33話

 すると。

 ―――『あらあら、その名で呼ばれたのはこれが初めてだわ。でも………そうね、それがこの子の名前なのよね』

 鈴が鳴ったかのような声で彼女は言い、ふわりと微笑んだ。





 笑みを浮かべた、たったそれだけの動作なのに。

 その場にはなんともいえない大きな大きな圧力が音をたてるようにのしかかる。恐怖のようでそうでないものが、この土地を大きく圧迫したのだ。

 そのあまりにも重たすぎる気配に上官の男は大きく悲鳴を上げた。わたわたと足と手を動かし、さらに後ろへと芋虫のように後ずさり始めたのだ。


 ちなみにディックはというと―――この圧力を受けながらもしっかりと立っていた。

 、かろうじて立っていたと言い換えた方がいいのかもしれない。必死に身体を支えていなければ耐えられないほどに、彼女からの圧力は凄かったのである。




 彼女はもう一度蒼空を見上げたのち、スッとこちらに目を向けるとゆっくり歩いてきた。後ろにはいつの間にかスカイが深紅の髪の少女を騎士のように守ろうと一緒に付いてきている。

 彼女の足取りはしっかりしていて、迷いのない毅然としたものだった。


 それとは対照的に、上官の男はまた悲鳴をあげながら後ずさっていく。

 彼女が一歩歩くごとに一歩下がり、二歩歩けば二歩下がる、とそんな風に。どうやら彼女のことが怖いらしい。



 やがて男は瓦礫の一部に背中を大きくぶつけた。

 しかしそれでもなお、男は後ろへと下がろうと躍起になっていて。もう後ろに壁があって下がることができないということはわかっているはずなのに、どこまでも抗い、不様に逃げようと死に物狂いになっているようだ。


 だがついに彼女は上官の男の前で足を止めた。無表情な顔で男をじっと見つめ、ぐっと男の顔に近寄る。それは遠目から見ているとまるで男に口づけをしているように見えた。

 男は今度こそ情けない悲鳴を短く上げたのち、白目を向いて意識を飛ばした。

 意識が消えていることがわかると彼女はつまらなさそうに元の位置へと戻ると、また陰った表情で蒼空を見上げるのだった。





 そんな光景をディックは一つも動かずに見ていた。いや、一度も動けずにずっと見ていた。


 動けなかった理由なんてわかっている。

 理由なんて一つしかない。から、それ以外に理由はない。昔から知っている幼馴染みであるはずなのに、今はどこかに見えるのだ。目の錯覚かと思うくらいに。

 だけれどどこか、とても懐かしく感じるものもあったわけで。それがなんなのか、今のディックにはわからなかった。


 だからこそ彼女がまた蒼空を見上げたとき。

 幼馴染みだというのに、なに1つ言うことができなかったのである。

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