玖、当然の処置

一、重傷

「おかえりなさい、リショウ?」



 戻ってきてまず聞こえた声に、ぞわわっ、と背筋が凍った。

 扉の前、にっこりと笑って仁王立ちするセレスティアさんが、腰に当てていた腕を組んだ。そして笑顔のまま小さく首を傾げ、口を開く。



「医務室で安静にしているはずのリショウが何故、外から傷だらけで帰ってくるのかしら? 不思議でならないのだけど?」

「いや、これはその……!」

「シュバルツ? あなたも怪我人を外へ連れ出すとはどういう了見なのかしら」



 ぞわわっ、シュバルツが震え上がる。それが伝わって、俺まで震え上がった。見事なほどに鳥肌が立ったので、鶏皮みたいだなぁ……などと思った次第。



「回収を」



 セレスティアさんの言葉の直後、地面から蔦が生え、フェンリルに絡みつく。

 咄嗟のことにフェンリルも反応できず、あっという間にすべての脚が自由を失い、地面に倒れ伏した。



「フェンリル!」

「チッ」



 舌打ちをして、フェンリルはセレスティアさんを睨む。

 腕を組んだまま、セレスティアさんは表情を消し、緑色の目を眇めた。そのすぐそば、柱の陰から、錫杖のようなものを持った人影が一つ歩み出てくる。



「ご苦労さん、リショウ。おかげで捕まえやすかったわ」

「ライディアス!?」



 セレスティアさんの隣まで歩いてきたライディアスは、睨むようにフェンリルを見てから、鼻で笑った。手にした錫杖が、シャランと音を立てる。



「それにしてもタイミングのいい奴やな。今から捜しに行くとこやったんに」

「捜しにって」

「もちろん、捕獲のためにや」



 ライディアスの視線を追って、フェンリルの方を見る。忌々しそうにライディアスの方を見ていたフェンリルが、睨むように俺を見た。

 その視線が俺を責めているように感じて、咄嗟にぶんぶんと首を振る。



「……わかってるよ、馬鹿」



 呆れたようにそうこぼした後、フェンリルは抵抗もせずに目を閉じた。



「賢明やな。思ったほど野生って感じもしん」

「エルディリカがずっと傍にいたのよ? 人間らしくもなるわ」



 二人の会話を聞きながら、なんとかシュバルツの背中から降りようと体を起こす。けれど、その前に体が浮いた。



「君はこっち」

「ザルディオグさん!」

「困るよ、勝手に外に出られちゃ」



 軽々と持ち上げられてしまったことに驚きを隠せずにいる間に、ザルディオグさんは俺を担いだまま建物の中に入っていこうとする。



「ちょ、待ってください、フェンリルは――」

「指示通りにしたから」

「助かるわ」



 短い会話をして、ザルディオグさんがセレスティアさんの隣を通り過ぎる。そのまま真っ直ぐに、ザルディオグさんが扉を開けた。



「ちょっと待ってください、話を」

「うるさい。舌、噛むよ」



 ぴしゃり、ザルディオグさんが俺の言葉を遮る。

 閉まっていく扉の隙間から、ぐったりした様子で横たわるフェンリルの姿と、そこに錫杖を突きつけるライディアスの姿が見えた。



「フェンリル!」



 無駄だとわかっていながら、手を伸ばす。その掌のすぐ向こうで、扉が閉まった。



 ***



 現在地は医務室。

 窓から脱走した前科のせいで、窓際ではないベッドを割り当てられてしまった。とは言え風景に大した違いはないし、もう脱走するつもりもないのでいいのだが。



「傷、残るかもね」



 俺の顔の治療を終えたザルディオグさんが、治療器具を片付けながら言う。

 その言葉を聞き流しながら、俺は左目に当てられた眼帯に触れた。まだ熱を持っているらしい傷口が、ずくずくと痛む。咬みつかれた肩も痛むが、どちらかと言えば左目の方が痛い気がする。



「今度こそ大人しくしといてよ」



 治療器具を片付け終えたザルディオグさんが、ベッドから離れて医務室を後にする。ドアが閉まる音を聞き届けてから、そっとベッドから抜け出そうとした。

 瞬間。



「おい、どこへ行く」

「うおおおおっ!?」



 唐突に聞こえた声に、思わず大きな声を出してしまった。

 恐る恐る振り返れば、見慣れたアシュレイの顔。非難するように細められた灰色の目が、俺を捉えていた。



「い、いや、ちょっとその、よよよ用を足しに」

「嘘がわかりやすい」



 隣のベッドとの境目のカーテンを少しまくったような状態で、アシュレイは小さく溜息を吐く。視線が痛かったので大人しくベッドに戻ったが、アシュレイはその場から動かずにじっと俺を見てきた。



