壱、日常からの逸脱
一、家族
けたたましいアラームの音で目が覚めた、午前六時。
カーテンの隙間から差し込む朝日が眩しい。何度か瞬きを繰り返して、ようやく視界がはっきりしてきた。
「
「……ん、おー」
間抜けな返事をしてから、手探りでアラームを止める。
静かになった部屋で、盛大な欠伸を一つ。
「ふあ……ねむい」
重い体を何とか起こして、カーテンを開けた。朝日が目に刺さる。窓から目を逸らしながら、また瞬きを繰り返した。
サイドテーブルに置いてあった携帯を取り上げて、ベッドを降りる。床に積んだ参考書の類を避けながらドアの方へ向かいつつ、携帯はジャージのポケットに突っ込んだ。
“リショウ”
部屋を出てドアを閉めると、カタカナで書かれたドアプレートが小さく音を立てた。それを一瞥してから、階段を下りていく。
「おはよ」
「おはよう、吏生!」
ダイニングのドアを開いて、朝の挨拶。楽しそうな母さんの返事にキッチンの方を向けば、青いエプロン姿の母さんが、俺を見て更に楽しそうに笑った。
エプロンの下の服装は、灰色の七分袖Tシャツに、大きめのポケットがついた黒いカーゴパンツ。携帯についた白い犬のストラップが、カーゴパンツのポケットからはみ出しているのが見える。
「吏生、寝癖! 面白いことになってるよ」
「……あとで直すよ」
手櫛で取り繕ってみるも、母さんは相変わらずくすくすと笑う。肩まで伸びた癖のある黒い髪が、母さんの笑い声に合わせて揺れる。よほど面白いらしい。
「朝飯、何?」
「ふっふっふ、ものすごく気合を入れたよ! 見てみたまえよ、吏生!」
母さんはそう言って、何故かやたら自信満々な様子でダイニングテーブルを指さす。覗き込むと同時に、顔が引きつるのがわかった。
「何でエビフライ?」
「今日は吏生の嫌いなものにしてやろうと思って! どうだい?」
「どうだい? じゃねーよ、朝から揚げ物って、しかも揚げたてって!」
気合を入れる場所が間違っている。
その気合は、ぜひとも俺の好きなものを作るときに発揮してほしかった。
「嫌がらせに全力すぎるだろ!」
「そうだね。九割方、嫌がらせだね」
「否定もしないっていう!」
「残りの一割は遊び心とでも言っておこう」
「一厘くらいでもいいから俺のためを思え!」
けらけらと楽しそうな母さんの様子に溜息をついてから、テーブルの上のエビフライを睨む。
「仕方ない、マヨネーズに浸けて食ってやる。どっぷり浸けて食ってやる」
「マヨネーズを付ける、ではないんだね」
「そんな程度で味が誤魔化せるか! マヨネーズのおまけにエビがついてるくらいじゃないと食えないね!」
そんなやり取りをしながら席に着こうとしたところで、ふと気付く。いつもはすでに目の前に座っているはずの父さんがいない。
「あれ、父さんは?」
「あっち」
呆れたように笑いながら、母さんがリビングの方を指さす。
近付いてみると、ソファに座って一心不乱に新聞を読ん……でいると見せかけて、黒いパジャマ姿のまま盛大に居眠りをこいている父さんの姿が、そこにはあった。
「……起こした方がいいかな」
「いや、別にいいんじゃないかな。腹が減れば起きるだろうからね」
嘲笑するでもなく、呆れ果てるでもなく、母さんはそう言って笑った。
そして外したエプロンをダイニングの椅子に掛け、流れるように席に着いて手を合わせたかと思えば、いただきます、などと言って真っ先に朝食を食べ始めるという暴挙。
さすがとしか言えない。
「なら俺も食うか」
「どうぞどうぞ、お食べ」
「いただきまーす」
目の前の食事に向かって手を合わせて、味噌汁を一口。
そんなタイミングで、リビングの父さんが飛び起きた。
「うおっ、寝てた!」
「むっ、げほげほっ」
「あ、おはよう父さん。もう朝御飯は食べてるよ」
「何ィ!?」
新聞をソファに捨て置いた父さんが、慌ただしく俺の向かいに座る。それから、父さんの突然の大声に驚いてむせ込んでいる俺を見て、不思議そうに首を傾げた。
「どうした、吏生」
「げほげほっ! おま、げほっ……急に大声出すから!」
「え、俺のせい? あっははは、わーるいわるい!」
絶対に悪いなんて思っていない。
睨むように父さんの方を見れば、ガシガシと頭を掻く父さんの姿がある。癖が強いらしい父さんの黒い短髪は、寝癖で鳥の巣のような状態になっていた。
「しかしお前も放っとくなんてひどいぞ、起こせよ!」
「母さんが起こさなくていいって言ったから」
「おい母さん、テメエ」
「ごめん。今日の晩御飯はカレーにするから許してくれないかな?」
「愛してる!」
「うん、知ってる」
そんな両親のやり取りを聞きながら、思わず深い溜息を吐いた。
昔から、うちの両親はこんな感じだ。
仲がいいのはいいことだ、とは思う。夫婦仲が悪くて殺伐としている家庭に比べれば、この家庭は随分と恵まれていると思う。
けれど、息子の前で憚りもせずラブラブするのはいただけない……と思う。
