二、狼が感情を知った日

 いつの間にか、長い時が流れていました。

 小さかったフェンリルの体は、いつの間にか随分と大きくなっていました。



 ***



 エルドが白い建物に入って行ってから、どれくらいの時間が経ったのでしょう。

 いつまで待ってもエルドは出てきません。



“何かあったのかな”



 誰かが建物から出てくるたび、フェンリルはすんすんとにおいを嗅ぎました。

 けれど、いつもエルドではない別のにおいがして、フェンリルは溜息を吐きました。



“もしかして、やっぱり中は危険だったのか”



 一瞬、もしかしてエルドはもう殺されてしまったのでは、という考えがよぎりました。

 しかしどうしてもその様子が想像できず、フェンリルは首を振りました。

 大丈夫、大丈夫、フェンリルは自分にそう言い聞かせました。

 何の根拠もない自信でしたが、不思議と信じられるような気がしました。


 エルドを待ち続けるうち、フェンリルはふとある考えに至りました。



“もしかすると、建物の中の居心地が良すぎて、自分のことを忘れてしまったのでは?”



 一度そう考えてしまうと、頭から離れなくなりました。

 そのうち、そうに違いない、と思い込んでしまうようになりました。

 とうとうフェンリルは、待つことを諦めました。



『どうせ、もともと独りだったんだし。元に戻るだけだし』



 自分にそう言い聞かせながら、フェンリルは建物から離れようとしました。

 けれど、心の奥がきりきりと痛み、その場にうずくまってしまいました。



『……独りは、嫌だな』



 すぐ傍にエルドがいない。

 それだけで、たったそれだけのことで、何故だか苦しくて仕方ありません。

 フェンリルはその場にうずくまるように寝転んで、そっと目を閉じました。


 それが『サビシイ』という感情であることを、フェンリルは初めて知りました。



『フェンリル!』



 聞こえてきた声に、フェンリルは目を開けました。

 草を踏み分けてひょっこりと顔を出したのは、知らない人間でした。

 けれどそのにおいは、ずっと待っていたエルドのものに間違いありませんでした。



『エルド?』

『ああ、そうだよ』



 その人間はそう言って、嬉しそうに笑いました。

 その笑顔は確かに、フェンリルの記憶に残っているエルドの笑顔と同じでした。



『ごめんね、すごく待たせたね。君も私も、随分大きくなったね』



 そう言いながら、エルドはフェンリルにぎゅうっと抱き着きました。

 懐かしいにおいが近くなって、心の中が温かくなっていくのがわかりました。



『忘れられたかと思った』

『そんなことがあるはずないだろう、君を忘れたことなんてないさ』



 頭を撫でられる感覚に、フェンリルはそっと目を閉じました。

 自分でも気付かないうちに、フェンリルはひどく幸せな気分になっていました。



『エルド』

『何かな、フェンリル』



 呼びかけたら返事があることが、こんなにも暖かいことだなんて。

 すり寄った先に別の体温があることが、こんなにも優しいことだなんて。



『おかえり』



 ぽつり、呟くような小さな言葉に、エルドは驚いたように目を丸くしました。

 それからふにゃりと表情を緩めて、言いました。



『ただいま』



 エルドの言葉に、フェンリルはなんだか心がむずがゆくなるのを感じました。

 それをどう表現すればいいのかわからず、パタパタと尻尾を振りました。



『ずっとは難しいけど、これからはまたたくさん一緒にいられるよ』



 それが『ウレシイ』という感情であることを、フェンリルは初めて知りました。



 ***



 それから、フェンリルとエルドはまた一緒に過ごしました。

 フェンリルが歩いていく後ろを、エルドがついてくる、以前と変わらない日常でした。


 けれど、変わってしまったこともありました。

 前は眠るときも一緒だったエルドが、白い建物へ帰っていくようになったことです。

 また、変わった生き物を見つけるとすぐに白い建物へ連れていくようになりました。


 一緒にいる時間が少なくなり、フェンリルは少しだけ寂しい気持ちになりました。

