伍、野生の脅威

一、家路

 この施設に来て四日目の朝。久し振りに森に出た。

 そこまで久し振りというわけでもない日数のはずなのに、外の風景に懐かしさすら感じるのは何故だろう。



「シュバルツ」



 アシュレイの呼び声に、黒い虎がすぐ駆けてきた。初日、腰を抜かした俺をここまで運んできてくれた虎だ。……ああ、いや、腰を抜かしたのもこいつが原因だった。

 みゃあ、と一声鳴いたシュバルツは、アシュレイに顔をすりすりと顔を寄せている。相当懐いているようだ。



「懐いてるんだな」



 そう呟いたら、アシュレイが俺の方を向いた。その頬を、シュバルツが嬉しそうに舐めている。



「ああ、私が拾ったからな」

「拾った」

「巡回中、北方の森との境目の近くで見つけたんだ。拾って治療してやったら、えらく懐いてな」

「へえ」



 わしゃわしゃとシュバルツの頭を撫でながら、アシュレイは少しだけ笑う。それから森の方を見て、俺を見た。



「さて、行くぞ」

「おう」



 先を行くアシュレイの背中を追うと、シュバルツが俺のすぐ隣を歩き出す。そちらを向いたら、みゃあ、と鳴き声が返ってきた。



 ***



 樹のてっぺんは、相変わらず見えない。

 けれど、初めて森に来た時に比べて、周囲が明るく見えるような気がする。



「なんか、この間より明るく感じる」



 素直にそんなことを言ったら、アシュレイは一度空を見上げてから、すぐに視線を戻した。



「気のせいだろ」

「そうかな」

「あの時より、恐怖心が薄いからじゃないか?」

「……ああ、そういうことか」



 精神状態が、見える風景に影響したのか。

 そんなことを思いながら、森の景色をきょろきょろと見回した。


 見える範囲は樹がうっそうとしているし、光は届いていない。どこを向いても仄暗いのは変わらないのに、何故か視界は良好だ。

 ガサガサ、音が聞こえた方を見ると、白い鹿が四頭連なって駆けていくのが見えた。

 他の場所へ視線を移せば、レイシャルに似た白いリスが樹を登っていくのも見えた。



「結構いるんだな、生き物。みんな白い」

「そうだな」

「シュバルツが黒いのは何で?」



 そう尋ねたら、アシュレイは少し驚いたような顔で俺を振り向いた。

 首を傾げて見せたら、小さく溜息を吐きながら視線を戻す。



「この森にいる生き物は、体毛が白い。厳密に言えば、『西方の森』にいる生き物だ」

「西方」

「森は広いからな。中央に本部を置いて、東西南北それぞれに支部を設置している。私たちがいるのは『西方支部』だ」

「西方支部」



 ああ、そう言えばレスティオールが最初にそう言っていたような。



「いくつかの世界共通の概念で、『四神』と言うものがある。お前は知っているか?」

「ああ。青龍、朱雀、玄武、白虎……だっけ」

「それと同じように、それぞれの方角にそれぞれの色があるらしい」



 アシュレイの言葉を聞きながら、四神の配置を思い出そうと思考を巡らせる。だが、俺が思い出す前にアシュレイが言った。



「北は玄武の『黒』、東は青龍の『青』、南は朱雀の『赤』、西は白虎の『白』。そして、中央は麒麟の『金』。それぞれ、生き物の体毛はその色になっていくようだ」

「中央はやたらゴージャスなことになってそうだな」



 金色の鹿やリスが駆け回る様子をちらっと想像してみた。

 ……豪華だ。



「シュバルツが黒いのは、北方の森に近かったからかもしれないし、もともとは北方の森にいたからかもしれない。その辺りは、シュバルツ自身もよく覚えていないようだが」



 シュバルツの方を向いたら、にゃあ、と小さく鳴くだけ。

 俺にはネコ科の言葉は分からない。



「ザルディオグがよく『体組織構造が森に順応する』という表現を使う」

「あ」



 そう言えば。

 滞在時間が長くなると、体組織構造が森に順応していく。だから採取するものは早めに採る……というようなことを検査中に言われた。



「体毛が白くなっていくのも、その一環だと考えられてはいるが……厳密な原因はまだ研究中と言うしかない」

「へえ」



 自分の髪の毛を引っ張って、視界に入れる。

 まだ黒い。その事実に、少なからず安堵する。



「なんか、面白いな」

「ん?」

「森に染まっていく、みたいな感じで」



 何気なく呟いた言葉に、アシュレイが振り返る。

 しばらくきょとんとした顔で俺を見ていたアシュレイは、やがて小さく笑った。



「そうかもな」



 アシュレイは帽子からはみ出した髪を引っ張って見せる。真っ白な髪。



「灰色だった」

「へ?」

「父が白で、母は黒だった。私の髪は、両親の間を取ったように、灰色だった」

「へえ……」

「……確か」

「確か?」

「あまり覚えていないんだよ、森へ来る前のことは。……忘れたかったからかもしれないが」



