十二月八日の思い出

甘牛屋充棟(元・汗牛屋高好)

十二月八日の思い出

「ハッ……クショイ! あぁ、寒っ!」


 校舎の外を吹く冷たい風を浴びて、思わず私はそう口走った。


「ったく、いきなり寒くなるんだから。風邪ひいたらどうしてくれるんだっての」


 つい先ほどまで暖房の効いた屋内でぬくぬくとしていた身には、この冬の洗礼は中々以上にキツイものがある。私は講義がすべて終わった大学の校舎に背を向け、冬の魔物ことコタツが待つ我が家へと足早に歩きだす。


「あ、やばっ、鼻水垂れてきた……にしてもまあ、今日は一段と寒いわねえ」


 十一月の終わりから急に冷え込み始めた気温は、わずか一週間と少しの間に十二月にふさわしい冷たさに変わっている。その上、今日はいつもより風が強い。体感温度が低くなるのも無理はないだろう。


「それに日も暮れてきてるし……あの歴史バカ教授め」


 家々の向こうから夕陽が投げかけてくる細く弱いだいだい色の光を見ながら、本日最後の講義を延長した教授の顔を少しの恨めしさとともに思い出す。日本史、特に平安時代の歴史を専門とするあの教授は物腰柔らかで学生にも優しい好人物なのだが、興がのってくると講義が終わっても話し続けるという悪癖があるのだ。


「まあ、好きな奴は好きなんだろうけど、流石に三十分は延長し過ぎでしょうよ」


 誰に言うでもなく、私は一人呟く。一人暮らしを始めてから知ったことだが、人間、一人の時間が増えると独り言が多くなるようだ。誰もいない隣を吹き抜けた冷たい風に、鼻の奥がツンとするような寂しさを覚える。

 と、そんなことを考えていたからか、あるいは風と夕暮れに刺激されたからだろうか。私の脳裏に不意に子供の頃の記憶が蘇った。


「そういえば……あの時もこんな感じだったな」


 それは私がまだ小学生の頃の、少し不思議で、懐かしくも恐ろしい記憶。

 私があれ・・を見たのも今と同じ――冷たい風が吹き荒ぶ十二月八日の夕暮れだった。



     *****



 私の実家は関東の片田舎の小さな町にある。祖父母の代までは農家だったそうだが、ちょうど父が大学にいた頃、当時急速に進んでいた宅地開発に伴って農地のほとんどを売り渡し、実質的に廃業したらしい。そのため私が物心ついた頃には、父と母は隣町の会社で働き、近所に住む父方の祖父母は早めの隠居生活を送っていた。

 両親が共働きであったことに加え、祖父母の家が近くにあったこともあって、小学生の頃の私は学校が終わるとすぐに祖父母の家に遊びに行っていた。ある時は祖母からもらったお菓子を食べながらテレビを見、ある時は祖父母が自分たちの食べる分の作物を育てるために残した農地での作業を手伝い――今になって思えばあれは私と遊んでくれていたのだろう――、またある時は祖父に頼んで竹とんぼなどを作ってもらったりしていた。

 あれ・・を見たその日も、私は祖父母の家に遊びに行っていた。


「おじいちゃーん!」


 夕方。私が走り寄りながらそう言うと、家の前で何やら作業をしていた祖父は振り向いて片手を上げた。


「おお、お帰り」


「ただいま! ……おばあちゃんは?」


「ばあちゃんなら隣町の俳句教室に行ってるよ。ところで今日は少し遅かったのう。遊んどったのかい?」


「あー、うん、そんなとこ。それより、おじいちゃん何してたの?」


 少しのバツの悪さを覚えながら、私は話題をらした。本当はテストで悪い点を取ったことが原因で今の今まで居残りさせられていたのだが、正直に言うわけにはいかない。祖父はともかく、祖母は勉強のことになるととても厳しいのだ。悪い点を取ったこと自体を怒る事はないが、バレたが最後、プロの家庭教師も裸足で逃げ出す厳しい講義が待っている。そうなれば今日は家に帰る時間までずっと勉強漬けになることは確実。それだけは避けなければ。

