漆、衝動的な行動

一、順応

 目の辺りが腫れぼったい。

 手の甲を当てて目の辺りを冷やしながら、大きく呼吸した。眉間を少し揉んでから目を開ける。やけに明るく映る視界には、相変わらず真っ白な天井があった。



「……あー……」



 とりあえずの発声。多少かすれたものの、思ったより普通の声が出た。それから何度か瞬きを繰り返して、ようやく視界と意識がはっきりした気がする。



「……よっ、」



 腹筋に力を入れて、なんとか上体を起こした。両手を広げて、何度か握って開いてを繰り返す。それからゆるく肩を回した。

 その瞬間、唐突にカーテンが開いた。



「何、思ったより元気そうだね」

「うおおおお!?」



 突然の声に驚いて、思わず変なポーズで固まってしまった。

 おずおずと声がした方を向けば、そこには無表情で溜息を吐く、白衣の男の人。俺を見下ろす藍色の目が、咎めるように細められる。



「ザルディオグさん!」

「もう動いていいなんて誰が言った?」

「す、すみません!」

「いいから寝て」



 ピシッと背筋を伸ばしたら、それはそれで溜息を吐かれてしまった。

 言われるまま再び布団に横になると、ザルディオグさんはベッドの傍の椅子に腰を下ろした。



「気分は?」

「え、ああ、悪くはないです」



 夢の中とは言え、思い切り泣いたからだと思う。体が重いのは仕方ないとして、頭は不思議とすっきりしている。



「そう」



 どこか満足そうにそう言って、ザルディオグさんが少しだけ笑った気がした。思わず目をしばたかせている間に、またすぐ無表情に戻ってしまったが。



「突然で悪いけど、検査するから」

「え、検査って……だって昨夜、バーミリオンさんが」

「結果に気になるところがあってね」



 テキパキと器具の準備をしながら、ザルディオグさんは言う。



「先に言っておくけど、結果次第では君に酷なことを言わなければいけないかもしれない」



 ザルディオグさんは無表情のまま、けれど少しだけ眉根を寄せる。



「まあ、そうならないことを願うよ。面倒なことは嫌いだからね」

「それってどういう」

「話すのは結果が出てからだ。口、開けて」

「あがっ」



 ものすごいデジャヴ。

 無理やり開けさせられた口から採取されているのは、唾液と頬粘膜と思われる。



「本当は採血の方がいいんだけどね。昨夜採ったばかりだし、貧血になられても困る」

「あがががが」



 まさか再びこんな目に遭うことになろうとは。

 なんて思っているうちに採取が終わり、ザルディオグさんはまたテキパキと片付けを始めた。



「すぐに調べてくるから、少し待ってて」

「え、そんなにすぐに出るものなんですか、結果って」

「これに関しては急ぎだからね。……とりあえず」



 ザルディオグさんはポケットから懐中時計を取り出して、蓋を開く。



「時間がわからないと何だし、貸してあげるよ。読み方は……」

「あ、わかります、大丈夫です」

「へえ、誰かに聞いた?」

「アスティリアに教えてもらいました」

「ああ、彼ね」



 納得したような顔をして、ザルディオグさんは俺の枕元に懐中時計を置く。



「じゃあ、遅くとも十時までには戻るから」



 カーテンの向こうへ消えていくザルディオグさんを見送ってから、枕元の懐中時計を手に取った。

 アスティリアに教えてもらった読み方を思い出しながら文字盤を読むと、現在時刻は朝の八時過ぎ。ザルディオグさんは二時間ほどで戻ってくるということらしい。



「……何気にカッコイイな、これ」



 この間はここまでまじまじと見られなかったので、いい機会と思って観察してみる。

 当然のごとく、蓋も裏蓋も真っ白だ。蓋には細かい彫刻がしてある。デザインされているのは『世界樹』だろうか。葉っぱとか幹の凹凸とか、てっぺんの天使の輪みたいなものとかが、非常に細かく彫られている。



