二、学校
「じゃあ、気を付けて行けよ!」
「父さんも、気を付けて働けよ」
登校途中、ある交差点で父さんと別れた、七時三十五分。
しばらく歩いてから振り向いたら、反対方向へ歩いていたはずの父さんがこちらを向いてぶんぶんと手を振っていた。それに軽く手を振り返して、もう一度前を向く。
「ふあ」
欠伸を一つ。
すっかり目が覚めたつもりでいたが、まだ眠気が残っている。
「あら、おはよう」
聞き慣れた声に振り向けば、通学路でいつも会うおばちゃん。
薄手の白いカーディガン、その内側には黄色のTシャツ、下は動きやすそうなベージュの綿パン。そして歩きやすそうなえんじ色の靴。
その手元から伸びるリードの先には、柴っぽい犬。俺を見てぶんぶんと尻尾を振る姿に、朝から癒される。
「ああ、おはよう! お前もおはよう、今日も元気そうだなぁ」
しゃがんで犬を撫で回すと、犬は更に嬉しそうに尻尾を振り、俺の顔を舐めてきた。
その様子を見て、おばちゃんが楽しそうに笑った。
「あらあら、なんだか今日はいつにも増して甘えん坊ねぇ」
「悪い気はしないな!」
ひとしきり撫で回してから、立ち上がる。
「じゃ、行ってきます!」
「行ってらっしゃい!」
おばちゃんの横を通り過ぎて歩き出すと、犬が俺に向かって鳴いたのが聞こえた。
行ってらっしゃい、とでも言われたんだろうか。
「おはようございます!」
「おはよーございまーす!」
挨拶を大切に、と教えられているらしい小学生たちが二人、俺にも挨拶を寄越す。
一人は白いTシャツにカーキのハーフパンツ。もう一人は黒いTシャツにベージュのハーフパンツ。どちらも黒いランドセルを背負って、黄色い通学帽をかぶっていた。
あと、彼らが履いている赤っぽいスニーカーは、おそらく速く走れると噂のやつだと思う。
「おう、おはよう!」
片手を上げて挨拶を返すと、嬉しそうに笑いながら俺の横を通り過ぎていく。
その背中を見送って後ろを向けば、先ほどの犬に鳴かれて焦る小学生たちの姿が目に入って、思わず笑った。
***
学校に到着したのが、午前七時五十分。
「おはようございまーす」
「おう、おはよう」
生徒指導の教師が張る校門を抜けて、玄関へ。
下駄箱を開けても、紙の束が落ちるなんてことはない。ラブレターもなければ果たし状もない。上履きに画鋲が入れられている、なんてこともない。いたって平和な下駄箱だ。
取り出した上履きに履き替えてから、教室へ向かって階段を上り、廊下を進む。
よし、今日は無事に教室まで辿り着けそうじゃないか。何が最下位だ、ざまぁみろ!
なんて今朝の占いに悪態をついた次の瞬間。
「
ものすごく不穏な声が、背中から聞こえてきた。
嫌な予感がする中で振り返ると、制服を極限まで着崩した挙句にズボンの裾を引きずって歩くタイプの不良が三人、俺を睨みつけながら歩いてくる。
「テメエ、昨日の落とし前つけてもらおうか、あぁ!?」
「白崎、テメエのせいでヨッちゃんメチャクチャ鼻血出やすくなったんだぞコラ、あぁ!?」
「それは言わなくていいんだよ、あぁ!?」
昨日。
その言葉で、昨日の放課後の出来事に思い至る。
「いや、落とし前も何も、あれは正当防衛じゃないっすか」
そう、あれは正当防衛だったはずだ。
昨日の放課後、ヨッちゃんこと
脈絡もなくケンカを売られ、唐突に殴り掛かられたので、拳を避けて、顔面に頭突きを叩き込んだだけだ。
俺は悪くない。
……悪くないよな?
「どう考えても過剰防衛だったろうが、あぁん!?」
「いやいやいや、だって先に殴り掛かってきたのはそっちじゃないっすか……」
「でも殴ってないじゃん!? 俺が殴る前にお前が頭突きしたんじゃん!? 鼻に直撃じゃん!?」
「そのおかげでヨッちゃんは昨日から鼻血が出やすくなってんだぞコラ!」
「だからその話はいいって!」
不良たちの話を聞きつつ、ガシガシと頭を掻く。
放っておいて教室に行こうか……などと思いながら視線をずらした瞬間。
「何シカトぶっこいてんだコラァァア!」
聞こえた声に視線を戻した時に、目に入ったのは吉田の右拳。
左に避けつつ、突き出された右手をつかみ、勢いを利用してぶん投げる。ぐるん、すぐそばで回転した吉田の体は、そのまま俺の横に背中から落ちた。
「……で、何?」
足元で、何が起きたかわからないという顔をしているそいつを見下ろす。
目に見えて青ざめるそいつの顔がなかなかに面白かったので、わざとらしい笑顔で口を開いた。
「次は肩でも外れやすくしてやればいいの?」
瞬間、まだ俺に手を出してもいない二人が後ずさったかと思うと、ダッシュで逃げ出した。それに続いて、俺の足元にいた吉田も、転がるように駆け出して行った。
「テメエ! 覚えてろよ! 次はボッコボコにしてやんよ!」
遠ざかっていく負け犬の遠吠えを聞きながら、ガシガシと頭を掻く。
「捨て台詞が雑魚過ぎるだろ」
そのツッコミを聞いてくれる人は、誰一人いなかった。
***
そんな一悶着の後。ようやく教室に辿り着いた、八時過ぎ。
ロッカーを探って、今日使う分の教科書類を取り出してから、教室に入る。
「あ、吏生だ。おはよー」
「はよーっす」
「おー、おはよ」
教科書を自分の席に置きつつ、いわゆるクラスメートたち二人と挨拶を交わす。
「吏生、またケンカ売られてたね」
「何だよ、見てたんなら助けてくれればいいのに」
