二、遭遇

 自由落下。重力加速度。


 耳元でガサガサという音が聞こえ続けている。

 感覚が麻痺してしまったのか何なのか、不思議と痛みはあまり感じない。


 そのうちに音が止んで、地面に落ちたのは数秒後。背中をしたたか打ち付けたようで、咳き込んだ。



「かはっ……げほ、ごほっ」



 果てしないデジャヴを感じながら、体を起こして目を開けた。

 視線をゆるゆると動かす。先程アシュレイたちと歩いていた森と、何ら変わりない景色が広がっている。

 顔を上げて、空の方を見た。てっぺんの見えない樹が立ち並んでいるおかげで、空は見えない。それも相変わらずの風景。



「アシュレイ?」



 呼びかけてみるも、返事はない。

 立ち上がって、きょろきょろと辺りを見回してみた。どのくらい遠くまで飛ばされたのか、はたまた意外と近くなのか、見当もつかない。



「ん?」



 ふと、視界の隅をリスがちょこちょこと駆けていくのが見えた。

 体毛が白かったので、まだここは西方の森らしい。内心、ほっとした。



「さて、どうすっか……」



 ガシガシと頭を掻く。

 とりあえず、ここが西方の森であるならば、そのうち巡回部の誰かが見つけてくれるという可能性はある。ここはあまり動かず待機しておくべきか。



「よし、待とう」



 その場にもう一度腰を下ろして、胡坐をかいた。



 ***



「……………………暇だ」



 まずい。果てしなく暇だ。いやもう、暇どころじゃないくらい暇だ。

 今の俺の暇さを表すためにちょうどいい『暇』以上の言葉が見つからないのが惜しまれるレベルの暇さだ。



「しかも腹まで減ってきた……」



 腹をさすりながら、顔を上げてみる。相変わらず、人の気配は感じない。

 深く溜息を吐いたすぐ後、近くでガサガサと草を踏む音が聞こえた。

 人でも来たのかと喜び勇んで振り返ったら、樹の陰から出てきたのは、白い狼だった。



「……マジか」



 思わず呟いた。


 その声が聞こえたのか、その前に視界に入ったのか、狼が俺に気付いて視線を動かす。

 狼の、青みがかった灰色の目が俺を捉えた。

 完全に目が合って、ぞわりと背筋が粟立つ。そんな俺を知ってか知らずか、狼は俺にゆっくりと近付いてきて、鼻先を首筋に寄せてきた。



「……っ!?」



 すんすん、狼はひとしきり俺のにおいを嗅ぐと、やがて溜息でも吐くように深く息を吐いた。



「……何だ、違ったのか」



 ぽつり、呟いたのは俺ではない。

 目の前でお座りの姿勢になったその狼は、さらに欠伸をして、もう一度口を開いた。



「間違いないと思ったんだけどな」



 うん、間違いなくしゃべったな、こいつ! 話の通じる相手が来るとはラッキーだ!


