拾、日常への帰化
一、命名
「わざわざ足を運んでもらって、すまないな」
夕方頃。現在地は支部長室。
俺の目の前で、レスティオールがいつも通り朗らかに笑う。その隣で、いかつい顔つきの真面目そうな男が、書類に目を落として眉間にしわを寄せた。
「おい、レスティオール」
「どうした、ディルアート?」
「本当にこいつを引き入れるつもりか? あの問題児の息子だろう」
ディルアート、と呼ばれたその人は、じろりと俺の顔を睨む。
軍服のような服装も相まって、迫力がものすごいことになっている。その威圧的なオーラが刺さるようで、思わず縮こまった。
「問題ないさ。こいつ自身も充分に問題児だ」
「それが問題だと言っているんだ。ただでさえ厄介な狼を抱え込むというのに」
「おい、誰が厄介だって?」
「お、落ち着けよ、フェンリル」
俺の膝に乗っかっているフェンリルが、ディルアートさんに向かって威嚇する。ディルアートさんはフェンリルをじろりと睨み返してから、深く溜息を吐いた。
「問題しかない」
「まあまあ! 俺が大丈夫だと言っているんだ、大丈夫に決まっている」
「お前のその自信過剰は何とかならないのか、不愉快だ」
「お前は不敬なんだよ」
「少なくとも今のお前は敬うに値しない」
「何だと!」
「何だ、言い返せる材料でもあるのか。だったら言ってみろ、役に立たないお飾り支部長が」
「ぐっ……なんかお飾り支部長って語感がいいな」
「はいバカ! はい終了!」
テンポの良い会話にも驚いたが、レスティオールが逆らえない相手がいるという事実に驚愕した。
「いや、だがこいつらに関しては本当に大丈夫だ。セレスティアの太鼓判もある」
レスティオールがそう言うと、ディルアートさんはレスティオールの方を軽く睨んでから、じっと俺とフェンリルの様子を観察し、やがて呆れたように溜息を吐く。
「何かあった場合、責任はお前が取るんだろうな?」
「当たり前だろ。俺はお飾りじゃなくてちゃんとした支部長だぞ、お前の上司だぞ」
「上司?」
「何だ、やめろ、そんな『初めて聞いた言葉だ』みたいな反応はやめてくれ!」
どうやらこの二人はとても仲良しのようだ。数十年来の親友、という言葉がしっくりくる空気感がある。
「……俺は責任など取らないからな」
「大丈夫だって!」
そんなやり取りの後で、ディルアートさんが一度席を離れる。その姿を目で追っていると、すぐ傍のデスクから何やら書類を数枚つまみ、また戻ってきた。
「では、就業にあたっての契約書を書いてもらう」
「契約書」
ぺらり、書類が俺のすぐ目の前に置かれる。
細かい字でいろいろ書いてあるようだが、要は就業規則のようなものが書かれているらしい。就職する時の契約書ってこんな感じなんだろうか。
「よく読んでから、名前を書いて血判を押すように」
「血判!」
まさかの血判。
ああいや、認印なんてものがないだろうことは大方予測していたとはいえ、朱肉くらいはあるのではないかという期待はちょっとしていた。
「何だ、血判は初めてか? ナイフなら貸してやるから安心しろ」
「どう安心しろと!?」
レスティオールの笑い声をバックに、契約書を頭から読み始めた。
「俺は肉球でいいのか」
「ああ、可愛いからいいんじゃないか?」
「そういう問題じゃないだろ」
横から変な会話が聞こえてきて、集中力がものすごく途切れた。
***
「では、確かに」
俺とフェンリルの契約書を二枚揃えて、ディルアートさんがそう言った。
血判のために切った左手の人差し指をどうすべきか悩んでいたら、ディルアートさんがポケットから絆創膏を取り出し、俺の前に置いた。
「ありがとうございます」
傷口を舐めてから、絆創膏を拾い上げる。
フェンリルの様子を確認したら、自分で肉球を舐めていた。
「これで、リショウも正式な仲間だ。これからよろしく頼むぞ」
「ああ」
嬉しそうに笑うレスティオールに頷いて、絆創膏を指に巻く。
「ところで、レスティオール」
「ん?」
「こいつらの名前はどうするんだ」
ディルアートの問いかけに、レスティオールが俺たちの顔を見る。
そう言えば母さんの話を聞いていた時に、レスティオールが名前について言っていた気がする。新しく働くことになった者には、レスティオールが新しい名前を付けているんだったか。
「フェンリルはそのままでいいだろう。元々、エルディリカがこの森で付けた名前だ」
レスティオールがそう言うと、フェンリルがぴくぴくと耳を動かす。ぽんぽんと頭を撫でてやったら、へちょっと耳が寝た。