「いやいや、あの場で助けなんていらないでしょ」
呆れたように首を振るのは、
制服はほとんど着崩しておらず、カッターシャツの上にきっちり指定の紺ベストを着ている。頭頂部のアホ毛は気になるが、髪型も奇抜ではない、普通の優等生という風体。
そんな真面目そうな格好をしておきながら、その手元には携帯ゲーム機。校則違反ではないが、授業前にRPGのイベントムービーを見ているのはどうかと思う。見終わるんだろうか。
ゲーム画面に視線を落とす俊己と会話をしつつ、カバンを机の横に掛けてから席に着いて、教科書は机の中にしまう。ふと、机の奥で何かが引っ掛かるような感じがして、手を突っ込んだ。
「吏生だしな」
笑いながらひらひらと手を振るのは、
ズボンは膝下まで裾をまくり上げ、カッターシャツの上には赤いパーカー。髪は茶色。染めているわけではなく、元々色素が薄いらしい。
そんな不真面目そうな格好をしておいて、その手元には教科書。真面目なんだろうか、それともパラパラ漫画でも描いていたんだろうか。
「そうそう、吏生だし」
「どういう意味だよ」
「そのままだよ、そのまま」
不意に、机の奥に突っ込んだ手に、何やら紙の束らしきものが触れた。
引っ張り出してみれば、正体は文庫本。どうやら昨日、置いて帰ってしまったらしい。教科書を入れたときに少し曲がったようだが、仕方あるまい。
俺はその文庫本を、もう一度机の中にしまった。
「だって、下手に助けに入ったら間違えてぶん投げられそうじゃん」
「それな。完全にそれな」
「お前らは俺を何だと思ってるんだ」
思わず溜息を吐いて視線を向けたら、二人は顔を見合わせて、小さく噴き出して。
それからさも当然であるかのように、言った。
「「条件反射でケンカする人」」
何じゃ、そりゃ。
「なんかもう、攻撃を受けそうだと思ったらすぐ迎撃態勢に入る感じ」
「わかる! 俺さ、驚かせようと思って吏生の背後から忍び寄ったことがあるんだけど」
「何それ。久哉ってば勇者じゃん」
「その頃は吏生があんな条件反射マシンだと思ってなかったからな」
「ああ」
俺を差し置いて、クラスメート二人が盛り上がり出した。
とりあえず、頬杖をつきつつ話を聞いてみることに。
「そうしたらさ、こう……驚かせにかかる前にこっちを振り向いた吏生がさ、俺の顔をこう、ガシッと! つかんできたんだよ!」
「こっわ! 吏生こっわ!」
「あー……そんなこともあったような、なかったような……」
「あれ以来、俺は吏生を驚かせるようなことはしまいと心に固く誓ったのだ」
「先月末くらいだっけ?」
「意外と最近っていう」
そんな話をしている間に、予鈴が鳴る。
さて、今日もかったるい時間の始まりだ。
***
「吏生はさ、基本的に反応がケンカ腰なんだよね」
現在地は屋上。
購買で買ってきた焼きそばパンを食す、十二時半頃。
「そうかな」
「俺は分かるぞ! なんかこう、いつでもすぐ次の攻撃に移れる反応だ」
「だよね、そんな感じ」
「……そうかな」
いや、自覚はある。
癖と言うか、それこそ条件反射だ。
+++
昔から、ケンカは妙に強かった。
暴力的な性格だったわけではないけれど、何故か腕っ節は強かった。
保育園の頃に、近所の公園を『縄張りだ』なんて言って陣取っていた小学生を追い払ったことがある。
とは言えこれは、公園の片隅で遊んでいた俺に小学生の方がケンカを吹っかけてきたものであり、俺が仕掛けたわけじゃない。
小学生の頃に、父さんの仕事が土方だからとバカにされたことがある。
その時はブチ切れて、バカにしたやつらを全員ボコボコに伸してやった。
後にも先にも、自分から暴力を振るったのはこれだけだったと記憶している。
中学に上がった頃から、いわゆる粋がりたいやつらに目を付けられるようになった。
たまに不意を突かれて攻撃されたりなんてことがあったので、すぐに反撃できるように心がけ始めたのがこの頃。
そういうことがあって、最近はもう反射的にそういう反応をしてしまっているわけだが。
+++
「俺、時々思うんだよ。吏生って忍者なんじゃねーの?」
「あー、それわかる。只者じゃない感が半端ないよね」
「アホか」
二人の会話に溜息を吐きながら、焼きそばパンを一口かじる。
「実はご両親が忍者の末裔とか」
「あはは、吏生に限ってはその設定でも行ける気がする」
「いや、そんなわけ」
ない、とはっきり言い切れない部分はある。
何せ俺は、両親の過去をよく知らない。親戚もいないし、古くからの知り合いという人にも会ったことがない。
両親が俺に過去のことを隠している限り、俺は両親に関する真実を知ることはできないわけで。
「……ないだろ、ないない」
何も考えていないような父さんの顔を思い出す。
悪戯っ子のように笑う母さんの顔を思い出す。
あんな二人が、そんな特殊な人間であってたまるか。
「それより久哉、のど渇いた。ちょっとミックスオレ買ってきて」
「パシリ!?」
「あ、ついでに僕にカフェオレ買ってきて、久哉」
「お前もかよ!?」
溜息を吐きながらも、久哉はちゃんと頼まれてくれる。
面倒くさそうに歩く後ろ姿を見送ってから、俊己と二人で笑った。
七月十二日、ほぼいつも通りの昼下がり。
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