三、脱走

「……やっぱり、すぐに信じられる話ではないよな」



 苦笑を漏らすレスティオールの声を聴きながら、俺は手元の書類を注視した。

 記載内容は、名前だったり所属だったり、最後の方は追放に至った経緯だったり。



「リショウ?」



 レスティオールが、窺うように俺の顔を覗き込む。俺は書類から視線を外さないまま、口を開いた。



「俺の体がやたら速く森に順応したのは、母さんが長くこの森にいたからですか」

「ああ、おそらくな」

「俺がこの森に吐き出されたのは、俺が父さんと母さんの間に生まれたからですか」

「その可能性は大いにある」

「フェンリルが俺のにおいを『紛らわしい』と言ったのは、俺のにおいが母さんと似てるからですか」

「そうだろうな」

「フェンリルが俺を殺そうとしたのは」



 くしゃり、持っていた書類にしわが寄る。



「母さんを、殺したいほど憎んでいるからですか」



 その問いかけに、レスティオールは少しだけ黙った。

 それから、ぐしゃぐしゃと俺の頭を撫で回して、言った。



「例えそうだとしても、お前に危害を加えさせるようなことは二度とさせないさ」



 顔を上げると、レスティオールと目が合う。



「前置きが長くなったが、ザルディオグの件で俺が言いたいことは一つだ」



 頭の上に載っていた手が離れて、手元から書類が離れていく。レスティオールは母さんの書類を折りたたみ、再び懐にしまいこんだ。



「どんな判断をしようと、お前が後悔すら受け止められるならば、それでいい」



 いまだ混乱している頭の中で、その言葉だけはすんなりと心に入ってきた気がする。

 思わずレスティオールの顔を凝視していたら、照れたように笑われた。



「エルディリカもきっと、そう言ったと思う」



 ああ、確かにそんな気がする。

 今、俺の頭の中で笑う母さんも、俺の肩を叩いてそう言っている気がする。

 とはいえ、実際に母さんがそんなことを言った記憶もなければ、そんな場面に相対した記憶もないので、本当に母さんがそう言うかどうかなど確かめようもないのだけど。



「俺も、そう思います」



 そう言ってくれたらいいと思った。



 ***



 レスティオールが出て行ってからしばらく。

 壁に寄りかかったまま天井を見た。そのまま目を閉じて、大きく呼吸をする。


 今、考えなければいけないこと。

 痛い思いをしてでも帰りたいのか、親と離れてでもここに残りたいのか、その二択。


 例えば、元の場所へ戻るとして。

 レスティオールやザルディオグさんがあれほど嫌そうな顔をする、という恐ろしいレベルの苦痛を伴う方法を用いるとのこと。どういう方法かはわからないが、ただでは済まなそうなのは確かだ。


 けれど、戻りさえすればこの森のことは忘れるという話。帰り着いてしまえば、その苦痛さえ忘れるんだろう。



「忘れる」



 忘れるっていうのは、つまり『この森で経験したすべて』と考えるのが自然だ。

 何故なら、出会った人のことを覚えてしまっていたら、どこで会ったのか、という疑問から記憶を手繰り寄せてしまう可能性がある。


 この森のことを完全に記憶から抹消するには、やはりそれこそ森で経験したすべてを忘れなければならない。



「……あれ、ちょっと待てよ」



 壁に寄り掛かっていた体を起こし、腕を組む。それから顎の辺りに手をやって、長考の構え。


 今の俺の考えが正しいとしたら、両親のことはどうなる?

 レスティオールから語られた両親の馴れ初めは、忘れる記憶にあたると思う。けれど、俺が元の場所へ戻って両親の顔を見た時に、『両親についてどこかで何かを知った気がするんだが』みたいなことになってしまいやしないか。


 この場合はどこまで忘れるんだろう。元の場所へ戻った時、俺は両親のことをどこまで覚えていられるんだろう。



「……恐ろしいところに思い至ってしまった」



 考えてしまったことを振り落とすように、ぶんぶんと首を振る。

 それから、長考の構えのままもう一度壁に寄り掛かった。


 さて、もう一方。例えば、この森に残るとして。

 少し早い自立と考えればそれまでだが、親とは離れて暮らすことになる。それも、おそらく今後二度と親に会うことは叶わないだろう。樹への干渉が罪になるなら、里帰りなどしようものなら一発追放だ。親不孝にも程がある。