ヤバい、フェンリルが可愛く見えてきた。
「リショウは……考えているんだが、なかなかいいものが浮かばなくてな」
「お前が悩むとは珍しい」
「失礼だな、いつも悩んでいるさ! 腹を痛めるほどに!」
「だから長時間放っておいたものは食うなとあれほど」
「違う、間違えた。頭を! 頭を痛めて!」
「外の空気を吸え」
だんだん、ボケ気質の兄としっかり者の弟に見えてきた。
「そんな頭痛になるほど悩まなくてもいいんじゃないかと……思うんだけど」
「馬鹿なことを言うんじゃない! 今後お前が、もしかしたら数百年単位で背負っていく名前だぞ。適当に決められるものか」
「急に重い」
腕を組んで考え込み始めるレスティオールの隣で、ディルアートさんが頭を掻く。フェンリルの方に視線を落としたら、退屈そうに欠伸をしていた。
「フェンリルに対抗できる名前がいいな」
「どういう基準だ」
「バハムート、ヴァレフォール、アトモスフィア」
「どれもイマイチだな」
「リベリオン」
「名前が既に反乱因子」
いつの間にか名付け会議状態だ。
なんだか居心地が悪くなってきたんだがどうしたものか……などと思いながら片手間にフェンリルの頭を撫でてみたら、フェンリルがまた大きな欠伸をした。
「失礼するよ」
ノックの音がして、返事も待たずにドアが開く。
「ザルディオグか」
「何、まだ契約終わってなかったの?」
「契約は終わったんだが、レスティオールが名付けに悩んでいてな」
ディルアートさんはそう言ってレスティオールを指差す。ちらりとレスティオールを一瞥したザルディオグさんは、呆れたように溜息を吐いた。
「毎度のことながら、ご苦労なことだね」
「まったくだ」
「診察の時間なんだけど……まあいいや、とりあえず目だけ診るよ」
俺の顔を覗き込んで、ザルディオグさんが俺の眼帯を外す。
「左目、開けられそう?」
少し力を入れて、左目を開けようとしてみる。傷口がまだしっかり治っていないのか、上瞼と下瞼がくっついて離れない。
「まだ駄目そうだね。新しい眼帯に替えよう」
「はーい」
そんなやり取りをしつつ、レスティオールの様子を窺う。
レスティオールは俺の顔をじっと見つめて、小さく首を傾げる。
「スカー……クロウ……スケアクロウ?」
「それは案山子でしょ。傷跡から連想したんじゃなかったの」
てきぱきと眼帯を替えながら、ザルディオグさんは容赦なくツッコむ。
「なあ、ザルディオグ」
「何」
「何かいい案はないか? リショウの名前」
「何でそれを僕に聞くわけ?」
「フェンリルに対抗できるような、ものすごく強そうな名前を付けてやりたい」
「それが果たして彼に似合うのかな」
呆れた顔をしつつ、ザルディオグさんは俺の顔を見て、フェンリルの頭を見る。それから小さく溜息を吐き、治療道具を片付け始めた。
「強そうな名前って言ったら、レヴィアタンくらいしか思いつかないな」
「なんか違うな」
「リヴァイアサンとも言うらしいけど」
ザルディオグさんがカバンを閉じたところで、レスティオールがぽんと手を叩く。
何か思いついたのだろうか。レスティオールの方を向いたら、ディルアートさんとザルディオグさんも同じように顔を向けていた。
「いい語感じゃないか」
「それで決定でいいのか」
「リヴァイアサン……いや、待てよ? それだと敬称を付けた時にリヴァイアサンさんになってしまって言いづらいな」
「そこまで考えるんだ……」
なおも考えるレスティオールに、ザルディオグさんがとうとう呆れ返ったらしく、荷物を持って立ち上がった。
「決まったら教えて。僕は戻るよ」
「ああ、お疲れ」
ザルディオグさんがドアの向こうに消えた後で、レスティオールが口を開く。
「リヴァイアス」
これだ、とでも言いたげな表情をするレスティオール。俺の膝の上で、眠そうにしていたフェンリルが顔を上げた。
ディルアートさんも俺の顔を見て、納得したように顎をさすった。
「リヴァイアス、か」
「えっと……決定? っすか?」
「決定だ!」
レスティオールは嬉しそうに笑う。
「今日から、この組織におけるお前の名前は『リヴァイアス』だ」
「リヴァイアス……」
いやはや、やけにファンタジーっぽい名前がついたものだ。
でもそれと同時に、これで本当にこの組織に仲間入りしたのだと実感した。
「わかった」
緩んだ顔で頷いたら、膝の上でフェンリルが鼻を鳴らした。
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