三、本音

「エルド」



 聞こえた言葉を反復すると、フェンリルの頭が小さく動く。



「って、母さんのことか」

「……」



 沈黙。返事は初めから期待していなかったが、思った以上に無反応だ。

 しかし、沈黙は肯定という言葉もよく聞くので、そういうことなんだろうと判断する。



「……そんな名前だったのか、母さんって」



 現在の『白崎唯吏』という名前がつく前、レスティオールが『エルディリカ』と名付けるよりもっと前、おそらく母さんが生まれた時に付けられた名前。



「自分の母親だろ。何で知らねえの」



 低く這うようなフェンリルの声が、腹の辺りから聞こえてきた。



「母さんは名前が変わり過ぎなんだよ」

「何それ、知らねえんだけど」

「俺も知らなかったわ」



 そんなおかしなやり取りをしているうちに、フェンリルも落ち着いてきたらしい。

 一度深く呼吸をしてから、小さく笑った。



「やっぱり、エルドと同じにおいがする」



 フェンリルは俺の胸倉をつかんだままの手に、自分の額を軽くぶつけた。なんとなく俺の胸に顔をうずめたような形になっていて、どう反応したものか迷う。



「ムカつくにおいだ」



 そう言って、フェンリルはすんすんと俺のにおいを嗅ぐ。

 ムカつくだのと言っておいて、口調は妙に穏やかだ。さっきまでの殺意はどこへ行ってしまったのか。



「……わかったよ」

「何が」

「さっきお前に聞いたこと」



 お前は、母さんが嫌いなのか。

 どうして。



「嫌いなんて嘘だろ」



 本当は、母さんのことが好きで、とても大切で。

 だからこそ、自分を置いていった母さんが憎らしくて、嫌いだなんて言ったんだろう。



「本当はすっげー好きで、寂しすぎて会いたかっただけなんだよな」

「は? ガキ扱いすんな、誰が!」



 がばっと顔を上げたフェンリルが、涙目のまま俺を睨む。思ったよりくしゃくしゃな顔をしているフェンリルを見て、うっかり微笑ましい気持ちになってしまった。

 ついニヤニヤしてしまっていたらしく、フェンリルに思い切り頭をはたかれた。



「……へらへら笑ってんなよ、ムカつくツラだな」

「おい、容赦ないな。怪我人だぞ、こっちは」

「知ってるわ、やったの俺だろうが」



 フェンリルは呆れたように溜息を吐くと、ようやく俺の上からどき、すぐ横に座り込んだ。



「別に、エルドなんか好きじゃねえ」

「はい、嘘」

「……捜してたのは、文句言ってぶっ殺してやるためで」

「半分、嘘」

「……っ、寂しくなんか」

「もう誤魔化すのやめろよ」



 俺にほぼ背中を向けていたフェンリルが、視線だけで俺を見る。



「なあ、フェンリル」

「何だ、リショウ」

「話したいことがある。……今度こそちゃんと聞けよ」



 フェンリルは再び俺から視線を逸らし、フンと鼻を鳴らした。しかしそこから動こうとはしないので、どうやら聞いてくれるらしいと判断する。



「俺は、お前のゴールになってやりたい」

「……は?」



 意味が分からない、という顔をして、フェンリルが顔ごとこちらを向いた。



「お前が、母さんに何か言いたいことがあるなら、俺が代わりに聞いてやろうと思った」

「……お前なんかに言っても意味ないだろ」

「そう言うとは思ったけど、お前が少しでもスッキリするならいいかなって」

「……」



 むっとした顔をして、フェンリルはまた俺から顔を逸らす。



「お前が、母さんを殺したいほど憎んでいるなら」

「代わりに殺されてやろうって?」

「さすがにそこまではしないけど」

「しないのかよ」

「せめてお前の憎しみだけでも、こうやって受け止めてやろうと思った」



 フェンリルは、黙っている。

 それでも話はちゃんと聞いてくれているようで、また視線がこちらを向いた。



「寂しがってる、って発想はなかったんで考えてなかったけど、お前が寂しいなら」

「寂しがってなんか!」

「一緒に来いよ」



 勢いよくこちらを振り向いたフェンリルに、間髪入れず言った。フェンリルは面食らったような顔をして、ぱちくりと目をしばたいた。



「……は?」



 目を丸くしたフェンリルが、俺を見下ろしている。

 その顔がやたらと俺っぽくて、いまだにいろいろ痛む顔で笑って見せた。



「母さんなら、たぶんこのままお前と一緒にいるんだろうけど、俺にはできないし」

「馬鹿じゃないのか。お前なんかと一緒にいるくらいなら、独りでいるほうがいい」

「そう言うけどお前、また独りになったらきっと同じことするだろ?」

「どういう意味だよ」

「また今回みたいに、いろいろこじらせちゃうだろ? という意味で」

「こじらせるって言うな、馬鹿にしてんのか」



 苛立ちを隠しもせずに、フェンリルが騒ぐ。