「フェンリルを連れてきたそうだな」

「もう聞いたのか?」

「噂が広まるのは早いぞ。おそらく委員会全体、今頃その話題で持ちきりだろう」

「狭いコミュニティ怖い」



 とはいえ、建物はデカいし人数もかなり多いようではあるが。

 そんなことを思っていたら、アシュレイがベッドの傍の椅子に腰を下ろした。



「理由を聞いてもいいか」

「理由」

「お前が、ここから脱走してまでフェンリルを連れ帰ってきた理由だ」



 顔を上げれば、じっと俺の顔を見ているアシュレイと目が合う。

 責められているわけではない、のは分かる。どちらかと言えば、諭されているような気分だ。



「母親の代わりを務めようとでも思ったか」

「! 何でその話、知って」

「レスティオールがその話をしていた間、私が隣のベッドにいたのを忘れたか」

「あ」



 そう言えば、アシュレイも俺と同じく安静を言い渡されていたのだった。



「それがなくとも、なんとなくそうじゃないかとは思っていたよ」

「へ」

「お前はあの人に良く似ているから」



 アシュレイの言葉を聞きながら、視線を天井に移す。

 確かに、顔は母さんに似たと思う。しかし、性格まで似ているつもりはないのだが。



「俺は、自分が母さんの代わりになれるなんて思ってない」



 どうしたってまず性別が違うし、話を聞いた限りでは強さも頑丈さも敵いやしない。あんなふうにいつだって笑っていられる自信もないし、優しくいられる自信もない。



「フェンリルの本音が知りたかった」

「……」

「あと、どんな形であれ、フェンリルのゴールになってやりたかった」



 アシュレイはじっと黙ったまま、俺の話を聞いている。

 ああ、この人は俺の話を聞いてくれる。その事実に、ひどく安堵した。



「ただのわがままなんだと思う。……わがままって言うか、エゴって言うか」



 言葉を探して、目を閉じる。



「あいつを嫌いになりたくなかった」



 害悪だの、『怪物』だの、そんな伝聞だけであいつを判断したくなかった。一緒に森を歩いていた時のあいつは、確かにいい奴だと思ったから。

 例え、最終的には俺を殺すつもりだったのだとしても、くだらない話をして笑っていたあいつを、嘘だと思いたくなかったから。



「母さんが大切にしてた奴なら、なおさらだ」



 そこまで言って目を開けたら、アシュレイは先ほどと変わらず俺を見ていた。

 やがてアシュレイはわずかに口角を上げると、満足そうに言った。



「……そうか」



 小さく呟いて、アシュレイが立ち上がる。

 その様子を目で追っていると、アシュレイは俺の額の辺りを軽く撫で、そのままベッドを離れていく。



「アシュレイ?」



 声をかけると、アシュレイがこちらを振り返る。それから小さく笑って、ひらひらと後ろ手を振った。



「野暮用だ」



 カーテンが閉まって、しばらくしてからドアの開け閉めの音。それを聞き届けてから、体を起こした。

 アシュレイがどこへ何しに行くのかは知らないが、俺もフェンリルを解放してもらうために動かなければ。とりあえずはレスティオールのところだな……などと思いながら足を下ろしたところで。



「おいコラ、『迷子』」

「二人目!?」



 またもや声がして、肩が跳ねあがった。

 振り返る前に、膝の上にぽてっと何かが乗っかる感覚。そちらを見れば、やはり相変わらず可愛いレイシャルがいた。



「安静にって言われてただろうが、どこ行く気だ!」

「よよよ用を足しに」

「そのくだりはさっきのアシュレイ部長とのやり取りで聞いてたわ!」

「マジか」



 気付かないうちに近くにいたらしい。

 ガシガシと頭を掻いたら、レイシャルが深く溜息を吐く。



「まったくお前ってやつは! 勝手に抜け出しやがって! おかげで俺が大目玉くらう羽目になったわ!」

「ご、ごめんご」

「反省の色なしか!」

「すみません、今のはちょっと噛んだだけで」

「ややこしい噛み方してんじゃねーよ、『迷子』てめえコンチクショウ!」

「口悪っ」



 膝の上でぷんすかと怒るレイシャルにおろおろしていると、医務室のドアが開く音がした。

 カーテンが開き、ひょっこりと覗き込む顔、見慣れた黒いつなぎ。俺の姿を捉えて赤い目を細めるアスティリアが、そこにいた。



「おかえりなさいっす、リショウさん」

「てめえ、空気読め! 説教中だぞ!」

「あ、なんかすみません」



 俺が言葉を発するより先に、レイシャルが怒る。苦笑を漏らしながらベッド脇の椅子に座ったアスティリアは、俺を見て安堵したように笑った。



「でもリショウさん、無事そうでよかったっすよ。めっちゃ重傷みたいっすけど」

「だから説教中だっつってんだろ!」



 へらへらと笑うアスティリアと、ぷんすか怒っているレイシャル。

 すでに日常になりつつある光景に、顔が緩んだ。


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