三、安穏
「じゃあ、今度こそ安静にしておくように。世話係に迷惑をかけるんじゃないぞ」
「ああ、わかった」
念を押しまくってから、レスティオールが医務室を出て行く。ドアが閉まるのを見届けてから、仰向けでベッドに倒れ込んだ。
「よかったぁ」
フェンリルに危険が及ばないとわかった途端、安心しきってしまった。
緊張の糸が切れたのか、急激に眠気が襲ってくる。そのままうつらうつらと目を閉じ、意識を手放した。
***
『吏生』
気が付けば、目の前に母さんがいた。
場所は自宅のダイニング。いつもは父さんが座っている席に、今は母さんが座っている。
いつもつけている青いエプロンが、隣の椅子の背もたれに掛けられているのが見えた。
『いろいろ頑張っていたようだね』
「……ん、まあ」
『さすが、私たちの子。君は強い子に育ってくれたよ』
手を伸ばして、母さんは俺の頭をポンポンと撫でる。
気恥ずかしくなって目を逸らすと、母さんはくすくすと笑い出した。黒い髪が、動きに合わせて揺れる。
ひとしきり笑った後、母さんは笑みを浮かべたまま、少しだけ寂しそうに眉を下げる。
『決めてしまったんだね』
言外に込められた意味を汲み取って、頷く。
母さんは少しだけ俯いて、それから小さく首を振り、顔を上げて笑って見せた。
『寂しくなるな』
「自立が少し早くなっただけだろ」
『そう言われてしまったら、喜ばなきゃいけないじゃないか』
「喜んでくれよ。息子が立派に巣立つんだから」
そんな話をしながら、笑い合う。
しかし、これは所詮夢の中。目の前の母さんは本物じゃないし、しゃべっている台詞だって本人の言葉そのものじゃないのに。
『でも、あまり無理はしないように。体調には気を付けて』
「わかってる」
『困ったことがあったら、ちゃんと誰かに相談するんだよ。ディルアートやセレスティアなら、きっといい答えが返ってくる』
「ああ」
『ただ愚痴を聞いてほしいだけなら、ライディアスに言うといい。彼は気持ちに寄り添ってくれる人だ』
そこまで聞いて、少し戸惑う。
ただの夢にしては、いろんなことを言い過ぎじゃないか。ディルアートという人についてなんて俺は何も知らないし、ライディアスがそんな性格だなんて知らない。
『私はほとんどいつも森にいて、彼らとあまり深く関わることができなかったけれど……彼らはそんな私にもよくしてくれた。優しい人ばかりだ』
母さんはそう言うと、また少し寂しそうに笑う。
『だから、何も心配しない』
「母さん」
『大丈夫。……大丈夫』
深く頷いてから、母さんは真っ直ぐに俺を見た。
『君ならきっと、どんな場所でも君らしく生きていけるさ』
じわじわと、胸の奥が温かくなっていくような気がする。
何か言おうと口を開いたところで、後ろから頭を押さえつけられた。振り向けば、父さんがどこか満足そうな笑顔で俺の頭を撫でていた。
『しっかりやれよ』
そう言って、父さんは俺の頭から手を離し、母さんの方へ歩き出す。
目の前で、二人が視線を合わせて微笑み合う。相変わらず夫婦仲がよろしいようで、俺の顔もつられたように緩んだ。
「父さん、母さん」
呼びかければ、二人が同時に俺の方を見る。座ったまま、俺は二人に向かって深く頭を下げた。
生んでくれてありがとう。
育ててくれてありがとう。
親孝行が中途半端でごめん。
……いろいろと言いたいことはあったはずなのだけど、出てきたのは一言。
「お世話になりました」
そう言って顔を上げたら、父さんと母さんはお互いに顔を見合わせて笑った後、同時に俺の方を見た。
『吏生、』
母さんが口を開く。
けれど、その言葉はノイズに掻き消されていく。その姿は砂嵐に掻き消されていく。
目の前の光景が途切れる最後の一瞬、俺の耳に届いた言葉は。
『愛しているよ』
***
目を開けたら、白い天井が見えた。
何度か瞬きを繰り返してから、ごしごしと目の辺りをこする。
のっそりと起き上がり、両手を何度か握ったり開いたり。それから肩を回してみて、もうほとんど痛みがないことに気付いた。
「……レイシャル?」
身を乗り出して、ベッド下を覗き込む。
きょろきょろと視線をさまよわせている間に、上から声が落ちてきた。
「何してるの」
「ああっ、その声はザルディオグさん」
体を起こして視線を上げると、少し呆れた顔のザルディオグさんと目が合う。
長い前髪の隙間で藍色の目が細められたかと思うと、ザルディオグさんの口から小さい溜息が漏れた。
「無駄に元気そうだね」
「はい、もうあんまり痛くないです」
ぐるぐると左肩を回して見せたら、やんわりと止められる。
「診察するからとりあえず服脱いで」
「あ、はいっす」
