二、落涙

「は、」



 意味が分からない、という顔で、フェンリルは嘲笑交じりに言った。



「お前の話を聞くことに何の価値がある」

「それは聞いてから決めればいい」

「聞いてやる義理なんかない、帰れ。あるいは今度こそ殺してやろうか」



 威嚇するように、拒絶するように、フェンリルは俺を睨む。

 不思議なことに、思ったほど恐怖を抱かなかった。あまりに恐怖が強すぎて、そろそろ麻痺してきてしまったのか、あるいはフェンリルの視線に慣れたのか。

 まあ、どちらでもいい。



「お前が捜してる人のことを、俺は知ってる」

「!」



 ぴくり、フェンリルの耳が動く。



「どうしてこの森からいなくなったのかも、今どこにいるかも、どんなふうに生きているのかも、全部知ってる」

「……」

「俺は」



 この話をすることで、フェンリルがどんな反応をするのか、俺にはわからない。

 けれど、それを話さなければ何も始まらないし、何も終わらない。俺たちはどこにも辿り着けない。……と、思う。


 深く呼吸をして、フェンリルの顔を真っ直ぐに見る。



「その人の息子だ」



 瞬間。本当に、一瞬のことだった。

 少し離れた場所にいたはずのフェンリルが、いつの間にかすぐ目の前にいた。



「!」



 咄嗟に左腕で頭を守ると、左肘の辺りに強い衝撃。咬み付かれたと認識したのとほぼ同時に、飛び付かれた勢いで後ろに倒れ込んだ。

 みしり、骨が軋むような音がする。



「っぐ、あああっ!」



 反射的に、左手に右手を添え、肘鉄の要領で左肘を突き出した。そのまま力を込めて起き上がる。肘をフェンリルの口の中に思いきり押し込む形になり、フェンリルは一瞬苦しそうに息を詰めた。

 すぐに俺から口を離して、数歩後ろに飛び退くフェンリル。少し咳き込んで、低く唸りながら俺を睨む。



「息子だから何だ、関係ないだろ……!」



 俺を睨んだまま、フェンリルは言う。



「お前はあいつじゃないだろ!?」



 吠えるように叫んだフェンリルの声が、びりびりと周囲の空気を揺らす。

 まだ無事な右腕に力を込めて、立ち上がる。負けじとフェンリルを睨み返した。



「ああ、そうだよ、当たり前だろ。俺は母さんじゃない」

「だったらお前には何の関係もない、何の用もない!」



 前回の冷静な態度とは全く違う、言うなれば激昂している状態。正直、母さんの話を出すだけでここまでの反応を示すとは思わなかった。

 フェンリルはなおも俺を睨み、唸る。



「今すぐ俺が殺してやるから、その口を閉じろ!」

「殺されに来たわけじゃない、俺はお前と話しに」

「黙れ!」



 また、びりびりと空気が揺れる。周りの樹が、ざわざわと音を立て始める。



「ああ、イライラする。イライラする、イライラする」



 吐き捨てるようなフェンリルの言葉に、周囲の空気が更に淀んでいく感覚がする。思わず眉根を寄せたところで、フェンリルがじろりと俺を睨んだ。


 そして咆哮。


 今度は、フェンリルが地面を蹴る瞬間が見えた。体をわずかに右へ傾けて、首を狙ったらしいフェンリルの攻撃を肩で受ける。



「だあああ!」



 食い千切られる前に、フェンリルの頭を左手で押さえながら、地面に叩きつけるように体を倒す。

 仰向けに倒れたフェンリルは、一瞬で姿を人間に変え、俺の腹を蹴り上げた。前方へ一回転。何とかうまく起き上がったところで、後方から近付く気配。

 振り返るより先に拳を後ろへ向かって振り抜く。



「ぐあっ!」



 ジャストタイミング、すぐに振り向くと、顔を押さえるフェンリルが見えた。

 その隙に距離を取って立ち上がる。フェンリルはすぐに体勢を立て直すと、俺の顔めがけて勢いよく右手を振り下ろす。

 皮膚が削れる音がした。左目がうまく開かない。その辺りに手をやっている間に、今度は頭をつかまれ、そのまま地面へ叩きつけられた。



「生意気なんだよ、リショウよぉ!」



 脳が揺れる感覚が気持ち悪い。異常がない方の右目を開けると、俺……いや、母さんとよく似た顔のフェンリルが、瞳孔の開いた目で俺を見下ろしていた。


「なあ、おい、リショウ!」


 数回、後頭部を地面に叩きつけられて、さらに脳が揺れる。視界が揺れる。完全にマウントされた状態になっているらしく、身動きが取れない。


「お前に何がわかるんだ? ああ?」

「ぐっ……!」

「お前に、俺やあいつの何がわかるんだ!?」



 何度目かで、ようやく両手でフェンリルの右腕をつかむ。押しのけるようにして起き上がろうとするが、フェンリルも右腕に力を込めて俺を起き上がらせまいとする。

 しばらく押し合いをするうちに、フェンリルの左手が俺の首にかかる。その瞬間、ぞわりと全身に寒気が走った。



「う、あああああああっ!」



 火事場の馬鹿力というやつか、あるいは俺の声にフェンリルが驚いて力を抜いたのか。俺は勢い良く起き上がり、そのままフェンリルに頭突きをした。わずかにフェンリルが怯んだところでまた距離を取り、大きく呼吸する。



