第1話 終わりの始まり
夢を――見ているのだろうか?
「タカシ、体調が悪いの? 良いのよ、学校にはカーチャンが連絡しておくから」
「タカシ、今日も無理そう? 仕方ないわね。無理しないで元気が出るまでゆっくり休みなさい」
思い出されるのは、母の優しい言葉。引け目を感じる自分の心――
「タカシ、パソコンが欲しいの? そう、パソコンの勉強をするのね。偉いわね。大丈夫よ。カーチャンがいいパソコン買ってあげるから」
「タカシ、パソコンの勉強は順調? そう、それなら良かった何か合ったらカーチャンに相談してね」
次々と浮かび上がっては消えていく母の心配そうな表情と言葉を、客席から眺めるような感覚に囚われながら俺の口から出てきた感想は、「嗚呼、まるで、走馬灯のようだ」などという呑気な内容だった――
「……カシ――」
「タカシ――」
「タカシ――――」
◇
誰かに呼ばれるような声に目を覚ますと、目に映るのは変わらぬ日常の風景そのものだった。
見慣れた天井に住み慣れた自室。俺の日常生活の全てが詰まっていると言っても過言ではない生活空間が、そこには広がっていた。
軽く伸びをして体を起こすと、着替を済ませてパソコンの前に向かう。
パソコンをスリープ状態から呼び起こし画面を付けてみると、昨晩夜遅くまでプレイしていたオンラインゲームの自キャラクターが強制ログアウトさせられており、寂しげなログイン画面がディスプレイ一面に広がっていた。
そうか、今日は平日の水曜日、定期メンテナンスの日だったか。
そんな事を考えながらゲームを終了させて、ディスプレイの右下に視線を送る。
現在時刻は……二〇一八年、七月十五日、十四時半……流石に寝すぎた。
世の皆様は学生ならば放課後に思いを馳せて午後の勉学に、会社員ならば残業が発生しない事を祈りながら定められた職務に励んでいる事だろう。
まあ、俺には関係無い話なのだが。
「腹が減ったな、遅めの朝食――昼食でも頂くか……」
欠伸をしながら二階にある自室を出ると、昼食を漁るために階段を降り、リビングへと向かうのだった。
◇
俺の名前は
引きこもりといっても俺は最低限のコミュニケーション能力は有している。
二人暮らしの母親とは普通に会話をするし、今の時代趣味でオンラインゲームをしていれば、慣れ親しんだ仲間達とボイスチャットで通話をする事も珍しくない。
初対面の人間や威圧的な人間に対してまで、正しい対応が出来るのかと言われれば怪しいのだが、そこは引きこもり、そんなケースは起こりえないのだ。そう、ここには完璧な生活空間が存在していた。
パソコンを起動させて、ニュース速報まとめサイトを覗き、夜遅くまでオンラインゲームに明け暮れる。
そんな自堕落な日々を今日まで過ごしてきた――否、今日も過ごすはずだったのだ……この瞬間までは。
「あらおはよう高志。今日は遅かったわね。お昼ご飯、机の上にあるから食べてね」
リビングの扉を開けると、エプロンを掛けた一人の女性が、家事をしながらこちらに振り向いた。
成人済みの息子がいると話せば、まず驚かれる若々しい見た目。
若干タレ目気味で穏やかさを感じる目元に、ハーフという事もあり日本人離れした容姿、外に向かって跳ねるようにウェーブの掛かった髪型。
学生時代に父親が行方不明になり、その後女手一つで俺を育ててくれた彼女こそ、出会う人殆どに「お姉さんですか?」と聞かれる俺の母親、カーチャンである。
「おはよう、カーチャン。今日仕事は? まだ水曜日でしょ?」
テーブルについて手を合わせると、カーチャンの用意した料理を食べながら、そんな疑問を投げかけた。
我が家の家計を支えているカーチャンが、平日に家にいる事はかなり珍しい。
先程名前を呼ばれたような気がして目を覚ましたのは、どうやらカーチャンによるものだったらしい。
「カーチャン今日は休んだのよ。タカシに大事な話があって……」
一体何の話だろうか、心当たりが無いか考えてみたが、思い当たる節は一つしか無い。
食事をする手を止めて続く母の言葉を待っていると、ようやくその口が開かれた。
「高志、24歳の誕生日、おめでとう」
何だ、誕生日か……心の中で安堵するのと同時に、力が抜け落ちていくのを感じた。
そうか、今日は俺の誕生日だったのか……すっかり忘れていた。心配して損したじゃないか。
安心して食事を再開する俺に向かって、カーチャンが近付いてきた。
「今日はね、プレゼントも用意してあるのよ。はい、コレ」
横から母が差し出したプレゼントに視線を送り、俺は飲みかけていた味噌汁を口から吹き出していた。
「げほっ……がはっ……っっ!」
咳き込みながら瞳に涙を浮かべる。
カーチャンに向かって振り向いた俺の眼前には、見間違うこと無く新品のスーツとネクタイが、彼女の手によって突きつけられていた。
「高志も今日で24歳、引き篭もり歴も……もう10年になるわね……今まで無理強いは良くないと強制して来なかったけど、カーチャンやっぱりこのままじゃ駄目だと思うの」
完全に思考を停止して固まっている俺を余所に、スーツとネクタイを机に置くと母はエプロンのポケットから鍵を取り出して言い放った。
「近所に三ヶ月契約でアパートを借りてあります。布団や最低限必要な生活必需品も既にそちらに用意してあります。三ヶ月分の生活費も後から貴方の口座に振り込んでおきます。それ以降は知りません。就職先を見つけてくるまで家には入れません」
頭の中が真っ白に染まっていく。
どうしてこうなった……どうしてこうなった……
「食事を済ませたら最低限必要なモノをそれと――」
「ちょっ――」
ちょっと待ってくれよ――そんな待ったを掛ける言葉が俺の口から放たれるだけの時間すら許されず、続けてカーチャンの口からトドメの一言となる呪文が放たれる。
「――パソコンの持ち出しは許しません。大家さんに話を通してインターネットの回線工事も一切通さないよう協力してもらっています」
その日、10年に渡り怠惰を貪ってきた俺の引き篭もり人生は、ガラガラと音を立てて瓦解していったのであった――
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