 顔を上げたら、後頭部の辺りからゴツンという音がした。少しだけ頭に痛みが走ったものの、たいしたことでもないのでそのまま目を閉じた。


 森に残る最大の利点は、この森で経験したことを忘れないで済むことだ。

 この森で見た風景、聞かされた話、出会った人や動物、キャパオーバーになるほど膨大な量の情報をすべて忘れずにいられる。そのうえ、アスティリアやレイシャルとだっていつでも会えるし、いつでも話せるようになる。


 想像しただけで楽しそうだし、痛い思いをしてまで帰るくらいならずっとここに。



「……あれ」



 そこまで考えて、目を閉じたまま首を傾げる。


 よくよく考えてみろ、俺。

 この森に残るというのは、つまりあくまでもこの組織への『就職』だ。俺自身も働かなければいけないだろうし、そこまで自由度は高くないかもわからない。



「この歳で就職、かぁ……」



 最終学歴は中卒になってしまうな。……ああ、でも学歴は関係ないか、リスも働いてるくらいだし。

 それより問題は、何の取り柄もない俺ごときにできる仕事があるかどうかという話だ。役に立たない人材なんてレスティオールとしても必要ないだろうし、逆に困らせるかもしれない。

 迷惑をかけてまでここにいるくらいなら、やっぱり帰った方がいいのか。


 堂々巡り。



「ああもう、やめた! 疲れた!」



 壁に寄り掛かっていた体を起こしながら、頭をガシガシと掻いて目を開ける。

 考えるのは苦手なんだよ、俺は。どうしたって脳みそ筋肉野郎なんだから。誰が脳みそ筋肉野郎だ。俺です、すみません。


 改めて周りを見回して、左側に視線を移したところで、今更ながらそちら側が窓であることに気付いた。

 そう言えば、ここは何階なんだろう。医務室は建物のどのあたりにあるんだったか……研究部の区画の中だったように記憶している。


 窓際に移動して、カーテンをまくり上げる。窓の向こう側には、やはりうっそうとした森が広がっている。


 視線を上へと移す。樹のてっぺんのほうは、白い空に飲み込まれてよく見えない。

 手探りで鍵を開けて、窓を開け放った。意外と勢いよく風が入ってきて、カーテンが揺れる。それと一緒に、微かに甘いにおいがした。



「花の、におい?」



 植物っぽい甘いにおいに思わず眉根を寄せる。金木犀ほどきつくはないが、好き嫌いの別れそうなにおいだ。

 もしかすると世界樹の花かもしれない。どんな花が咲くのかわからないが、ちょっと見てみたくはある。


 ひとしきり別のことを考えた後で、深呼吸を一つ。微かな甘いにおいを吸いこんで、大きく息を吐く。それから、窓枠にもたれかかるように頬杖をついた。



「……本当、ここはいったい何なんだ」



 世界の『外側』、世界樹の森。世界が群生する場所。

 言葉では聞いたけれど、俺はこの森の実態を何も知らないような気がする。


 例えば、この森に元々棲んでいるという生き物たちの生態も、世界樹自体の生態も、この森がどこまで広がっているのかも、何も知らない。


 この場所に雨が降るのかどうか。太陽光が見当たらないが太陽はあるんだろうか。

 どちらもないのだとしたら、世界樹は何を養分にしているんだろうか。

 森の中にいるあの鹿は、リスは、一体何を食べて生活しているんだろうか。

 フェンリルが持ってきたあのリンゴっぽい木の実は、どこから採ってきたものなんだろうか。


 気になることが次から次へと溢れて来て、自分の好奇心に自分で呆れてしまう。

 しかしながら、おそらくこれが自分の本音なのだろうと納得した辺りで、思わず自嘲するような笑いが漏れた。



「子供か、俺は。……ああ、子供か」



 口から漏れた独り言が、何故か自分でツボに入って、しばらく笑いが止まらなかった。


 でも、おかげで心に余裕ができたような気がする。

 頭は相変わらずキャパオーバーだが、今ならしっかり自分と向き合えるような気がする。



「後悔すら受け止められるならば、か」



 やった後悔を、受け止められなくなるかもしれないのは何だろう。

 やらなかった後悔を、一番受け止めきれそうにないのは何だろう。

 俺が今、『受け止めてしまわなければいけないこと』は何だろう。


 しばらく思考を巡らせて辿り着いた結論に、俺はもはや納得しかしなかった。

 自分でも驚くほど胸にすとんと落ちたというか、何か欠けていた部分が驚くほどかちりと填まったというか。



「まあ、当然か!」



 窓枠に足をかけて、地面を見下ろす。思っていたよりもずっと地面は近い。

 部屋の中を振り返って、心の中だけで小さく謝る。それから窓の外を向き直り、窓枠を蹴った。


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