「どうせ俺には何もわかんねえよ! だから知りに来たんだろ!」



 大声を上げると、また脳が揺れる感じがする。気持ち悪さに多少の吐き気を催しつつ、深く呼吸をしてしのぐ。



「俺は母さんの過去を知らなかった。だからお前にも聞きに来た」



 いまだにうまく開かない左目の辺りから、血が頬を伝っていくのがわかる。何度拭っても、どうやらしばらく止まりそうもない。



「お前は、母さんが嫌いなのか」



 そう問いかけると、フェンリルがわずかに息を飲む。けれど直後、フェンリルは飲んだ息ごと吐き捨てた。



「ああ、嫌いだ」

「どうして」

「黙れ、どうせお前にはわからない!」

「わからないから聞いてんだ」

「いい加減にしろよ、お前」



 お互い、肩で息をする。フェンリルは相変わらずの表情で俺を睨む。恨みや憎しみなんていう、いろんな負の感情を込めた顔で。



「フェンリル」

「うるさい!」



 フェンリルが一歩踏み込んで、うまく開かない左目に衝撃。背中が樹の幹に打ち付けられて、そのまま地面にずり落ちた。

 肩で息をするフェンリルの右拳から、ぽたり、地面に向かって血が滴り落ちる。あれは俺の血だろうか、フェンリルの血だろうか。ここからでは判別もつかない。



「嫌いだ、お前も、あいつも、あの白い建物も、」



 一歩、一歩、ゆっくりと俺の方へ進みながら、フェンリルは言う。

 フェンリルが近付くたび、頭の中で警鐘が鳴る。動かなければ、避けなければ、脳が騒ぐのに、体が動かない。



「全部、嫌いだ……!」



 ぐいっと俺の胸倉をつかみ上げ、フェンリルが俺の顔を見下ろす。

 頭がぐらぐらして、視界が定まらない。空気が重く淀んで、呼吸がうまくできない。



「何でだよ、なあ、何で」



 俺の胸倉をつかんで揺らしながら、フェンリルが言う。

 がくがくと頭が揺れて気持ちが悪い。そのうちにフェンリルの力が抜けていき、俺の後頭部はゴツンという音を立てて地面に落ちた。

 あまりの痛みに何も言えずにいる間に、フェンリルが小さく鼻をすするのが聞こえた。



「何で、どうせ離れていくくせに、俺に構うんだ」



 フェンリルの両手は俺の病衣の襟元を握ったまま。そればかりか、握りしめる力が多少強くなっているような気がする。



「あいつに出会いさえしなければ、ずっと独りでも平気だったのに」



 後頭部の痛みに閉じていた目を開ける。視界に入ったのは、俺の胸倉をつかんだまま俯いているフェンリルの後頭部。



「初めからずっと独りなら、こんな感情、知らずにいられたのに」



 俯いたフェンリルの頭が、鼻をすする音と一緒に揺れるのが見える。俺の襟元をつかむフェンリルの手が、小さく震えているのが見える。



「……一緒にいようって言ったのに、あいつ」



 ぽたり、ぽたり、腹の辺りに水滴が落ちる感覚。反射的に空の方を見てみたけれど、いつも通り空は見えない。雨が降っているわけでもない。



「何でだよ、なあ」



 力なく、フェンリルがまた俺の襟元を揺らす。先ほどまでの力は感じられない。完全に戦意を失ったらしい。逆に心配になって、じっとフェンリルの頭頂部を見つめた。



「何で、お前がここにいるのに、あいつがいないんだ」

「……」

「ここはあいつのにおいでいっぱいなのに、何であいつがいないんだ」

「フェンリル」

「お前なんかいらない。俺が会いたいのはお前じゃなくて」



 そう言いながら、フェンリルは襟元をつかんだままの手で、弱々しく俺の胸を叩く。



「お前なんかじゃ、なくて」



 フェンリルの声が震える。

 その声は、相変わらず恨みや憎しみなんていう、負の感情がないまぜになった声。

 けれどこの時、俺はようやく気付いた。それは初めから感じていた違和感の正体。

 恨みや憎しみと混ざり合って、おそらくフェンリル本人すら忘れてしまった感情。



「エルド」



 フェンリルが小さくこぼしたその言葉の意味を、俺は知らなかったけれど。

 そこに込められた『寂しい』という感情が、痛かった。


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