「よう、『迷子』!」

「うおっ!」

「うおっ!?」



 突然聞こえたレイシャルの声に驚いて、懐中時計を取り落としそうになった。慌てて持ち直して、ほっと息を吐く。



「お、驚かせるなよ……!」

「おおお、悪い、まさかそんな状態だとは思いもよらず」



 無駄に速くなってしまった鼓動を落ち着けるように、深呼吸を繰り返す。何故かレイシャルも一緒になって深呼吸していた。可愛い。



「落とさなくてよかったぁー……」



 安堵しながら枕元に懐中時計を置き直し、レイシャルの方を向く。レイシャルは少し気まずそうな顔をしながら、持っていたお盆を掲げて見せた。



「朝飯だぞ。また梅粥で悪いけど」

「ああ、ありがとう」

「自分で起き上がれそうか?」

「大丈夫」



 のっそりと起き上って、足元のテーブルを引っ張ってくる。そこまでですでに少し疲れたが、なんとかレイシャルから梅粥を受け取った。



「疲れた」

「悪いな、介護要員がいなくてよ」

「介護って言うな」



 すかさずツッコめば、レイシャルが笑う。



「すっかり元気そうだな!」

「ああ、おかげさまでな」



 そう言って笑ってから、梅粥に向かって両手を合わせた。



「いただきます」



 ***



「ごちそうさまでした」



 今日も美味い梅粥をいただいた。

 満足して両手を合わせてから、食器をレイシャルに返す。



「そういや、『迷子』。さっき持ってた懐中時計はどうしたんだ?」

「ああ、あれはザルディオグさんが貸してくれたんだよ」

「ザルディオグ部長が?」

「十時までには戻るからって言って」



 枕元の懐中時計をもう一度手にとって、文字盤に視線を落とす。針は八時二十分を過ぎた辺りを指している。まだそんなに時間は経っていないようだ。



「なるほどな、そういうこと」



 レイシャルが納得したように頷くのを見ながら、懐中時計をまた枕元に戻す。それからぐっと伸びをした。背骨の辺りが少し痛んだ。



「ザルディオグさんが戻ってくるまで暇だな」

「もう一寝入りしておけよ」

「寝過ぎてもう眠くねえよ」

「天井のシミでも数えておけよ」

「驚きの白さ過ぎてシミの一つも見えやしねえよ」



 そんなやり取りをしながら、自然と顔が緩むのを感じた。

 いつの間にか、レイシャルとのやり取りにひどく安堵している自分がいることに気付いた。



「ま、とりあえずコレ片付けたら戻ってくるからよ。どうしても暇なら相手してやらぁ」

「おお、待ってる」



 お椀を持ったレイシャルが、ひょこひょことカーテンをくぐって出て行く。

 とりあえずテーブルをまた足元に押し戻して、ベッドに横たわった。視界に移った天井はやっぱり白くて、シミらしきものは見当たらない。



「……暇だ」



 さしあたってやるべきこともないので、とりあえずそのまま目を閉じた。



 ***



「いってえ!」



 目を閉じたら、いつの間にか眠っていたらしい。

 額に走った衝撃で目が覚めたら、呆れたような顔のザルディオグさんが俺を見下ろしていた。

 どうやらすでに十時を過ぎているようで、俺はデコピンか何かで起こされたらしい。



「よく寝るね。まだ成長期?」

「あ、はい、おそらく」



 変な会話をしながら、ザルディオグさんがベッドの傍の椅子に座る。その手元にはバインダー。ザルディオグさんはバインダーに視線を落とし、眉根を寄せた。



「いいニュースと悪いニュースがあるよ」

「え」

「……って言い方をした方が受け手は受け止めやすいんだろうけど、あいにくそういう気遣いはできなくてね」



 ザルディオグさんはそんなことを言いながら、じっと俺の顔を見た。



「悪い話しかしないよ。覚悟して聞くように」

「えっ、あ、はい、えっと……はい」



 思わずおろおろしてしまった。

 何だろう、緊張感がものすごい。まるで、重い病気を申告される前のような雰囲気だ。

 なんて思いながら何とか心を落ち着けていたら、ザルディオグさんは俺の緊張など知る由もないという態度で、躊躇なく、口を開いた。



「はっきり言うよ。君はもう、簡単には元の場所へ戻れない」



 石化する、と言うのはこういうことだろうか。

 ザルディオグさんの言葉を聞いた瞬間、体が固まって動かなくなった。



「……それは、どういう」



 何とか絞り出した言葉に、ザルディオグさんが俺を見る。その目は、どこか憐れみを含んだような、それでいて珍しいものでも見るような、何とも言えない目。



「君の体、異常なんだよ」

「い、異常」



 はっきりと言われてしまった言葉が、何故かぐさりと心に刺さる。



「体組織構造の順応スピードがおかしい。森へ出てきてたった一週間なのに、すでに数年間住んでいた者と同程度まで体が順応している状態だ。これは本当に異常だよ」

「そんなにですか」

「そもそも出身世界が一つに絞れないなんて時点で普通なわけがなかったんだよね。見た目が普通すぎて気付かなかったけど」

「あの、ザルディオグさん、結構傷つくんですけど」



 もう俺のライフはゼロよ。

 なんてことを思っていたら、ザルディオグさんは少し考えを巡らせて、再び口を開いた。



「体が森に順応する前なら、樹の中に干渉するのは簡単なんだ。でもここまで森に順応してしまうと、もう普通の方法では戻れない。罪人と同じ方法を取って、無理やり世界に押し込める形になると思う」

「……それって、いったいどういう」

「詳しくは言えないけれど……そうだな」



 ザルディオグさんは眉根を寄せて、ものすごく嫌そうな顔をして、言った。



「僕には耐えられないよ」



 何をされるのかは全く分からないが、どうやら恐ろしい方法だと思われることは、痛いほどわかった。



「だから、君はこれからの身の振り方について、考えなければいけない」

「身の振り方」

「簡単に言えば、二択だ」



 じっと俺の目を見て、ザルディオグさんは言う。



「耐え難い苦痛を受けてでも元の場所に帰るか、自分の生きてきた世界を捨ててでも外側に残るか。……どちらかだ」



 それは、ものすごく重い選択のように思えた。


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