無、狼と少女

一、狼に名前がついた日

 時はまたさかのぼり、随分と昔のこと。

 それはどこの世界でもない、外側での出来事。



 ***



 その狼は、自分がいつからそこにいたのか、覚えていません。

 気が付いた時から、おそらくその以前から、狼はその森に棲んでいました。


 どうして自分がここにいるのかもわからないまま、狼は森をさまよっていました。

 いくら歩いても、どこまで歩いても、同じ風景が続くばかりでした。



『うわっ、狼だ!』



 ある時、樹の傍を駆けまわっていたリスが、狼を見てそう言いました。

 そこで初めて、狼は自分が『狼』という生き物であることを知りました。

 狼を見たリスが、怯えたように体を震わせて、すぐに逃げ出してしまいました。

 そこで初めて、狼は自分が周りから恐れられる生き物であることを知りました。



“……つまらない”



 森で出会う生き物は誰も、狼に声をかけてくることはありませんでした。

 森を駆け回る鹿たちも、リスも、大きな蛇も、狼を見るやすぐに逃げていきました。



“つまらない”



 狼はいつも、独りでした。



 ***



 ある日、いつものように森を歩いていた狼は、ふと嗅ぎ慣れないにおいを捉えました。

 においを辿っていくと、見たことのない生き物を見つけました。


 自分とは違う、毛の少ない肌に、長い指、爪は鋭くありません。牙もありません。

 その代わり、灰色の布を着込んで、とても鋭そうな刃物を持っています。

 何よりも驚いたのは、白い生き物ばかりのこの森で、黒い毛を持っていることでした。


 恐る恐る近付くと、狼の足元でかさりと音がしました。

 その音が聞こえたのか、その生き物は閉じていた目をそっと開けました。

 狼の姿を捉えたその生き物は、何度か瞬きをした後で、小さく笑って見せました。



『ねえ、君』



 自分に声をかけているなどとは思わず、狼はきょろきょろとあちこちを見回しました。

 その様子を見ていたその生き物は、やがてくすくすと笑い出しました。



『君だよ、真っ白な狼さん』

『……俺に言ってるのか』

『ああ、そうだよ』



 その生き物は笑顔のまま、狼に向かって言いました。



『私は村を離れてさまよっていたのだけど、途中で足を滑らせたようでね』

『足を、滑らせた?』

『ずいぶん長い距離を落っこちてしまったようなんだ。それで、足が痛くてさ』



 そう言いながら、その生き物は自分の足をさすります。

 狼は首を傾げながら、その生き物の方へ近付きました。



『もし知っていたら、傷を治せるような薬草を持ってきてくれないかな』

『やくそう……?』

『ああ、いや、知らなければいいんだ。きっと自然に治るから』



 狼はその生き物に鼻を寄せて、くんくんとにおいを嗅ぎました。

 なんだか落ち着くような、いいにおいがしました。



『くすぐったいよ』



 くすくすと笑うその生き物に、狼は少しだけ驚いたような顔をしました。



『お前は、俺を怖がらないのか』

『怖がらないさ。だって君は、私を食うわけでもないだろう?』



 その生き物の言葉に、狼は少しだけ考えます。

 確かに、いいにおいではありますが、その生き物を食べようという気にはなりません。



『ところで、君。名前はなんていうのかな?』

『なまえ?』



 その生き物の問いかけに、狼は首を傾げました。

 名前、という言葉は、狼にとって初めて聞く言葉でした。



『わからないかな、名前。えっと、個体を識別する符号のようなもの、かな』

『こたいを、しきべつする、ふごう』



 考え込む狼に、その生き物も困ったように考え込みます。



『ええと、そうだな……声をかける時に呼ぶもの、というか』

『……そんなの、俺にはいらない。どうせ、ずっと独りだから』



 狼がそう言うと、その生き物は少し寂しそうな顔をしました。

 やがて、何かを思いついたように、その生き物は言いました。



『じゃあ、私が君を呼ぶために、私が勝手に君の名前をつけてしまおう』



 驚いたように目を丸くする狼に構わず、その生き物は腕を組んで考え始めました。

 そしてにっこりと笑顔を浮かべ、狼に向かって言いました。



『よし、君の名前はフェンリルだ。私は君をそう呼ぶよ』

『フェン、リル』



 狼は、その言葉を頭の中で何度か繰り返しました。

