三、暗転
「ほら、これでも食っておけ」
休憩中のこと。
ふらりといなくなったフェンリルが、リンゴのような木の実を持って戻ってきた。
「おー、ありがとう。いただきます」
起き上がって、受け取った木の実にかぶりつく。残念なことに、味はしなかった。
「なあ、フェンリル」
「何だ、リショウ」
木の実を食いながら、俺のすぐ近くに座っているフェンリルに声をかけた。
すぐに返事が返ってくる辺り、かなり打ち解けてきたのかもしれない、なんて思ったり思わなかったり。
「今って昼なのかな、もう夕方なのかな」
「知るか。こんな場所でそういう概念があるとでも思ってんのか」
けっ、なんて吐き捨てるようにフェンリルは言う。
それはつまり。
「昼とか夜って概念自体は知ってるんだな、お前」
「……お前は無駄なところで頭がいいんだな」
無駄とか言われた。しかも呆れたような声色で。
「誰かから教えてもらったのか」
「……まあな」
「どんな人? そもそも人なのかな」
「どうでもいいだろ」
少し詮索してみようとしたが、この話題に応える気はないらしい。聞くな、と言いたげなオーラが見えるような気さえする。
少し踏み込み過ぎたか。
「食ったら行くぞ」
「ん、わかった」
味のないリンゴを食べ終えて、立ち上がる。
それを見届けてから、フェンリルも腰を上げた。
***
それからまた、休憩をはさみながら進む。
時々、フェンリルが気遣うようにこちらを振り向いては、様子を窺ってくる。それに対して笑顔を返せば、フェンリルはふんと鼻を鳴らしてまた前を向く。
その繰り返し。
進むうち、ある瞬間に、森の空気が変わった気がした。
「どうかしたのか?」
立ち止まった俺を不審に思ったのか、フェンリルも立ち止まってこっちを向く。
一歩、小さく後ずさると、更に訝しげな顔をして、フェンリルは言う。
「おい、リショウ」
「駄目だ、フェンリル。この先は、行っちゃいけない気がする」
黒く淀んだ空気が、足元にまとわりついてくるような感覚がする。
呼吸がしづらい。酸素が頭まで巡らないような、妙な苦しさを感じる。
もう一歩、先ほどより大きく後ずさったところで、フェンリルが深い溜息を吐いた。
ひどくつまらなそうな、あるいは残念そうな、溜息。
「何だ、気付いたのか」
これまでより冷たさを帯びたフェンリルの言葉に、ぞくり、嫌な寒さが全身を走る。
俺の少し前で止まっていたフェンリルは、向きを変えてこちらへ近付いてくる。
一歩、また一歩。
「気付かなければ、楽に終われただろうに。なあ、リショウ」
周囲の闇が深くなる。
フェンリルの姿が見えなくなったその直後、闇の中から手が伸びてきた。フェンリルの前足ではない、俺のものとよく似た、人間の右手。
明確な悪意を感じ、とっさに後ろへ飛び退る。着地した場所からその手を睨みつけ、腰にくくりつけておいた脇差を手に取った。
「チッ、本当に無駄なところで頭のいい奴」
吐き捨てるようなその声は、間違いなくフェンリルのもの。
少しずつ霧散していく闇の向こう側に、人影が見え隠れする。
俺より幾分か白い肌に、ちらりと見える白い髪。灰色の上衣の袖は手の甲が隠れるほど長い。下は、大きめのポケットがついた黒いカーゴパンツと、同じく黒いブーツ。
脇差を抜こうとしたその一瞬、俺は垣間見えた光景に目を見開いた。
「おい……お前、フェンリル……?」
脇差を取り落さないよう、必死に握り締める。
けれどその手も、自分の体を支えている足も、発した声も、情けないくらいに震えが止まらない。
「だって、その顔、」
闇が裂けたその向こう側、フェンリルがいたはずのその場所に立っていた人影は。
その顔は。
「何だ、見覚えでもあるのか? なあ、リショウ」
にたり、闇をたたえて笑うその顔は、俺とほとんど同じ造形。
見た目はもはや、白い俺だった。
「何で」
「何で? 何が? お前が何を疑問に思うのか、俺には到底見当がつかない」
一歩ずつ、そいつは着実に俺に近づいてくる。青みがかった灰色の目が、俺を捉えて冷たく細められる。
やがて目の前まで来たそいつは、容赦なく俺の首をつかみ、持ち上げた。
手から離れた脇差が、足元でカランと音を立てる。
「……ぐっ……」
気道が閉じる。
ただでさえままならない呼吸が、止まる。
かすむ目を開いて見下ろすと、俺とよく似た顔のそいつは、俺とは思えない凶悪な表情で笑っていた。
何故?
狼だったはずのフェンリルが人間になったのは何故?
まさに今、俺がそのフェンリルに殺されかけているのは何故?