言われるままに病衣を脱ぐと、ぐるぐるに巻かれた包帯がほどかれた。
左肩と左肘、ちょうどフェンリルに咬みつかれた辺りには、まだ治りかけの深い傷が見えた。
「やっぱり残るね、この痕」
「名誉の負傷ですよ」
「何言ってるの。今後この傷は『委員同士のくだらない喧嘩の末の傷跡』と語り継がれるんだよ」
「急激に不名誉」
ザルディオグさんはてきぱきと傷の処置を終え、新しい包帯を取り出す。それを俺の肩に巻きながら、不意に思い出したように口を開いた。
「彼の傷の処置も終わってるよ」
「! 彼って、フェンリルですか?」
「うん。獣医がもう大丈夫だって」
「そうですか!」
ほっとしたら顔が緩んだ。そんな俺の顔を見たザルディオグさんは、少し呆れたように笑う。
「君、一度殺されかけておいて、よくそんな反応ができるね」
「まあ、何だかんだと俺はあいつが好きですからね!」
「普通は自分を殺そうとした相手なんて好きになれないと思うけど」
「じゃあ俺は例外ってことですね」
「無駄に前向き」
巻き終えた包帯の端を結び、ザルディオグさんが俺の顔を見る。
「顔色もよくなったね」
「ガッツリ寝ましたからね!」
「そうだね。何だかんだ、一日寝てたからね」
「マジか!」
ずいぶん良く寝たとは思っていたが、まさか一日経っているとは思わなかった。
「君も無理しない範囲なら動いていいよ」
「いいんですか!」
「思った以上に治りが速いからね。ああ、でも傷が開くようなことはしないでよ」
「はい!」
「じゃあね」
ザルディオグさんが医務室を出て行くのを見届けてから、ベッドを下りて立ち上がる。
少し体がふらついたが、足腰に異常はない様子。ぐっと伸びをしてから、さっき脱いだ病衣を拾い上げて着直した。
「さてと、散歩でもするかな……」
カーテンをまくったところで、視界に入ったドアが開く。様子を窺うように顔を出したのは、毎度おなじみのセレスティアさんだった。
「あら、リショウ。もう起きていたのね」
「ああ、はい。おはようございます」
「よかったわ、まだ寝ていたらどうしようかと思っていたのよ」
セレスティアさんはにっこりと笑うと、自分の足元に向かって声をかける。
「さあ、入りなさいな」
そう言いながらセレスティアさんがドアを開けると、相変わらず構造がよくわからない服の、巻きスカートのような裾の部分がひらりと揺れる。その足元から、白い影が隙間を縫うように入ってきた。
「フェンリル!」
顔や体にいくらか包帯を巻いた状態で、フェンリルは俺の方へ近づいてくる。やがてすぐ傍まで来ると、フェンリルは俺の脚にすり寄ってにおいを嗅ぎ始めた。
「何だよ、甘えたいのか? お前、可愛いとこあるじゃねえか! ほらおいで!」
「調子に乗るな」
「痛い!」
しゃがんで両腕を広げたら、頭に強めのお手をされた。絶妙に痛い感じの衝撃に、思わず頭を押さえた。
「くたばったかと思ったぞ」
そう言って、フェンリルがフンと鼻を鳴らす。
「誰がくたばるか」
「お前は軟弱だからな」
「俺の生命力なめんなよ」
「知るか、バーカ」
そんなやり取りを、セレスティアさんがくすくすと笑いながら見ている。
それにつられて顔を緩ませたら、フェンリルに怪訝そうな顔をされてしまった。
「なあ、フェンリル」
「何だ、リショウ」
フェンリルの返事を聞いてから、抱き着いて思い切り頭を撫でてやった。
「おい、何すんだ」
迷惑そうな言い方をしつつ、よく見ればフェンリルの尻尾はゆらゆらと揺れる。
犬の生態に詳しくない俺でもわかる。この反応は、嬉しいときの反応だ。
「リショウ?」
怪訝そうに俺の名前を呼ぶフェンリルの声に、顔が更に緩むのがわかった。
心の中がうまく整理できない。
達成感とか、安心感とか、幸福感とか、いろんな明るい気持ちがないまぜになって、どんな顔をすればいいかわからない。
この言い様のない喜びを、どんな言葉で表現すればいいのかわからない。
「なあ、フェンリル」
「だから、何だよ、リショウ」
「おかえり」
「はぁ!?」
ようやく絞り出した言葉に、フェンリルが驚いたように顔を上げる。しばらくまじまじと俺の顔を見て、やがて呆れたように俺の肩に顎を乗せた。
「あー、はいはい、おかえり」
面倒くさそうにそう言うフェンリルにすり寄って、目を閉じる。若干獣臭いフェンリルのにおいに、ひどく安心する自分がいることに気付いた。
フェンリルも、よく見れば安心しきったような顔で俺に寄り掛かっていた。
お互い、ようやく『迷子』を卒業できたようだ。
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