに言い放つ冬華であったが、それが理解できないのだ。お世辞にも彼には目の前の少女がこの寮に住めるほど理知的な人間のようには見えなかった。そうなれば考えられるのは一つである。
「金持ちの娘か」
「え?」
しかしそれも彼を納得させるものではなかった。昨日、出会ったばかりではあるが、彼は彼女から金持ち特有の“品”というものを感じ取れなかったのだ。
「違うか」
「どうしたんですか、師匠」
彼女が不思議そうに首を傾げるも、彼の考えは止まらなかった。金持ちでもないとすれば、残る可能性は一つしかない。
「権力者の娘か」
「え、私のおじいちゃんって権力者だったんですか⁉」
けれど、それはそれで疑問が残るのだ。大事な娘を騎士科に入れるだろうか、という疑問であった。騎士に守ってもらうためであれば普通科に入れるべきであり、わざわざ怪我をするかもしれない騎士科に入れる意味はないのだ。
「……」
「師匠?」
直樹は沈黙する。
「まさかお前、実は頭が良いのか」
「実はって何ですか⁉」
否定しない辺りを見て、直樹は腑に落ちないながらもそれが事実なのだろうと認める。そして、この先の面倒を想像してげんなりとするのであった。
「つまりは俺はこれから一年、お前と同じ寮で過ごすのか」
「そうですね。私、嬉しいです。まさか師匠と同じ寮で過ごせるなんて」
「師匠じゃないと言っているだろう」
「そんなぁ!」
心底残念そうな顔をする冬華を尻目にようやく動けるようになった直樹は寮の玄関へと歩き始めた。
「あ、待ってくださいよぉ」
そう言うと冬華もようやく登校を始める。遅刻だ遅刻だと焦っていたことはどうやら忘れているようで、のんびり歩く直樹と歩幅を合わせるように寮から歩き出した。
「どうしたら弟子にしてくれるんですか、師匠」
「弟子は取らないと言ってるだろう」
「そこを何とか。私、どうしても強くなりたいんです!」
その言葉に直樹は嘆息する。少女の訴えを聞けば、その言葉が本気だということは理解できていた。故に、自分がどれだけ断ろうとも今後も冬華からの嘆願は続くだろう。
「仕方ない」
「師匠!」
けれど、それがどこまでの覚悟の下で発せられているのかは測れない。中途半端な奴に付き合うほど、彼はお人好しではない。
「今日、新入生は体力測定があるだろう」
「え、あ、はい。ああ、遅刻!」
「それはもういい。俺から担任に連絡しておいてやる」
「あ、ありがとうございます」
思い出したように騒ぎ出した冬華を直樹は忙しい奴だと眺める。
「そこで女子の中で上位十位以内に入れ」
「十位……」
「そうしたら弟子にしてやる。できなければ諦めろ」
提示された条件を冬華は復唱する。騎士科の定員は六十名。その半数が女子であるので、彼女は三十人の中の十人になればよいのだ。それが彼女にとってどれ程の難易度なのか、直樹には分からない。けれど、それが簡単であろうと難しかろうと、女性恐怖症の彼が弟子を取るならそれ位の素質がなければ割に合わないと思ったのだ。
「どうだ」
「分かりました。私、頑張って十位以内になります!」
冬華は見開いた瞳をキラキラと輝かせながら嬉しそうに笑みを浮かべた。
「いえ、もう一位になって師匠をあっと言わせますからね!」
「そうか」
そのどこまでも自信に満ち溢れた声色がどこか頼もしくて、直樹は思わず口元に笑みを浮かべる。
「じー」
そんな直樹の顔を冬華が見つめていることに気が付き、彼はハッとして表情を戻す。彼女に隙を見せてしまったことが何となく恥ずかしくて、彼は彼女を睨みつけた。
「何を見ている」
「あ、いえ。師匠も寝坊したのかなって思いまして」
「寝坊だと?」
けれど、彼女の視線はどうやら彼の顔ではなく少し上の方に向けられていることに気が付く。そこには直樹のくせ毛に乱れた頭があった。
