捌、必要な衝突
一、対峙
べしゃり、着地と同時に、無様に地面に倒れ込む。
いや、別に転んだわけじゃない。そう、足への負荷を極力減らすためにこう、受け身を取るような感じで着地したわけで、断じて転んだわけではない。
あとほら、長くベッドに寝転んでいたもので、体力が多少低下していたということも影響していたと言うか、何と言うか。
結論的には。
「思ったより高かったなぁ……」
上から見下ろした時は分からなかったが、俺がいたのは校舎の三階相当の階層だった模様。こうして地面から見上げてみると、意外と高かった。
腕に力を入れて、起き上がる。体があまり痛まないのは、地面を覆っている草がクッションになったからだろうか。あるいは結果的に俺の着地がうまかったからか。後者ということにしておこう。
「さて、と」
立ち上がって、服の汚れをはたく。
着の身着のまま来てしまったので、服装は病衣みたいなものだが……まあ、動きを制限されるようなものでもなさそうだ。唯一の心配点と言えば。
「裸足のままで来ちまったなぁ」
靴を履いていない素足で、草を踏む。足の裏をくすぐる草の感覚が新鮮で、少しばかり気分が高揚する。
大きく息を吸い込んでみる。高さが違うからなのか、窓を開けた時にはあった花の香りがしない。高い位置に咲く花なんだろうか。
「行くか」
辺りを見回して、歩き出す。向かいたい場所の正確な位置は分からないけれど、すべては直感だ。
開けた場所を数歩進んで、森へ差し掛かろうとするその瞬間、ぐいっ、と背中を引っ張られる感覚がした。
「うおっ」
バランスを崩して尻餅をつく。何事かと顔を上げれば、俺を見下ろす黒い虎と目が合った。
じっと俺を見下ろす青い目は、睨んでいるようで、あるいは非難しているようで。少なくとも、好意的な視線ではないのは確かだった。
「シュバルツ」
立ち上がって、もう一度視線を合わせる。シュバルツはやはりじっとりとした目で俺を睨んでいて、居心地の悪さに思わず溜息を吐いた。
「あー……いや、よくないことしてるっていうのはわかってるよ。そんな顔で見るなよ」
「にゃあ」
「確かに考えなしの行動だとはわかってる! 反省ならあとでいくらでもする!」
「にゃあ?」
「本当だって!」
虎に向かって何の言い訳をしているのかとも思いつつ、責められているような視線が痛いので仕方がないと思う。
と言うか、心の中をすべて見透かされているような、もしくは頭の中をすべて読み取られているような感じがして、ついついしゃべってしまう。居心地は悪いが、なんとなく、シュバルツならわかってくれるような気もする。
「受け止めきれない後悔はしたくないんだ」
そう言ったら、シュバルツは小さく首を傾げ、わずかに怪訝そうな表情をする。
「だから会いに行く。俺に何ができるかなんてわからない。何もできないかもしれない。今度こそ殺されるかもしれない。
それでも、今あいつに会いに行かなかったら、俺はきっと後悔する。自分じゃ受け止めきれないくらい、後悔する」
怪訝そうな表情のシュバルツに、それでも語りかける。
言い訳にしか聞こえないかもしれない。だけど全部、今の俺が抱える本音だから。
「どうしても、フェンリルを放っておけないんだ」
フェンリルに会うのは怖い。あいつに首を絞められたことを思い出すだけでも、背筋が凍るほど怖い。実際にあいつを目の前にしたら、足がすくむかもしれない。
それでも、フェンリルがずっと母さんのにおいを求めてさまよって、どこにも辿り着けずにいるのなら、俺がゴールになってやりたいと思う。
「あいつもきっと、ある意味では『迷子』なんだ」
そこまで言って、シュバルツの顔色を窺う。怪訝そうな表情は和らいでいたが、じっとりとした視線は変わらない。
これ以上何を言えと言うんだシュバルツ、俺の手札はすべて出し切ったぞシュバルツ。
頭を抱えて悩んでいたら、やがてシュバルツは呆れたように溜息を吐いた。
「みゃあ」
視線を合わせると、シュバルツが俺の方を向いたままゆっくりと瞬きをした。
俺には、猫の仕草の意味も、鳴き声の意味も、まったく分からない。けれど今の瞬きは何となく、好意的なもののように思えた。
「納得してくれたのか?」
「にゃあ」
一声鳴いてから、シュバルツは伏せの姿勢になり、自分の背中の方を顎で指す。
その様子は、まるで。
「乗れって、言ってるのか?」
「にゃあ」
「フェンリルのところに、連れて行ってくれるのか?」
「にゃーお」