 どこか悲しそうな顔で笑った後、アシュレイは髪から手を放し、前を向いた。



 ***



 どれくらいの時間歩いただろう。



「アシュレイ、ちょっと待って、休憩、ちょっと休憩」



 立ち止まって、息を整えながら進言する。アシュレイはこちらを振り向いてから、懐中時計を取り出して、目をしばたいた。



「もう三時間か。疲れるわけだ」

「何て!?」

「三時間」

「歩き通し!?」



 それは、疲れるわけだ。

 急に疲労がのしかかってきた感じがして、その場にへたり込んだ。



「こんなに遠かったっけ……」

「お前、あの時は自分で歩いていなかっただろ」



 そうでした。

 シュバルツの背中にお邪魔していたのでした。



「まあ、少し休憩にしよう」

「た、助かった」



 ほっと息を吐いて、そのままその場に寝転がる。

 相変わらず樹のてっぺんははっきりと見えないが、アシュレイの言ったとおり、初めて来たときほど恐ろしいとは思わなかった。

 むしろ。



「……落ち着く」



 深く息を吐いたところで、アシュレイが立ったままで俺の顔を覗き込む。突然のことにたじろいだら、アシュレイは呆れたように言った。


「気持ちは分からんでもないが、あまり森を気に入り過ぎるなよ」

「へ?」

「今更戻りたくないなどと言われても、私にはどうすることもできないぞ」



 溜息が交じったアシュレイの言葉。

 今更ながら、これから元の場所へ戻るのだと思い出し、つい眉根を寄せた。



「……わかってるよ」



 本当は、あんまりよくわかってないかもしれない。


 漠然とはわかる。もうこの森ともお別れで、元の場所に戻ればこの森のことはすっかり忘れて、ここで出会った人たちとは二度と会うこともなく。

 ……それは分かっているんだが、どうにも実感を伴わなかった。



「ならいい」



 俺から視線を外して、アシュレイが離れていく。

 視線を動かしたら、俺のすぐ傍に座り込んでいるシュバルツの姿が視界に入る。

 にゃあ、なんて鳴き声を漏らすそいつが、何故かやけに寂しそうに見えた。



 ***



 休憩を終えて、再び歩き出した現在。

 前を歩くアシュレイの歩調は、先ほどより遅く感じる。疲れ切ってしまった俺に合わせてくれているらしい。


 そういえば前にクラスメート女子たちが、『歩調を合わせてくれる男子って紳士的で素敵だよね』的な話をしていた気がするが、つまりそれと言うのはこういうことなのか。


 ……変なことを考えてしまった。

 そんなことを思いながら、何気なく視線を左へずらした。



「……!?」



 瞬間、ぞわりと背中が粟立つような感覚が走る。

 何と言うべきか……何か得体の知れないものに睨まれたような、圧倒的な恐怖。



「まずい……!」



 何かに気付いたのか、アシュレイが焦ったようにこちらを向いた。

 俺もずらしていた視線を戻すと、ちょうどアシュレイと目が合う。


 その直後、ぐらりと地面が波を打つ。



「地震!?」

「時々、樹が一斉に枝葉を揺らすんだ。私たちは『屈伸運動』と呼んでいるが」



 そんな解説をしながら、アシュレイがその場で腰を落とす。シュバルツも、アシュレイの横で伏せの姿勢になった。



「リショウ、離れるな!」



 アシュレイが伸ばした手を取ろうと、俺も手を伸ばす。

 手が届く寸前、横から笛のような音が耳を刺した。振り向いたら、白い鹿。四頭。



「ちょ、待っ」



 思わず制止しようとしたが、当然俺の言葉など彼らには通じることもなく。

 そのまま跳ね飛ばされた。



「リショウ!」



 飛ばされた先がまずかったようで、そのまま枝葉の運動に巻き込まれ、アシュレイの声が一気に遠のいていく。

 少しでも衝撃を和らげようと、体を丸めて頭を守る。まるでピンボールか何かのように弾かれ飛ばされた先で、不意にひときわ強い衝撃の後、周りが静かになった。



「……?」



 薄く目を開けて、視界を覆っていた腕をどかす。

 そこに広がっていた光景は。



「す、げー……」



 曇っているわけでもないのに白い空が、どこまでも広がっていた。

 視線を落とせば、敷き詰められたように群生する樹が視界の果てまで並んでいて、それぞれの樹のてっぺんには天使の輪のようなものが輝いているのが見える。


 重力に従って、体が落ちていく。

 このまま落ちて、無事でいられるかどうか……なんてところにまで、思考がいかない。

 ただ、このまま死んでもいいかもしれないと思うほどに、その景色は美しかった。


 すげえ、いいもん見た。


 無駄に冷静な頭でそんなことを思いながら、目を閉じた。


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