「これは寝ぐせではない」
「えへへ、おそろいですね」
「お前と一緒にするな」
「低血圧は朝辛いですもんね」
「頭を見て話すな!」
そうして二人は並んで校舎へと向かう。途中、直樹のスマートフォンが震える。どうせ秋だろうと手に取り通知を見れば、そこには案の定秋から新着メッセージが表示される。
「まじか」
「師匠?」
表示されたメッセージに今度は直樹が震える。それを不思議そうに冬華が眺めていれば、二人は始業の鐘が鳴り響く校舎へと辿り着いていたのだった。
◇ ◇ ◇
「体力測定の監督をする、聖騎士会会長の千宮直樹だ」
春の陽気に照らし出されたグラウンドの中央で直樹は幾人もの体操着の新入生の前に立っていた。体育座りで並んだ新入生の眼差しを一身に受け体が強張る。それもそのはずだ。どういうわけか、彼の目の前に並ぶ三十人の新入生は皆、女子生徒なのだから。
「今日はお前らの基本的な身体能力を知るためのテストを受けてもらう。学籍番号順に各種測定を行っていくぞ」
確かにこの日の体力測定の監督を聖騎士会は引き受けていた。その方が騎士科の学生にとってはやる気も出るだろうという学校側からの申し出だったのだが、それに茶々を入れたのが副会長の秋である。
『私が男子を見て、君が女子を見た方が一層やる気が出るとは思わないかい?』
不純なように思えるが、それによる効果も確かにあるだろうと学校側は判断したのだろう。故に直樹は今この場で必死に平静を保ちながら女子生徒の視線に晒されているのだ。
そんな中で一際輝いた視線を浴びせているのが身長故なのだろうか最前列に座る冬華であった。依然として寝癖を付ける彼女の頭を見て直樹は呆れたように嘆息する。しかし、そのおかげか直樹は少し余裕を取り戻した。
「始めるぞ。名前を呼ばれたら前に出ろ」
そうして始まった体力測定。比較的薄着の女子の相手をすることは直樹にとっては中々に苦痛ではあったのだが、入学したばかりの彼女たちの方も学園最強である彼と接することに緊張しているので、彼にとってはあり難い距離感が新入生との間にあった。
「次、伊吹冬華」
「はい!」
学籍番号は名前順に付けられているため、冬華の名前はすぐに呼ばれた。威勢よく返事をした彼女はグラウンドに白線で書かれた円の中に入り、そこに置かれたハンドボールを手に取った。何度か感触を確かめるように握るも、どうやら手が小さいせいで上手くグリップできていないようだ。
投げるまでの準備に四苦八苦しているとようやく納得できる握り方ができたのか、一度大きく息を吐き出す。そして、大きく息を吸い込むとその瞳を見開いた。
「いきます!」
冬華は円の端から助走を付けて思い切りよく振りかぶった腕でボールを投げた。その投球フォームは基本に忠実で、お手本かと思うほど様になっていた。彼女の動きに対して直樹は素直に感心する。体の使い方をしっかりと理解しており、さらにそれを実践できる能力は評価に値すると思ったのだ。
けれど、それで結果が出るのはボールをしっかり握り、前に投げることができた場合のみである。
「はうあ!」
どういうわけか真上から落ちてきたボールが頭を直撃し、冬華は可愛らしい声を上げた。
上手く握ることのできなかったボールはその完璧な投球フォームから直上に飛び立ってしまったのだ。
「……二メートルか」
「え、え? どういうことですか?」
不幸中の幸いだったのは景気よく跳ね上がったボールが前に落ちたことだろうか。冬華は遠方に放り投げたはずのボールが目の前に転がっていることが理解できず戸惑った様子を見せていた。
「あ、もしかして校舎に当たって跳ね返ってきたんですか?」
「校舎まで何メートルあると思ってるんだ、お前は」