 けれど、その様子からはもう、先ほどまでの恨みとか憎しみとかいう感情は見えなかった。黒く淀んでいた周囲の空気も、徐々に薄らいで、明るくなってきた気がする。



「話し相手でも、喧嘩相手でも、いつでもなってやるからさ」



 怪訝そうな顔で俺を見下ろすフェンリルに、手を伸ばす。



「一緒に来いよ。その方が、俺は嬉しい」



 フェンリルは思い切り眉をひそめて俺を見る。やがて徐々にその表情が和らぎ、最後には小さく笑った。



「馬鹿じゃねーの、お前」



 その表情は、悪戯っぽく笑うときの母さんと、よく似ていた。

 つられて笑っているうちに、がさがさ、草を踏む音が近づいてくる。フェンリルは瞬時に姿を狼に戻し、警戒するように様子を窺った。

 がさり、音を立てて出てきたのは、見慣れたシュバルツの姿。



「シュバルツ」

「……お前か」



 フェンリルが小さく舌打ちをする。シュバルツはしばらくじとっとした目で俺たちの様子を窺い、やがて呆れたように溜息を吐いた。



「にゃあ」



 一声鳴いて、シュバルツは俺に近寄り、俺の頬にじゃれつくみたいに顔をすり寄せてきた。髭が顔にあたってくすぐったくて、思わず笑う。



「あはは、ごめん。いや、見た目ほど重傷じゃないから大丈夫だって」

「いや、相当の重傷だと俺は思う。殺すつもりだったし」



 体に力を込めて、起き上がる。

 瞬間、急激に脳がぐらぐらと揺れる感覚がして、またすぐ倒れた。



「……思ったより重傷でした」

「馬鹿」



 呆れ返ったフェンリルが、もう一度人の姿になる。それから俺の体を持ち上げると、どさりとシュバルツの背中に乗せた。



「そいつ頼む。……俺はこっちだ」



 フェンリルは地面に突き刺さっている大剣に近付き、引き抜いた。まだ少し残っていた黒い空気が、一瞬で霧散した。



「フェンリル?」



 大剣を担いで自分の体にくくりつけているフェンリルの様子に、思わず首を傾げた。するとフェンリルは呆れたように溜息を吐き、俺の方へ向き直る。



「一緒に行くんだろ」



 一瞬、事態が飲み込めなかった。

 フェンリルはまた姿を狼に戻して、シュバルツの隣に着く。



「い、一緒に来てくれるのか?」

「は? お前が散々そう言ったんだろうが、やっぱり来るなって言うのか」

「いや、違う! 来い!」

「だから行くって」



 溜息を吐いてから、フェンリルが俺を見上げる。



「だが、一つだけ条件がある」

「条件?」

「俺は好きにやらせてもらう。縛られる気はさらさらない」

「は!?」

「俺の自由を保障しろ。それが条件だ」

「ちょっ、それ俺の権限ではちょっと……!」



 思わず首を振ると、フェンリルは耳をぴくぴくと動かしてから、鼻を鳴らした。



「何とかしろ」

「う、わ、わかったよ……レスティオールに何とか頼んでみる」

「よし」

「でも俺からも一つ言わせてもらうぞ、フェンリル!」

「は?」



 言い返されると思っていなかったのか、フェンリルは目を丸くして俺を見上げる。ちょっと可愛いとか思い始めてしまった。



「お前、一緒に来いってだけじゃ飽き足らず」

「何かあったらちゃんと俺に言え」



 フェンリルの文句にかぶせるように、言葉を重ねる。ぱちくりと目をしばたいて、フェンリルは黙った。



「嫌なこと言われたとか、嫌なことされたとか、何でも俺に言え。一人で抱えなくていい」

「またガキ扱いか、お前」

「そうじゃない。またこじらせられても迷惑だって言ってんだ」

「だからこじらせるとか言うな」



 少し苛立った様子で、フェンリルが俺に向かって唸る。



「環境が変わるんだ。イライラすることだって多いと思う。お互いに」



 そう言ったら、フェンリルが俺を睨み上げたまま首を傾げた。



「だから、ちゃんとお互いに本音でぶつかり合っていこうぜって話」

「……」

「どうだ!」



 俺、いいこと言ったんじゃね?

 そんなことを思いながらフェンリルを見たら、ものすごく嫌そうな顔で溜息を吐かれた。



「言いたいことは何となくわかった」

「わかってくれたか!」

「でもお前、恥ずかしいやつだな」

「真顔で言うなよ、余計恥ずかしいわ!」

「恥ずかしい自覚はあったのか」



 そんな会話を繰り広げている間に、シュバルツが大きな欠伸をした。

 待ちくたびれたらしい。



「待たせてごめん、シュバルツ」



 背中をポンポンと叩くと、シュバルツが首をこちらへ向けた。呆れたような視線が刺さって、ちょっと痛い。



「帰ろう。フェンリルも」



 そう言って笑って見せたら、二匹揃って呆れたように笑った。


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