 けれど、ずっと会えなくなってしまうよりずっと嬉しいと思いました。



『ねえ、フェンリル』

『何だ、エルド』



 このやり取りが変わらないことだけでも充分に喜ばしいことだと、フェンリルは思いました。



『この木の実の美味しい食べ方を教えてもらったよ!』

『ああ、味がしないって言ってたやつ』

『かじると味がしないけど、すりおろすと甘くなるそうだよ』

『へえ』



 エルドは、白い建物で知ったいろんなことをフェンリルに教えてくれました。

 森と建物を行き来することが楽しいのか、エルドはいつも楽しそうにしていました。



『ねえ、フェンリル』

『何だ、エルド』

『君もあの建物で暮らさないかい?』



 森の中を歩きながら、エルドはフェンリルにそう言うようになりました。

 フェンリルはそのたび、むっとした顔をして、言いました。



『嫌だ』

『どうして』

『あそこには生き物がいっぱいいるんだろ。うるさそうだ』

『そんなにうるさくないさ』

『そもそも生き物がいっぱいいるのは苦手なんだ』

『私とは一緒にいるのに』

『とにかく、嫌なものは嫌だ』



 断れば断るほど、エルドは困ったような顔をしました。

 フェンリルも、どうして自分がここまであの建物を嫌いなのか、よくわかっていませんでした。

 けれど、そこへ行くとエルドが自分以外とも仲良くするのだと思うと、心の奥底がなんだかむかむかするのでした。



 ***



 ある日のことです。

 森をさまよっていた時、エルドがある樹の前で立ち止まりました。



『ねえ、フェンリル』

『何だ、エルド』



 エルドは一本の樹を指さし、少しだけ寂しそうな顔をしました。



『今、この樹から声が聞こえた気がする』

『樹がしゃべったのか』

『そうじゃないよ、樹の中から』



 フェンリルには、エルドの言っていることがよくわかりませんでした。

 その樹の中に『世界』があることなど、フェンリルは知らなかったからです。

 フェンリルはただ本能的に、この樹は傷つけてはいけない、と知っているだけでした。



『この樹の中には世界があるんだって』

『せかい』

『樹の中に、空があって大地があって、いろんな生き物が生きているんだよ』

『……へえ』



 樹の前で立ち止まっているエルドに近づいて、フェンリルも樹を見上げてみました。

 そういえば、樹のてっぺんはどれくらい高い場所にあるんだろう?

 フェンリルはそう思いながらぴくぴくと耳を動かしました。



『見えるのか』

『見えないさ』



 エルドはそう言って苦笑しながら、樹の幹をじっと見つめています。

 フェンリルも同じように気を見つめてみましたが、見えるのはやはり樹だけです。



『だけど、その人の心が聞こえるんだ』

『心の声?』

『そんな感じ。ここがどういう世界かもわからないし、その人が誰かもわからないのに』

『……わからないのに?』

『心が伝わってきて、痛い』



 そう言って、エルドは悲しそうに目を伏せました。

 その様子を見ていたフェンリルは、むっとして樹の幹を睨み付けました。



“エルドにこんな思いをさせるとは、何という奴だろう”

“なんか、ムカつく”



 フェンリルはそんなことを考えて、フンと鼻を鳴らしました。


 それからエルドは、その樹に差し掛かるたびに立ち止まるようになりました。

 そしてその樹を見つめては、少しだけ悲しそうな顔をするのです。

 フェンリルはその顔を見る度、エルドが遠くへ行ってしまうのではないかと思いました。



『なあ、エルド』

『何かな、フェンリル』

『そんなにそいつが気になるの』

『……そうだね、気になるな』



 エルドはそう言うと、困ったように笑いました。



『何故、私にはあの人の心が聞こえるんだろう』



 フェンリルには、その問いかけへの答えになりうる言葉などわかりませんでした。

 フェンリルには、悲しそうに笑うエルドに寄り添うことしかできませんでした。


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