どこか腑に落ちていない様子を見せるも冬華は転がるボールを拾い上げ、二投目を行う。
「えいっ!」
先ほどの反省を生かしたのだろう。冬華はしっかりとボールを握りしめ、投球を行った。そう、彼女は失敗から学ぶことができるのだ。
けれど、それが必ずしも成功につながるとは限らない。強く握りしめられたボールはリリースされるべき場所で手から離れず、振り切った場所で彼女の手を離れた。故に、向かう先は地面であり、叩きつけられたボールは天高く跳ね上がるのだった。
「……」
直樹は天を仰ぐ。そして、それが落ちてくるのを待たず手元のクリップボードに挟まれた記録用紙に結果を書き込む。
「記録なし」
「そんなぁ!」
冬華の足元に残るボールの跡が哀愁を漂わせる。
こうして、冬華のハンドボール投げは記録二メートルという最低点を記録した。その後も上体起こしや立ち幅跳び、握力などを測定していく。
そうして無事に体力測定の全工程を終え、更衣室へと新入生たちが去っていったグラウンドで直樹は手元の記録用紙を無言で眺めていた。
「……」
伊吹冬華。全ての測定において人一倍の懸命さを見せていたのだが、それに結果が伴うことは一つもなかった。いや、唯一長座体前屈という柔軟さを測る種目だけは人一倍に見合った記録を出していた。
「これは……」
「どうでしたか、師匠!」
「うおっ!」
測定を行った女子生徒は全員帰ったものだと思っていた直樹は突然、隣から顔を覗かせた冬華の姿に思わず驚きの声を漏らす。
「まだいたのか」
「はい。結果を教えてもらってませんから」
自身の結果は知っているはずなのにまだ希望があると思ってるのかと直樹は呆れるも、彼女の姿を視界に入れるととっさに距離を取った。
「師匠?」
いきなり距離を取られたことを不思議そうにする冬華の姿は先ほどまでの体力測定で流した汗で体操着が張り付き、その小柄ではあるが健康的な体のラインがはっきりと主張していた。汗に濡れる髪も直樹の目にはどこか扇情的に見え、それ故体が強張るのだった。
「どうしたんですか、師匠」
「なんでもない」
そう言って近づこうとする冬華に合わせて直樹も下がる。
「え、でも、距離がありませんか?」
「気のせいだろう」
それでも近づこうとする冬華とそれでも近づかせない直樹の二人は一定の距離感を保ったままグラウンドをぐるぐると回り始める。記録を眺めながら後ろ向きに歩く直樹はとうとうため息を吐いた後に立ち止まる。
「伊吹だったな」
「は、はい!」
名前を呼ばれて冬華は立ち止まる。
「手応えはあったか」
「もちろんありますよ! 私、自分の全力を出し切りましたから」
「そうか」
どこまでも能天気な自信を持ち続ける冬華に直樹は事実を突きつける。
「伊吹冬華、騎士科一年女子三十二名中、三十一位」
「ええっ⁉」
「なぜ驚く……」
呆れる直樹に冬華はどこか恥ずかしそうに頭を掻く。
「いや、あの、次の測定のことで頭がいっぱいだったので、他の人の結果を見てなかったんですよ」
冬華は照れ笑いを浮かべるも、次第にその表情を暗くしていく。弟子になれなかったことが、それほど残念なのだろう。
「言った通り弟子にはしない。他を当たるんだな」
「……はい」
そう言って直樹は踵を返し、校舎へと歩き出す。振り返ることはしない。自分の背中を見る彼女がどんな表情をしているかを見たくなかったからだ。
「これでいい」
罪悪感を押し殺すように自分に言い聞かせる。これで彼女は自分に寄ってこなくなる。これで学園最強の威厳を汚す心配がなくなる。
夕日の赤がどこか自分を責めているようで、直樹は痛む胸に手を当てるのだった。
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