三、狼が独りになった日
それからまた、幾ばくかの時が流れました。
かつて黒い髪の少女だったエルドは、白い髪の女の人になりました。
***
その日も、いつもと変わらない日常があるはずでした。
けれど、そんな平穏な日常の終わりは、思いもしないほど唐突に訪れました。
フェンリルが一人で森を歩いていた時のことです。
不意に違和感を覚えたフェンリルは、すんすんと周囲のにおいを嗅ぎました。
嗅ぎなれたエルドのにおいに混じって、知らないにおいと、血のにおいがしました。
『エルド?』
においを辿って歩いていくと、いつもの樹の前に辿り着きました。
その樹の傍から、点々と血が落ちているのが見えました。
その中に一つだけ、不自然な半円形の血の跡がありました。
“エルドに何かあったのかな”
フェンリルは血の跡とにおいを辿り、慎重に歩き出しました。
いくらも行かないうちに、フェンリルはエルドの姿を見つけました。
『エルド!』
『やあ、フェンリル。ちょうどいい、少し手伝ってくれないかな』
いつもと変わらない笑顔で、エルドは言いました。
エルドにもたれかかるように、知らない人がぐったりと眠っていました。
その人は、出会った頃のエルドと同じ、黒い髪をしていました。
『誰、そいつ』
『ずっと気になっていた人』
エルドが以前から、心が伝わってきて痛い、と言っていた人のことでしょうか。
フェンリルは心の中で納得して、その人の顔を見ました。
『今にも死にそうだな』
『そうだね。ちょっと無理をさせてしまったみたいだ』
『無理?』
フェンリルが尋ねると、エルドは困ったように笑いました。
『あまりにも、痛くて仕方なくて、耐えられなくて』
『うん』
『やってはいけないことをしてしまった。……怒られるなぁ、きっと』
悲しそうに笑って、エルドは背中に差している大きな剣を外しました。
『フェンリル、これを持ってくれるかい?』
『わかった』
エルドはフェンリルの背中に自分の剣を括り付けました。
それから、ぐったりとしているその人を背負い、白い建物へ向かって歩き出しました。
『……ついさっき、何気なくここへ来たんだ』
フェンリルが問いかけるより先に、エルドが話し始めました。
『そうしたら、いつもよりこの人の心が伝わってきて、ものすごく痛くて』
『うん』
『どうしても助けたくて、聞きかじりの知識でこの人をこちらへ呼んだんだ』
『えっ、そんなことができるのか?』
『樹に手を添えて、呼びたい人を引き寄せる感覚で、って感じかな』
『漠然としてるな』
『私も漠然としか聞いていなかったからね。うまくいったのは奇跡だよ』
そう言いながら、エルドはちらりと自分が背負っている人の顔を見ました。
『私とこの人が似ていたから、かもしれないけれど』
そんな二人の様子を見ながら、フェンリルは小さく鼻を鳴らしました。
エルドが自分よりその人を大事に思っているようで、なんだか気に入りませんでした。
しばらく歩いたところで、白い建物に辿り着きました。
『じゃあ、私はちょっとこの人を送り届けて、怒られてくるよ』
フェンリルが頷くと、エルドも満足そうに頷いて、白い建物に入っていきました。
それを見届けたフェンリルは、一つ欠伸をしました。
“すぐ戻ってくるだろ”
そしてエルドの剣を担いだまま、その場に寝そべりました。
***
エルドが白い建物から出てきたのは、ずいぶん経ってからでした。
『フェンリル』
ようやく聞こえた呼び声に顔を上げると、エルドは困ったように笑いました。
フェンリルが首を傾げると、エルドはフェンリルの頭を両手で抱き寄せました。
『ごめん、フェンリル。ごめん。……ごめん』
『エルド?』
耳の近くが、わずかに湿っていくような感覚がしました。
フェンリルが身を震わせると、エルドはフェンリルから離れ、悲しそうに笑いました。
『ここへ戻ってくるまで、私は君を覚えていられるかな』
『何を言ってるんだ、エルド』
『ねえ、フェンリル。私が帰ってくるまで、君は私を覚えていてくれるかな』