呆れたような顔からは、『だってお前、どうせ場所わかんないんだろ』という言葉がひしひしと伝わってきた。
猫の仕草や鳴き声の意味は分からないが、シュバルツの表情はかなり読み取れるようになってきた気がする……なんて内心で喜んでいる間に、シュバルツは『早くしろ』と言わんばかりに自分の背中を顎で指した。
「頼む」
背中にまたがると、シュバルツはのっそりと起き上がり、ひくひくと髭を動かした。
やがて方角がわかったらしく、シュバルツが急に走り出す。一瞬振り落とされそうになりつつ、俺は何とかその背中にしがみついた。
***
どのくらい時間が進んだだろう。
調子よく走っていたシュバルツが、少しずつスピードを落としてきた。
「疲れたか?」
顔を上げて尋ねれば、シュバルツは小さく首を振る。
やがてシュバルツが完全に足を止めたところで、そこが『そう』だと気付いた。
「……ああ、」
見た目ではわからないが、黒く淀んだ空気が足に絡みつく感覚。
おそらくフェンリルが抱えている、恨みとか憎しみとか、そういう負の感情の巣窟。
「大丈夫、ここでいい」
「にゃあ」
「死にはしないさ。息苦しいだけで」
シュバルツの背中から降りて、顎の辺りを撫でてやった。気持ちよさそうに目を閉じた後で、シュバルツは俺の頬に顔をすり寄せる。
「行ってくるよ」
軽く手を振ってから、シュバルツに背を向ける。
草を踏むごとに、沼に沈んでいくような錯覚を覚える。このまま溺れてしまいそうで、意識的に呼吸を深くする。鼓動が速くなっていくのがわかる。
視線だけで辺りの様子を窺う。心なしか、この辺りに根付いている樹もあまり健康じゃなさそうに見える。フェンリルがここにいることで、何か良くない影響を及ぼしているのかもしれない。
「……っ」
息を吸おうとして、一瞬気道が詰まった。もう一度息を吸い直すが、酸素が肺まで届かないような感じがする。気のせいでなければ、進むごとに空気が重くなっている。
あの時、気付かないまま今のように進んでいたら、途中で窒息していたかもしれない。……と言うか、今まさにその危機が迫っている気がしている。
やがて、少し開けた場所に出た。
その中央には古びた大きな剣が突き刺さっていて、フェンリルはその剣に寄り添うように、そこにいた。
「何しに来た?」
窺うような、怪訝そうな声が聞こえた。
その場で足を止めると、フェンリルが剣の傍で立ち上がる。
「リショウ、お前、何故そこまで来てまだ立っている? 俺以外の生き物は、ほとんどがその辺りまで来ると苦しんで倒れ伏す」
「……まあ、多少、息は苦しいよ」
フェンリルの言葉に、ゆっくりと呼吸しながら返す。するとフェンリルはなおさら怪訝そうな表情をして、睨むように俺を見た。
「じゃあ何で来た」
その声色には、やはり恨みや憎しみなんていう負の感情が込められている。
けれど、それだけじゃないような気がした。
「お前に、会わなきゃいけないと、思ったから」
「何で」
「お前を放っておけない」
「は?」
心の底から意味が分からないという顔で、フェンリルは吐き捨てる。
「お前に何か関係あるのか? 俺がここにいることが? 意味が分からない」
「関係あるさ」
一歩、フェンリルの方へ近付く。
フェンリルは一瞬たじろいだように後退したが、すぐにまた元の位置へ戻った。
「おいおい、まさかとは思うが自殺志願か?」
「そんなわけがあるか」
「ならどうして近付こうとする? お前、それ以上進んだら死ぬぜ?」
「死なないさ」
俺の宣言に、フェンリルはなおも怪訝そうな顔で俺を睨む。
もう一歩。
「こんなところで、俺が死ぬわけない」
「大した自信だな」
「俺の生命力、すげえらしいから」
口角を上げて、フェンリルに向かって笑って見せた。
フェンリルは何度か瞬きを繰り返してから、吐き捨てるように嘲笑う。
「馬鹿じゃないのか。すでにヘロヘロじゃねーか」
「二日ほど熟睡したんで、多少運動不足なんだよ」
「そうかよ」
向かい合うフェンリルは、剣を守るように寄り添い、俺に対して警戒の視線を送ってくる。少し距離を取った辺りで立ち止まり、俺はもう一度深呼吸をした。
「なあ、フェンリル」
「……何だ、リショウ」
変わらない返答に口角が上がる。
何気ないことに感じた嬉しさで、少し心が軽くなった気がした。
「話したいことがあるんだ。聞いてくれ」
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