 不思議と、心の奥がそわそわと浮足立つような感覚がしました。



『どうかな、フェンリル。ある民話に出てくる、強いものの名前だそうだけど』



 フェンリル。

 その生き物が狼を呼びます。

 なんだかむずがゆくなって、狼はぴくぴくと耳を動かしました。



『……悪くない』

『よかった! 気に入ってくれたかな』

『……まあまあな』



 狼がそう言うと、その生き物は嬉しそうに笑って言いました。



『そうそう、私の名前はエルドっていうんだ』

『エルド?』

『そう、エルド。栄光、という意味があるそうだよ』

『……エルド』



 狼は、頭の中でその言葉を繰り返しました。

 目の前にいるその生き物は、嬉しそうに笑いました。



『よろしくね、フェンリル!』



 狼にとってその生き物は、初めての『トモダチ』でした。



 ***



 それから、フェンリルとエルドは一緒に暮らしました。

 フェンリルとエルドは、いろんなことを話しました。

 そのうち、フェンリルはエルドが『人間』という生き物であることを知りました。



『ねえ、フェンリル』

『何だ、エルド』



 いつも、前を歩くフェンリルの後ろを、エルドがついて歩きました。



『ここはどこまで行っても森だね』

『そうだな』

『どのくらい広いのかな』

『さあな。果てなんて、見たこともない』



 そんな風に話しながら森を歩くのが、フェンリルにとっての当たり前になっていました。



『ねえ、フェンリル』

『何だ、エルド』

『この木の実は食べられるかな』

『俺は食べたことない』



 ぱくり、エルドは躊躇なくその木の実にかぶりつきました。

 フェンリルが驚く中、もぐもぐと木の実を咀嚼したそのエルドは、やがて顔を歪ませました。



『……味がしない』

『ドンマイ』



 お腹がすいたら、一緒に木の実やキノコを食べました。

 眠くなったら、寄り添い合って眠りにつきました。

 そんな風に、一人と一匹はいつも一緒にいました。



『ねえ、フェンリル』

『何だ、エルド』



 フェンリルの背中を枕にして寝転んでいたエルドは、言いました。



『ずっとこうして一緒にいられたらいいね』



 その言葉に、フェンリルは耳をぴくぴくと動かして、言いました。



『……まあな』



 素直じゃないフェンリルの言葉に、エルドはくすくすと楽しそうに笑いました。

 フェンリルは深い溜息を吐いて、くたりと地面に顔を付けました。


 フェンリルも心のどこかで、ずっとこうして一緒にいられたらいい、と思いました。



 ***



 一人と一匹が一緒に行動するようになって、どれくらいの時が経ったでしょうか。

 黒かったエルドの毛は、いつの間にか白く染まっていきました。



『おかしいな。私は、黒い髪が理由で散々な目に遭ったはずなんだけど』



 エルドはそう言いながら、まじまじと自分の髪の毛を眺めます。

 その様子を、フェンリルが不思議そうに眺めます。



『まあ、いいか。これでフェンリルとおそろいだからね』



 にこにこと嬉しそうな顔をするエルドから目を逸らして、フェンリルは小さく体を震わせました。

 なんだか心の奥底がむずがゆくなるような、何とも言えない気持ちになりました。



『なんかむずむずする』

『それはきっと照れてるんだ』

『違うと思う』

『違わないと思うよ』



 そんなやり取りをしながら森を歩いていると、やがて開けた場所に辿り着きました。

 そこには、白くて高い建物が建っていました。



『変わったところに出たね』

『そうだな』



 建物を見上げながら、エルドは小さく首を傾げました。

 その隣で、フェンリルはぞわぞわと毛を逆立てました。



『フェンリル、中に入ってみようよ』

『嫌だ、俺はここ、なんか嫌だ』



 プルプルと震えるフェンリルを見たエルドは、フェンリルの背中を撫でて言いました。



『じゃあ、私が先に見てくるよ。危なくなかったら、一緒に入ろうね』



 フェンリルに手を振って、エルドは白い建物に入っていきました。

 その後ろ姿を見送って、フェンリルは近くの草陰に身をひそめました。


 それが、一人と一匹の長い別れになるなど、誰が予想したでしょう。


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