三、嗚咽

「待たせたな!」

「おかえり、レイシャル」



 ライディアスが出て行ってしばらくしてから、レイシャルが梅粥を持って戻ってきた。その後ろには頭を掻くアスティリアもついてきていて、思わず首を傾げた。



「あれ、アスティリア。寝たんじゃなかったのか」

「レイシャルさんに頼まれて、リショウさんの体起こす手伝いに来たっす」

「……ああ!」



 そう言えば、さっき起き上がろうとした際、アシュレイに止められたんだった。



「んじゃ、失礼するっす、よっと」

「うおお」



 アスティリアは小柄な割に、腕力はあるらしい。思った以上にひょいっと起き上がらされてしまった。



「お前すごいな!」

「いやいや、力抜いてる人とか持ち上げるのは得意なんすよ。よくやるんで」

「よくやるんだ」

「研究部じゃ、何日か徹夜してぶっ倒れてる人ってちょくちょくいるっすからねぇ」

「やべえな研究部」



 研究部のワーカーホリックぶりを目の当たりにしたところで、アスティリアがベッドの足元辺りにあったテーブルを引っ張ってきてくれた。



「ゆっくり食えばいいからな!」



 テーブルに乗せられる梅粥。

 足元の辺りを見れば、ドヤ顔で胸を張るレイシャル。視線を横にずらせば、相変わらずへらへらとした顔で笑っているアスティリア。

 何故だか妙に安堵して、俺は目の前の梅粥に向かって手を合わせた。



「いただきます」



 そう言えば、体調を崩した時はいつも母さんが梅粥を作ってくれていたような。そもそも体調を崩すこと自体があまりないので、そんなに頻繁に食べた覚えもない。

 だけどレイシャルの梅粥の味はどこか懐かしくて、母さんが作ったものに似ているような気がした。



「どうだ、美味いか?」



 どことなく自信満々でそう言ってくるレイシャルの顔が、何故か……いや、もう、本当に自分でも意味が分からないんだけど、何故か。



『吏生』



 母さんの笑顔と重なって、手が止まった。


 それをきっかけに、いろんな記憶が断片的によみがえっては、脳裏をかすめていく。

 それは例えば、小さい頃に母さんが俺の頭を撫でてくれたことだったり、父さんが俺の頬をつついてはニマニマしている顔だったり、家族三人で手をつないで出かけた祭か何かの光景だったり。

 記憶の一つ一つはくだらないものばかりで、どうして今のタイミングで思い出す必要があるのかも分からないのに。


 まるで現実から逃げ出そうとでもしているみたいに、記憶が頭を駆け巡って、止まらない。



「リショウさん?」

「おい、『迷子』? どうした?」



 すぐ傍から聞こえた声に、ぷつりと記憶の流れが止まる。視線を動かせば、心配そうに俺の顔を覗き込むレイシャルとアスティリアの顔が視界に映った。



「いや、何でも」



 誤魔化そうとした言葉が震えた。

 決壊したみたいに、視界が歪んで、呼吸が詰まる。



「リショウさん!?」

「ちょっ、おい、どうした!? 大丈夫か!?」



 焦ったような二つの声に、ようやく頬を伝う水分に気付いた。慌てて、レンゲを持ったままの右手の甲で頬をぬぐい、目元をこする。


 次々と溢れてくる涙をぬぐいながら、頭の中にはまた別の記憶が流れていく。

 森の中の風景、ここで出会ったいろんな人の顔、フェンリルのこと。一緒に森を歩いていた時の、楽しそうな様子。首を絞められた時に感じた、明確な殺意。そしてライディアスの話、その時の表情。

 そのあとで何故か、一瞬だけ見た森の上空の光景を思い出した。



「大丈夫っすか、リショウさん」



 アスティリアがなだめるように俺の背中を叩く。レイシャルはおろおろとした様子で俺の様子を窺っている。

 鼻をすすって、しゃくりあげて、ようやく落ち着いたところで顔を上げた。



「なあ」



 発した声は俺が思っていた以上にかすれていたけれど、レイシャルとアスティリアが同時にこちらを向いたので、ちゃんと届いていたらしい。



「どうしたんすか?」



 気遣うようなアスティリアの声に、もう一度俯いた。食べかけの梅粥が映る視界の隅っこに、レイシャルが顔を出した。

 涙はまだ止まらないのに、レイシャルの心配そうな顔を見たら、顔が緩んだ。



「……美味いよ」



 滅多なことでは動じない自信があった。

 些細な悪意なら受け流せると思っていたし、予測不能な事態だって多少なら順応できると思っていた。


 でも、俺は自分で思っていた以上に弱かったらしい。

 この森で経験したすべてが、俺にとっては容量が膨大だったみたいだ。

 まだしばらく大丈夫だと思っていた俺の頭とか心は、想像以上にあっけなくキャパオーバーに陥った。



「すっげー、美味い」



 もう一度しゃくりあげて、梅粥を口に運ぶ。もう、味なんてほとんどわからない。吐き出したくなった感情ごと、流し込むように飲み込んだ。


 このまま、全部一緒に消化できてしまえばいいのにな。



 ***



「本当に大丈夫っすか?」

「大丈夫、大丈夫!」



 泣きながら梅粥を平らげて、ようやく涙が止まった現在。

 心配そうに俺の背中をさすり続けるアスティリアに向かって、なんとか笑って見せた。



「たぶん、いろいろあり過ぎたんだよ。疲れが出たんだ、疲れが」

「そうっすか? あんま無理しない方がいいっすよ」

「大丈夫だって」



 へらへらと笑って見せれば、アスティリアとレイシャルは互いに顔を見合わせてから、心配そうな顔を崩さないまま再び俺を見た。



「子守唄とか歌うっすか?」

「そんな澄んだ目で人を子供扱いしないでいただきたい」

「あ、よかった。そのツッコミはいつものリショウさんっすね」

「判断基準」



 ツッコミで大丈夫だと判断された。

 少々腑に落ちないながらも、納得していただけたならよしとするか。



「じゃあ、俺はそろそろ寝るっす。朝になったらまた仕事なんで」

「悪いな」

「気にしなくていいっす。リショウさんもゆっくり寝るっすよ」



 アスティリアはそう言うと、俺の体をベッドに寝かせた。すっかり介護されている気分だ。何だか更に申し訳ない気持ちになる。



「じゃ、おやすみなさいっす」

「俺は食器を片付けてくるぜ。ちゃんと寝とけよ、『迷子』!」

「ああ、おやすみ」



 カーテンをくぐって出て行く二人を見送ってから、天井を向いて目を閉じる。それから目元を冷やすように、腕で視界を覆った。何度か深く呼吸をしたら、そのうちに眠気が強くなってきた。

 二日寝ておいて、まだ眠くなるのか。そんなことを考えて、心の奥で自嘲した。



 ***



『吏生ー、そろそろ起きてくれるかなー?』



 どこかから聞こえた声に、目を開ける。

 目の前にあったのは、木目調の天井。長年住み慣れた自宅のものだ。



「え」



 何度か瞬きを繰り返してから、起き上がる。

 かぶっていた布団も、俺がいつも使っていた水色。ぐるりとその場を見回してみたら、そこは確かに俺の部屋だった。



「!?」



 慌ただしく飛び起きてから、そう言えば安静にしていろと言われたことを思い出す。ペタペタと自分の体を触ってみた。



「……どこも痛くない」



 どういうわけか、よくわからない。

 とりあえずベッドを下りて、何故か開いたままのドアから部屋を出た。広がるのは、やはり見慣れた自宅の風景。

 階段を下りてダイニングに入れば、朝食を準備している母さんの、見慣れた青いエプロン姿が見えた。



『今日の朝ごはんは吏生の好きなものと思って、トーストにしておいたよ』



 どこかくぐもって聞こえる母さんの声。顔もどこかぼやけていて、不明瞭だ。



「母さん」

『ハムエッグよりはベーコンエッグの方がいいんだったよね』

「え、ああ、うん」



 ダイニングの椅子を引いて、席に着く。

 その俺の横を通り抜けて、父さんも自分の席に着いた。それから、母さんもテーブルにサラダを置いて、自分の席に着いた。



『じゃ、いただきます!』

『どうぞ』

「いただきます」

『たくさん食べるんだよ』



 にこにこと笑っている父さんの向かい。にこにこと笑っている母さんの隣。

 目の前のトーストを持ち上げて、かぶりついた。その瞬間、違和感の正体に気付いた。



『焼き加減はいい感じかい?』

「あ、ああ」

『それはよかった』



 相変わらず不明瞭な母さんの声。時折、砂嵐のように視界が乱れる。

 もう一度トーストにかぶりついて、咀嚼する。やっぱり味がない。途中で、誤って頬の内側の肉を噛んだ。……当然のように痛みがない。


 ああ、やっぱりこれは、夢か。



『吏生?』

『何だ、泣くほど美味かったのか?』



 驚いたような母さんの声と、からかうような父さんの声。それらもすべて不明瞭で、雑音が混じる。とうとう耐え切れなくなって、両手で顔を覆った。


 どうせ夢の中なら、誰に聞かれるわけでもあるまい。

 どうせ夢の中なら、父さんと母さんだって、そこにいるわけじゃあるまい。



「う、ああああああああああっ!」



 幼くて弱かった子供の頃以来、十数年ぶりに大声で泣いた。


 俺の頭を撫でる父さんの手も、俺の背中をさする母さんの手も、全部ただの幻だ。

 それがわかっているのに、こうして安心してしまう俺はなんて単純なんだろう。


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