 そう思ったら顔に出ていたようで、狼の方が不審なものを見るような目で俺を見てきた。ちょっと悲しい気持ちになった。



「なあ、お前」

「何だ」



 呼びかけに返事があったことが更に嬉しくて、思わずガッツポーズした。余計に白けたような顔をされた気もするが、きっと気のせいだ。



「この森のこと、詳しいか?」

「森のこと? まあ、棲んでいるからな。それなりには」

「っしゃあ来た!」

「癖なのか?」



 とうとうガッツポーズを癖扱いされた。



「あ、あのさ! 俺、さっき森がガックンガックン動いたときに、一緒にいたやつとはぐれちゃってさ……!」

「ああ、さっきのあれでか」

「それで、ほら。白くて高い建物あるだろ? あそこまで戻りたいんだけど、どっちの方向にあるかだけでも教えてもらえたら……」

「へえ」



 目の前の狼は軽く目を閉じて、しばらく何かしら考え、やがて目を開けて腰を上げた。



「口で言うより、直接行った方が早いな。着いてこいよ」

「本当か!? ありがとう!」



 言うなり立ち上がって歩き出す狼。慌てて立ち上がって後を追うと、狼は俺の方を振り向いて、小さく首を傾げた。



「そう言えばお前、名前ってあるか?」



 あまり聞かない質問の仕方に、きょとんと目をしばたく。すると、その狼は不思議そうな顔をして続けた。



「名前だ。知らないか? 個体を識別する符号のようなものだ」

「あ、いや、知ってるよ。ちゃんとあるよ、名前」

「そうか!」



 何故か少し嬉しそうな顔をして、そいつはぴくぴくと耳を動かす。



「なんていうんだ?」

「っと、吏生だよ」

「リショウ。……リショウか。なかなかいい名前じゃないか、俺ほどじゃないが」



 どういうことだ。



「お前の名前は?」

「よく聞いてくれたな!」



 尋ねてみれば、そいつは誇らしげに胸を張って、まるで自慢するように、言った。



「俺の名前はフェンリルと言う! 格好いいだろ、覚えておけ!」

「お、おう……そ、そうだな」



 自分の名前をかなり気に入っているらしいことは伝わってきた。

 しかしながら。


 世界樹に、フェンリル。

 なんだか嫌な予感しかしないのは、気のせいであってほしい。



 ***



 歩き始めてしばらく。

 ずんずんと歩いていくフェンリルの背中を追って、俺も森を進んでいく。

 樹からちょろちょろと降りてきたリスが、フェンリルの姿を見るやすぐにまた樹を登っていくのが見えた。



「なあ」

「何だ」



 声をかけている間にも、近づいてきた鹿が慌てたように引き返していく。

 このフェンリルという狼は、森の生き物たちに怖れられているのだろうか。



「白い建物までどれくらいかかるかな」

「さあな。そのうち着くだろ」

「そうかぁー」



 どこか投げやりに聞こえるフェンリルの言葉に、思わず溜息を吐いた。


 それにしても、俺はどこへ飛ばされたんだろう。

 事務所の方へ飛んだならまだいいが、もし遠ざかっていたとしたら大変なことだ。少なくとも三時間以上は歩くことになる。

 どうにか途中でアシュレイと合流できればいいんだが。シュバルツでも可。あるいは誰か委員会の人っぽい人に出会えればよし。



「なあ、フェンリル」

「何だ、リショウ」



 名前を呼び掛けたら、嬉しかったのかなんなのか、名前を呼び返される。

 ぴくぴく、耳が小さく動いたのが見えた。



「フェンリルはずっとこの森に棲んでるのか」

「ん、ああ、そうだな。生まれてからずっとこの森にいる」

「一人で?」



 尋ねた言葉に、フェンリルはわずかだけこちらを振り向いた。

 それから小さく鼻を鳴らし、吐き捨てるように答えた。



「ああ、ひとりだよ」

「寂しくないか?」

「さあな。そういう感情はよくわからない」



 言葉の節々に、どこか憎々しげな感情が見え隠れしているように思うのは、ただ単純にフェンリルの口調がぞんざいだからだろうか。それとも、何かしら思うところがあるんだろうか。

 腕を組んで考え込んでいたら、フェンリルがちらりとこちらを向いた。



「何か文句でもあるのか」

「いや、何も?」



 ひらひらと手を振って見せたら、フェンリルはどこか不服そうな顔をして、また前を向いた。



「群れるのは嫌いなんだ」

「まさしく一匹狼ってやつだな」

「ダジャレのつもりか? その程度で笑ってやるほど甘くないぞ」

「何の評論家?」



 この狼はどうにも人間臭すぎると思うのだが、気のせいだろうか。



「あの白い建物も、俺は好きじゃない」

「え、何で」

「無駄に群れてる感じがする。ひとりじゃ何もできない弱者の巣窟だ」

「なかなかに毒舌だな」

「だってそうだろ。ひとりで生きられるなら、あんなところにいる必要もない」



 フェンリルはそう言って、不機嫌そうにフンと鼻を鳴らす。

 どこまでもわかりやすい狼だ。思わず笑いそうになって、口を押えて何とかこらえた。



「おい、何がおかしい」



 バレてた。



「フェンリルは、思ってることが顔に出るタイプだな?」



 笑いがこらえきれず、俺はにやけた顔でそう言った。

 フェンリルは驚いたような表情でこちらを振り向いた後、完全に不服そうな顔をして、また俺から視線を外した。



「お前に言われたくない」



 ああ、ごもっともかもしれない。



 ***



「ちょ、待って、フェンリル」



 惰性で何とか歩けていたが、そろそろ疲れが最高潮らしい。

 立ち止まって膝に手をつき、大きく呼吸した。そんな俺に近付いてきてから、フェンリルは不思議そうに首を傾げた。



「何だ、もうバテたのか」



 呆れたようなフェンリルの言葉にも、何も言い返すことができない。何とか呼吸を整えていたら、フェンリルが俺のシャツの袖に噛みついて、軽く引っ張った。



「仕方ない奴だな、休憩しよう」

「た、助かる……ありがとう」



 袖を引かれるまま腰を下ろして、大息を吐く。そのついでにごろんと寝転んだら、すぐ近くで溜息が聞こえた。



「軟弱な奴だな」



 何か返事をしようと思ったら、声が出るより先に腹の虫が鳴いた。

 腹を押さえつつフェンリルから視線を外したら、しばらくしてからフェンリルが思いきり噴き出した。



「ぶっは! お前、その返事はないわ!」

「うっせ! わざとじゃねーわ!」

「わざとだったとしたら逆にすげーわ!」



 ゲラゲラと笑い転げる狼の姿は、なかなかシュールなものである。

 見ているとそのうち俺も面白くなってきて、一緒になって笑った。



「リショウ、お前、変な奴だな!」

「お前に言われたくないんだけど?」



 この狼とは、なんだか仲良くやっていけそうな気がする。



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