ぽろり、エルドの目から涙がこぼれていくのが見えました。
訳も分からないまま、エルドがフェンリルから離れていきます。
フェンリルはそこでようやく、エルドの両手首が拘束されていることに気付きました。
『一緒にいようって言ったのに、約束破ってごめん』
『なあ、エルド』
『まさか、ここまでのことになるとは』
『ちょっと、エルド』
『でも、後悔はしないさ。反省は少ししているけれど』
『待って』
一歩ずつ、エルドはフェンリルから離れていきます。
その近くには、白い髪の知らない人たちが何人もいました。
同じ場所に、エルドが背負って連れてきた黒い髪の人もいました。
『何、エルド、どこか行くのか? 俺を置いて? なあ、』
フェンリルはそう問いかけながら、エルドに近寄ろうとしました。
しかし、エルドの周りにいた白い髪の人たちが、フェンリルに武器を向けました。
『エルド』
呼びかけた声に、エルドは俯いてしまいました。
エルドはぐっと拳を握りしめ、振り絞るように、小さな声で言いました。
『さようならだ、フェンリル』
その瞬間、フェンリルは自分の体温がすうっと下がっていったような気がしました。
立ちすくんで動けない間に、エルドは白い髪の人たちに連れて行かれてしまいました。
***
エルドの姿が見えなくなってから、フェンリルはよろよろと歩き出しました。
“どうして、エルドは自分を置いて行ってしまったんだろう”
そんなことを考えながら、フェンリルはふらふらと歩き続けました。
歩き疲れて立ち止まったところで、自分がまだエルドの剣を担いでいることに気付きました。
『なあ、エルド』
呼んでも、もうエルドの返事はありません。
フェンリルは自分でエルドの剣を背中から降ろし、寄り添うように寝そべりました。
目を閉じると、エルドとの思い出が頭の中を駆け廻りました。
そして、先ほどのエルドの様子を思い出して、思いました。
“エルドは、俺じゃなくてあいつを選んだのか”
あの白い建物の中でエルドの身に何が起きたのか、フェンリルにはわかりません。
ですが、あの黒い髪の人間が原因だということだけは、なんとなくわかりました。
“……苦しい”
まるで、胸の奥が黒く淀んでいくような。
あるいは、胸の底に黒い鉛が沈んでいくような。
こんなにも苦しい気持ちは、今まで一度も感じたことがなかったものです。
『エルド』
ぽろり、フェンリルの目から涙がこぼれました。
前に感じていた『サビシイ』とは比べ物にならないほど、痛くて苦しいこの気持ちは、いったいなんという名前なのでしょう。
フェンリルはエルドの剣に寄り添って、涙をこぼしながら眠りにつきました。
***
目を覚ましてから、フェンリルはエルドの剣を地面に突き刺しました。
もう一度だけエルドに会えはしないかと、フェンリルはエルドのにおいを辿りました。
けれど、エルドのにおいはある場所でぷっつりと途切れていました。
『エルド?』
辺りを見回してみても、樹が立ち並んでいるだけです。
探す範囲を広げてみても、いくら呼んでも、エルドを見つけることはできませんでした。
“苦しい”
“痛い”
“どうしてエルドは俺に、こんな思いをさせるんだろう”
エルドを探すうち、フェンリルの気持ちは徐々にすり替わっていきました。
純粋に、エルドに会いたいと思って探していたはずだったのに、いつしかフェンリルの心は黒く淀んで、歪んでいきました。
『エルドなんて嫌いだ』
そのくせ、フェンリルはまだエルドを探し続けました。
似たにおいを見つけては近付いて、怯えられては幻滅し、さらに憎しみを育てて。
やがて、エルドではないものの命を奪うことに、何の躊躇も感じなくなりました。
いつからか、フェンリルは『怪物』と呼ばれ、更に恐れられるようになりました。
そうして今も、フェンリルはエルドのにおいを辿り続けているのです。
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