疑問ばかりが頭を駆け巡る。
必死で手を上げて、俺の首をつかむ右腕を握り締め、爪を立てる。けれどそいつの力は緩まないどころか、ますます強くなる。
「紛らわしいにおいをさせてるお前が悪いんだよ、リショウ」
遠ざかりそうな意識に、フェンリルの声が聞こえてくる。
「本当、ムカつくくらいに『あいつ』のにおいとそっくりだ」
吐き捨てるようなフェンリルの言葉。
恨みとか、憎しみとか、そういう負の感情がないまぜになったような声。
「リショウ!」
意識が飛びそうになった瞬間、どこからか聞こえてきたのは聞き慣れた声。
遠ざかっていた意識を引き戻し、つかんでいた相手の腕を起点に足を振り上げた。
「がっ!」
どこかには当たったらしく、首をつかんでいた手が離れた。重力のままに地面まで落ちて、大きく咳き込む。ようやく酸素を取り込みながら前を向くと、目の前に影が落ちた。
直後、景気のいい音がして、目の前から人影が吹っ飛んでいく。入れ替わりに、爬虫類っぽい翼に、怪獣のような尻尾を持つ生き物が現れた。
「無事か、リショウ!」
くるり、振り向いたその顔は、ものすごく見慣れた顔。
「あ……げほっ、ごほっ……あ、アシュ、レイ?」
「意識ははっきりしているようだな」
俺の無事を確認してすぐに、アシュレイは再び前を向く。その視線の先では、俺と似た顔をしたそいつ……フェンリルが、憎々しげな表情を浮かべていた。
「チッ、邪魔が入ったか」
「フェンリル、貴様」
「軽々しく俺の名前を呼ぶな」
冷たく言い放ち、フェンリルがアシュレイを睨みつける。
アシュレイの表情は、俺の位置からでは窺い知れないが、一触即発の空気が漂っているのは分かる。
先に動いたのは、アシュレイだった。
一気に間合いを詰め、右手の鋭い爪を振り抜く。その動きを予測していたのか、フェンリルは攻撃を後ろに避け、樹の幹を蹴ってアシュレイの方へ跳んだ。
攻撃が当たる寸前、アシュレイは翼を羽ばたかせ、強い風を起こす。風にあおられて狙いを外し、フェンリルはそのまま地面へ着地した。
「厄介な奴。その翼、もぎ取ってやろうか」
「できるものならやってみればいい」
フェンリルの攻撃を、ことごとくいなしていくアシュレイ。しかしある瞬間、アシュレイの頬がわずかに裂けた。
「ほーら、当たった!」
攻撃が当たった途端、フェンリルの唇が弧を描く。
よく見れば、フェンリルの手にも鋭い爪。アシュレイの爪よりは随分細いものだが、それでも殺傷力はあるらしい。
「……小賢しい」
頬を伝う血をぬぐいながら、アシュレイが忌々しそうに吐き捨てる。その反応にすら、フェンリルは実に愉しそうに笑って見せた。
そこから少しずつ形勢は逆転、フェンリルの攻撃がアシュレイに当たり始めた。
アシュレイから流れる血の量が、少しずつ増えていく。傷をかばいながら戦うアシュレイの呼吸が、少しずつ荒くなっていく。
「たいしたことねえなぁ、ドラゴンっていうのも!」
フェンリルの足が、アシュレイの腹に食い込む。勢いよくこちらへ飛んできたアシュレイの体は、何とか受け止めた。
「かはっ……げほっ」
「アシュレイ」
咳き込むアシュレイをかばいつつ、フェンリルの方を睨む。
こちらへ近付いてきたフェンリルは、近くに落ちていた俺の脇差を拾い上げ、迷いなく抜いた。
「安心しろよ、リショウ。今度こそ楽に終わらせてやるさ」
凶悪そうな笑みを浮かべたフェンリルが、脇差を振り上げる。
強く目を閉じた次の瞬間、すぐ傍で獣の咆哮が聞こえた。恐る恐る目を開ければ、見慣れた黒い毛並。
「シュバルツ!」
牙を剥き、毛を逆立てて、フェンリルを威嚇するシュバルツ。
しばしの均衡の後、フェンリルは忌々しそうに舌打ちをして、その場に脇差を放り投げた。
「また厄介なもん連れてきやがって……あーあ、萎えた」
そう言い捨てて、フェンリルはこちらに背中を向ける。また闇が深くなって、フェンリルの後ろ姿は完全に見えなくなった。
「シュバルツ」
後ろから聞こえた声に、シュバルツが振り返る。俺も一緒に振り向くと、ふらつきながら立ち上がるアシュレイの姿が見えた。
やがてアシュレイは俺の顔を見ると、安堵したように深く息を吐いた。
「大丈夫そうだな、リショウ」
「あ、ああ」
「よかった」
安心したように、アシュレイが表情を崩す。
その顔を見た瞬間、俺も全身から力が抜けて、その場にへたり込んだ。深く息を吐いた後で、上手く息が吸えないことに気付く。
ああ、そう言えば、ここに来てからずっと息が苦しかったのだと思い出した。
「おい、リショウ! ああもう、本当に世話の焼けるガキだ……!」
アシュレイの声と、心配そうににゃあにゃあと鳴くシュバルツの声を聴きながら、意識が遠のいていく。
暗転。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます