三、異変

 本日の授業がすべて終わって、午後四時。

 机の中の教科書類を取り出して、そのついでに昨日忘れて帰った文庫本をカバンにしまう。



「じゃあまた明日ね、吏生」

「おう、また明日」

「ケンカはほどほどにして帰れよー」

「言われなくてもわかってるって」



 それぞれ部活に向かう二人を見送ってからカバンを担いで、教科書類を廊下にあるロッカーにしまいこんでから、玄関へ向かう。

 廊下の向こうで、今朝返り討ちにした吉田たち不良連中が、何やらこそこそとこちらの様子を窺っていたようにも見えたが……まあ気のせいだと思っておく。



「ふあ」



 今日も疲れた。

 欠伸を一つしてから、下駄箱で靴を履き替えて、外へ。

 部活へ向かう生徒が数人、グラウンドへ向かって走っていく。それを一瞥して、真っ直ぐに校門から外へ出た。



『じゃあ、吏生が帰ってきたら買い物に行くことにするよ』



 今朝の母さんの言葉を思い出して、心なし歩調を早める。

 母さんが明るいうちに買い物へ行って帰って来られるように、早めに帰ろう。買うものが多そうだったら、荷物持ちくらいならなってやってもいいかもしれない。



「晩飯はカレーよりハンバーグの方がいいなぁ……」



 そんなことをぽつりと呟いた直後。

 不意に、がくんと体が落ちるような感覚に襲われた。

 咄嗟に足元に視線を向けたら、ぐにゃり、視界のあちこちで世界が歪む感覚。



「うわっ!」



 前のめりに、体が倒れる。アスファルトに直撃するのを恐れて、両腕で顔を覆う。

 けれど、地面にぶつかることはなく、下から強く風が吹いたのを感じた。それから浮遊感。続いて、重力加速度。



「う、わぁぁぁっ!」



 高所から落ちるような感覚に、体を丸める。

 地面に落ちたのは数秒後、背中をしたたか打ち付けたようで、咳き込んだ。



「かはっ……げほ、ごほっ」



 ものすごい距離を落ちたような気がするが、痛みはそこまでひどくない。のっそりと体を起こしてから、ゆるゆると目を開けた。


 真っ先に目に入った地面は、手入れがされていない芝生のような状態。この草がクッションになったおかげで、あまり痛くなかったんだろうか。


 視線を上げると、大きな樹が見える。視線をずらせばその横にも、その横も。どうやら森のようだ。


 さらに視線を上げてみたが、樹のてっぺんは見えない。よほど大きな樹らしい。



「……どこだ、ここ」



 そもそも、そこだ。


 いや、俺は家へ帰るためにアスファルトで舗装された道を歩いていたわけで、近所にはもちろん公園はあるがここまでうっそうとした公園ではなかったはずだし、というかこんなに広大な森が近所にあったらまず知ってるし、ってそうじゃなくて。



「俺……今、どこから落ちた……?」



 視線を上げるだけ上げて、空の方を見る。しかし、視界に入るのは樹ばかり。樹が太陽光を覆い隠してしまっているのか、森の中はやけに薄暗い。


 首が疲れたので、視線を下げて立ち上がる。足元を一通り眺めてみたけれど、カバンがない。範囲を広げて辺りを見回してみたけれど、やはりない。

 ポケットに手を突っ込んでみたが、こんな時に限って携帯はカバンの中だ。



「待て。……ちょっと待て、いや待って、何だこの状況」



 その場をぐるぐると回りながら、考えを巡らせる。

 いったい今、俺の身に何が起きているのか。今、俺が見ているこの光景は何なのか。


 考察その一。

 下校途中で唐突に気を失って、今は夢を見ているのではないか?

 ……いや、さっき打ち付けた背中は痛かったし……。そう思いながら、一応自分で頬を抓ってみた。



「いっ、てててて!」



 加減するのを忘れた。痛い。どうやら夢ではない様子。

 抓った頬をさすりながら、きょろきょろと辺りを見回してみた。


 考察その二。

 マンホールに落ちて気を失っ……いや、夢じゃないんだった、それはさっき証明されたんだった。



「あー、駄目だ、全然駄目だ」



 頭を抱えて、ゆるゆると首を振る。

 そのまま、すぐそばの樹にもたれかかって座り込んだ。少しでも頭が働くようにと思いつつ、こめかみの辺りを揉みながら周囲の様子を窺う。


 がさがさ、遠くで何かが動くような音がする。人かどうかは判断がつかないが、生き物がいるらしいことは分かった。

 ……いや、だから何だと言うんだ。そもそもどうして俺はこんなところにいる?



「駄目だ、本気で思考がまとまらない」



 もともと考えることは苦手だというのに、誰だ、俺みたいな脳みそ筋肉野郎をこんなわけのわからない状況に追いやったのは。誰が脳みそ筋肉野郎だ。



「だああっ、悩んでても仕方ねえ!」



 勢いよく立ち上がって、上を見る。

 相変わらず、てっぺんの見えない樹ばかりが視界を占めている。



「登るか!」



 よく考えてみれば、俺は上から落ちてきたわけであって、だとしたら出入口になるようなものは上の方にあるわけであって。

 そんなまとまらない思考のまま、俺は目の前の樹に手をかけた。……のだが。



「……登れるかな、これ……」



 目の前の樹を観察してみる。

 両手を広げてなお半周も届かないほどの太い幹。表面はどちらかというとつるつるしていて、手掛かりや足掛かりになりそうな出っ張りもない。

 試しに爪を突き立ててみたけれど、食い込むこともない。


 試行錯誤を繰り返しているうちに疲れ果てて、また木の根元に座り込んだ。



「どうしたものか」



 詰んだ。完全に詰んだ。

 何だこれは、いったい俺にどうしろと言うんだ。なあ、おい。



 腕を組んでそんなことを考えていたら、がさがさ、どこからか足音のようなものが近づいてきた。樹を背中に立ち上がって、周囲を警戒する。


 ああ、もう、頼むから、こういう極限状態の時に、変なもんが出て来てくれるなよ。



「みゃあ」



 不意に、聞こえてきたのは猫のような鳴き声。

 思わず警戒を解いたところで、樹の陰から出てきたのは黒い……虎?



「な、……っ!?」



 鳴き声で油断させるとか狡猾か!


 そんなことを思っていたら、その黒い虎らしき獣は、すんすんと鼻を鳴らしながら俺に近付いてくる。あまりの出来事に固まっている間に、そいつはくんくんと俺のにおいを嗅ぎ始めた。



「ちょ、おい、何、くすぐったいんだけどっ」



 いや、もう、至近距離でこのサイズ感の獣ににおいを嗅がれるとか、初めての経験でちょっとテンションがおかしいことになってきたんだけど、どうしようコレ。


 そう思っている間に、がさがさともう一つの足音。それに気付いたらしい俺の目の前の獣は、俺のにおいを嗅ぐのをやめて、足音の方を振り向いた。



「シュバルツ」



 聞こえてきたのは、女とも少年ともつかない声。続いて樹の陰から現れたのは、全体的に黒っぽい服装の人影。


 上はハイネックのノースリーブ、それと同じ生地のアームカバーが二の腕から手首までを覆っている。下はダボッとしたサルエルパンツに、ごつそうなブーツ。

 目深にかぶられた黒いキャスケットからは、短めの白い髪の毛がはみ出している。



「にゃあ」



 目の前の獣は、一声鳴くや否や、俺から離れてその人の方へ歩いていく。

 ずいぶんと懐いているらしく、獣はその人にごろごろと甘えだした。



「うちの猫がすまないな。怪我はしていないか?」

「あ、ああ……はい」



 獣の頭を撫でつつ、その人は俺を見る。

 帽子の下の表情はよく見えないが、悪いやつではなさそうだ……と、俺の勘が言っている。



「……はーっ」



 急激に安堵感が襲って、大息を吐いてその場にへたり込んだ。今更になって、足が震えてうまく動かない。

 死ぬかと思った。



「大丈夫か?」

「た、たぶん」



 心配そうに近付いてきたその人に、何度も頷いてみせる。その人は俺の様子をしばらく見た後、ズボンのポケットから何やら無線機らしきものを取り出した。



「こちらアシュレイ、応答願う」



 俺に背を向けながら、その人は言う。どうやらそれが、その人の名前らしい。

 動きやすいようにだろうか、服の背中の部分が大きめに開いているのが見える。

 無線機から聞こえてくる音声は、俺のいる位置では雑音交じりでよく聞こえない。



「第三ブロック、五二一八番にて『遺失物』を確認。これより持ち帰る」



 再び無線機から雑音が漏れてから、ぷつり、沈黙。

 その人……アシュレイ、は無線機をポケットにしまうと、こちらへ向き直った。



「立てるか?」



 俺の方へ手を差し伸べながら、アシュレイは言う。

 その手をつかんで、なんとか立ち上がった。けれど、情けなくも足は震え、うまく立っていられない。



「……仕方のないガキだな」



 お前は俺より年下に見えるんだが、なんて言い返そうとした瞬間、片腕で肩に担ぎ上げられた。あまりの出来事に混乱していると、そいつは俺の体を、さっきの黒い虎の背中にどさりと乗せた。



「!? !?」

「混乱しているところ申し訳ないが、一緒に来てもらうぞ、少年」



 黒い虎の上で態勢を整え、アシュレイの方を見下ろした。キャスケットのつばで顔が隠れてしまい、表情はよく見えない。


「ど、どこに?」

「いわゆる『事務所』とでも呼べばいいかな。行くぞ、シュバルツ」



 アシュレイの掛け声で、黒い虎が歩き出す。落ちないようにしがみつきながら、前方を歩き出したアシュレイの背中にもう一度声をかけた。



「ちょっと待ってくれ、俺は元いた場所に帰りたいんだけど」

「そのために一度、そこへ行くんだ」

「でも、たぶんあの樹の辺りに」

「うるさい」



 アシュレイは俺の方を振り返ると、淡々とした声で言った。



「いいから黙って来い」

「…………は、はい」



 うっかり、ちょっとかっこいいとか思ってしまった。

 アシュレイが再び前を向いたのを見届けてから、うっそうと樹が茂る周囲の光景を見回して、俺は小さく溜息を吐いた。


 七月十二日、おそらく午後五時頃。

 現在、俺の身にかつてない異常事態が起きていることを、なんとなく理解した。


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