 そんな私の邪念を知ってか知らずか、祖父は足元に転がるそれを指差して笑った。


「ん? ああ、これはな、目籠めかごを竹竿につけてたんだよ。」


「目籠?」


「そう。竹なんかで編んだ、編み目の粗い籠のことだな。これに柊の葉っぱをつけたのを、竹竿の上にくくりつけて玄関に立て掛けとくのさ」


「玄関に……」


 私は祖父の足元に横たわる竹竿をまじまじと見つめた。竹竿は非常に長く、地面に垂直に立てれば平屋建ての祖父母の家の屋根を越えるほどの高さになるであろうことは、当時子供だった私にも一目いちもく瞭然りょうぜんだった。なぜそんなものを立てるのだろうか? 内心首を傾げる私の前で、祖父は慣れた手つきで目籠を括り竹竿の先端に固定すると、私に顔を向けた。


「さて、じゃあちょっと手伝ってくれんか? じいちゃんが竿を玄関に括りつけてる間、竿が倒れないように持っといてくれ」


「あ、うん。分かった」


 祖父に言われるまま、私は竹竿の下部を支えた。玄関の雨どいにビニール紐で結びつけられていく間も、竿の先端に取り付けられた目籠はゆらゆらと風に揺れている。

 と、その時。不意に冷たい突風が吹き竹竿を強く揺さぶった。


「きゃっ!」


 体が持っていかれるような強風に吹かれ私は身を縮こまらせる。背中に暖かな温度を感じて顔を上げると、祖父が私を守るように抱き寄せてくれているのが分かった。

 そのまま四秒か五秒ほど経った頃だったろうか。吹き始めた時と同じように唐突に風が止んだ。


「……かなりの強風だったな。大丈夫だったか?」


 そう言って心配そうに私の顔を覗き込む祖父に頷き返すと、祖父はホッとしたようにため息をついて呟いた。


「そうか。良かった……しかし、もう大風が吹き出すとはな。今年のコト八日(ようか)は早い目に家に入った方がよさそうだ」


「コト八日?」


 険しい顔で知らない言葉を呟く祖父にどこか不安を覚えながら聴くと、祖父は頷きながら答えてくれた。


「十二月の八日と二月の八日のことをコト八日と言うんだよ。この日は夜になると大風が吹く上にダイマナコが家を回る。ダイマナコは人間の悪事を見抜いて病気を流行らせる神様だと言われていてな。目籠を掲げるのもダイマナコを避けるためなのさ」


「神様って……もう、そんなのいるわけないじゃん」


 祖父の腰を叩きながら、私はまさかそんなと笑った。神様だなんて。きっと祖父は自分を怖がらせようとして言ったのだろう。祖父はたまにこうして私を怖がらせて面白がることがあった。今回のもきっとそうなのだ。この後、さらにこちらを震え上がらせるような怪談が続くのだろう。私はそう思って何を言われても笑い飛ばしてやろうと覚悟を決めた。

 しかし祖父は意外にも「そうだな」と言って笑い返すだけだった。


「まあ、大風が吹いて危ないのは事実だからな。今日はもう家に入ろう。じいちゃんはこれから婆ちゃんを迎えにいかにゃならんが、お前はお父さんとお母さんが迎えに来るまで家にいなさい。絶対に外に出るんじゃないぞ」


 せっかく決めた覚悟が盛大に空回りしてすっ転ぶ音を聞きながら、私は祖父に促されるまま目籠が掲げられた玄関を潜った。

 暗くなり始めた空の下。ゆっくり閉まる引き戸の向こうで、冷たい風が地面を這い回るように吹き抜けていった。



     *****



 窓の外で風がびゅおう、びゅおうと唸りを上げている。

 白っぽい蛍光灯の明かりの下で、私は居間でコタツに入りながらテレビを見ていた。テレビ画面右上に表示されたデジタル式の時間表示によれば、祖父が車で祖母を迎えに行ってからまだ十分ほど。家に入ってから数えても十五分ほど。それだけしか経っていないにも関わらず、すでに窓の外は真っ暗で何も見えない。 いつの間にか窓の外を見つめていることに気付き、私は慌ててテレビへと視線を向ける。

 まただ。

 先ほどから嫌に窓の外が気になる。まるで墨汁を流したように暗く黒い窓の向こうに何かが潜んでいるような、縁側の向こうの暗い庭から何かがこちらを見つめているような、そんな想像が頭を離れないのだ。

 こんな想像をしてしまうのも、きっと祖父に聞いたコト八日の話が原因だろう。


「ダイマナコ……」


 その名前を口にしただけで居間の気温が一気に冷えたような気がした。

 人の悪事を見抜き病気を流行らせる神、ダイマナコ。夕方、自分が祖父についてしまった小さな嘘もダイマナコの見抜く「悪事」に含まれてしまうのだろうか――

 ガタガタガタ!

 と、不意に縁側を走り抜けた風が窓を揺らす音に、私は思わず体を強張らせた。

 ただの風の音だ。でなければ何の音だと言うのだろう? 風の音でないならばそれは……

 油が切れたロボットのようなぎこちない動きで、私は窓の外に顔を向ける。

 窓の外は先ほどまでと同じ真っ暗な闇が広がるだけで、他には何も見えなかった。

 ほら見たことか。何もないじゃないか。

 緊張から解放された頬の筋肉が自然と緩んで笑みの形を作る。


「ほら、やっぱり、ダイマナコなんていないんだって」


 誰に言うでもない言葉が口から零れ落ちる。 先ほどまで不安を煽ってきた何も見えない窓が、今はどうしょうもないくらいの安心感を与えてくれていた。


「あ、そういえばサンダル出しっぱなしだったっけ」


 縁側から庭に出られるように祖父母の家の縁の下にはサンダルが置いてある。そこまで気が回っていなかったが、この強風なら飛ばされてしまうかもしれない。


「入れとかないと」


 私はコタツから出ると窓を開けて縁側へと踏み出し、しゃがんで縁の下を探した。一瞬、縁の下に何かがいるのではないかという想像が頭をよぎったが、杞憂きゆうだったらしく何事もなくサンダルを回収して起き上がる。

――生垣の上からこちらを覗き込むに気づいたのはその時だった。


「え……?」


 それ・・は巨大な眼だった。

 瞳孔だけで大きめのお盆ほどもある一つの巨大な眼が、屋根と同じくらいの高さから私をじっと見つめていた。

 闇に紛れているせいで眼以外の部分がどんな姿をしているかは分からない。そして私はこれまでの人生でこんなものを見たことなどない。しかしそれでもそれ・・が何かは分かった。


大眼ダイマナコ……」


 コト八日にやってくる、人の悪事を見抜き病を流行らせる神。その巨大な眼がじっと私の眼を見つめてくる。

 まるで私の眼を通して私のこれまでの行い全てを見透かすように。

 金縛りにかけられたように動けない中、私の脳内を様々な考えが通り過ぎていく。あの眼は私の何を見ているのだろう? どこまで見られているのだろう? あの眼は夕方の私の嘘を「悪事」と見なすのだろうか? もし「悪事」と見なされたら私はどうなるのだろうか?

 のどが干上がる感覚が焦燥感を煽る。背中を悪寒が駆け上がりそれと入れ替わるように冷や汗が走り降りる。

 小学校の職員室の前で待たされているような時間がどれだけの間続いただろうか。不意にダイマナコの視線が私から逸れた。

 緊張が解けてその場にへたり込む私を冷たい風が包み込む。顔を上げるとすでにダイマナコは消えていた。



     *****



 マンションの部屋に着く頃には既に日は暮れていた。祖父母の家でダイマナコを見た――いや、ダイマナコに見られた・・・・あの日のように、冬の太陽はあっという間にその身を隠してしまう。

 あの後、私は祖父母と両親が帰ってくるまでずっと縁側で放心状態になっていたらしい。子供ながらにダイマナコのことは話さない方が良いと思って話さなかったが、そのせいで余計に騒ぎが大きくなってしまいしばらくは警察や病院に通い詰めだった。今でも町の大人の間では謎の出来事としてたまに話題に上がるらしい。

 病院での検査の結果は特に異常なしだった。原因不明の放心状態ということで精神的なものから身体的なものまで様々な検査を受けたがどれも結果は異常なし。どうやらダイマナコは小学生の私の嘘程度なら「悪事」に入らないと判断したらしい。

 しかし、今でもコト八日の日になると思うのだ。もしかしたらいつか、どこかで再びダイマナコに見られることがあるかもしれない、と。

 その時に私はまた見逃してもらえるのだろうか。


「……まあ、考えても仕方ないけどね」 


 鍵を開けて部屋に入る。明かりをつけてコタツのスイッチを入れれば、そこは暖かな我が家だ。


「おっと、忘れてた。ドアにこれかけてっと……よし。ただいまー」


 誰に言うでもなく呟きながら私は部屋のドアを閉めた。










     *****



 バタンと音を立ててマンションのドアが閉まる。そのドアにテープで取り付けられたフックには可愛らしい小さな籠が括りつけられていた。

 多くの眼をもって一つ眼のものを威圧する、あるいは侵入しようとするモノを編み目に沿って受け流し阻む、質素で簡便で身近な呪物。住人がその呪物に守られた部屋に入ったのを見て、それまで住人を見ていた巨大な眼を持つものはふいっと他所に目を向けた。

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