「ああ、そういえば吏生」
「ん?」
心の奥でげんなりしていたら、母さんが声をかけてきた。
エビフライをマヨネーズにどっぷり浸けながら振り向けば、母さんは小さく首を傾げながら口を開いた。
「今日は何時頃に帰ってくるのかな?」
「あー……別に、居残りする予定もないから早く帰ってくるけど」
「ああ、ならよかった。じゃあ、吏生が帰ってきたら買い物に行くことにするよ」
「おお、わかった」
返事をしながら、マヨネーズまみれのエビフライを一口。全身に鳥肌が立つような錯覚を覚えたが、何とか噛み砕いて飲み込んだ。
「よ、よし、この感じなら行ける」
「今日はマヨネーズの消費が大変なことだなぁ」
「母さんが妙な遊び心を発揮するからだ。なあ、父さんもそう思うだろ」
「うーん、どっちもどっちだと思うぞ!」
楽しそうに笑う母さんと一緒に、父さんも似たような顔で笑う。
その様子につられて、俺の顔も緩んだ。
本当にもう、この夫婦は何故こうも似ているんだろうか。
***
さて、朝食を終えて、午前七時前。
リビングの方から聞こえてくる情報番組の音声を聞きながら、歯を磨く現在。
「吏生ー、かに座は最下位だってよー」
占いを見ていたらしい父さんが、俺に向かって声をかけてくる。
一瞬むせそうになって、慌てて口の中をゆすいでから、振り向いた。
「ああ!? どういうことだよ、昨日は一位だったじゃねーか!」
「父さんに当たられても困るぜ」
別に、占いをものすごく信じるわけではない。
だがしかし、今朝すでに『母さんに朝食で嫌がらせをされる』という不運に見舞われていることによって、若干信憑性が増してしまっているのが嫌なところだ。
これで占いの結果が良ければ、ここからの巻き返しに期待、となるのだが。
「マジかよ、今日はもう順風満帆に生きていける気がしない。もう帰りたい」
「どこにだよ、まだ一歩も外に出てないだろうが。せめて一歩出てから言えっての」
俺の愚痴に、父さんはゲラゲラと笑いながらきっちりとツッコミを入れる。
溜息をついてから、水で顔を洗う。冷たさが身に染みて、ようやく目が覚めたような気がした。
顔を拭いてから、リビングの方を覗いてみた。父さんはソファに座ってテレビを見ている。
流れでキッチンの方を見たら、母さんが食器の後片付けをしていた。
「吏生、そろそろ準備したほうがいいんじゃないかな?」
ふと、俺に気付いた母さんが手を止めて、顔を上げた。テレビの方を向いていた父さんも、母さんの声でこちらを向いた。
「今から着替えてくる」
「そうだね、行っておいで」
にっこりと笑う母さんの顔を見てから、階段を上がる。カタカナのドアプレートに視線を向けてから、ドアを開いた。
開けたカーテンの向こう側は、やたらといい天気である。夏休みが近いことを実感して、余計に学校へ行くのが面倒になる。
「かったるいなぁ」
溜息を一つ吐いてから、クローゼットを開けた。
***
高校の制服に着替え終えて、カバンの中身を確かめた、午前七時二十分。
まあ、教科書の類はいつもロッカーに入れっぱなしにしているので、カバンの中身は筆記用具と財布、それから家の鍵くらいのものだ。
「荷物よし、……っと、危ない、忘れるところだった」
先ほど脱ぎ捨てたジャージのポケットを探ると、やはり出てきた携帯。それを制服の黒いズボンのポケットに突っ込んでから、カバンを担いで部屋を出る。
「父さん、忘れ物はない?」
「ああ、大丈夫!」
階段を下りたところで、玄関に父さんと母さんがいることに気付く。そろそろ父さんが出発するらしい。
黒いハイネックに白っぽいベストを羽織った父さんは、白いニッカポッカの裾を足首に巻き付けながら、黒い安全靴を履いている。
その様子を、母さんが父さんの背中側から見守っていた。
「親方さんにご迷惑をかけないように」
「わかってる」
「あと、あまり無茶苦茶なことはしないように」
「任せとけって」
そんなやり取りをしているところに顔を出せば、先に気付いた父さんが俺を見た。
「じゃあ、行ってくるぜ!」
「行ってらっしゃい」
「あ、父さん待って」
玄関のドアに手をかけた父さんに、待ったをかける。きょとんとした顔でこっちを振り向く母さんの横をすり抜け、玄関を下りて白いスニーカーを履く。
「途中まで一緒に行こう」
そう言ったら、父さんは何故か感動したような顔をして、わざとらしく涙をぬぐう真似をしてみせた。
「吏生お前……いい男に育ったなぁ」
「え、何だよキモい」
「キモいって言うな」
思わずドン引きしたら、鮮やかなツッコミが返ってきた。
「じゃあ母さん、行ってきます」
「ああ、行ってらっしゃい。二人とも気を付けて行くんだよ」
玄関のドアを開ける父さんの後に続いて、家を出る。
しばらく歩いて振り返ったら、母さんがドアの前で小さく手を振っていた。
七月十二日、いつもとそれほど変わらない朝。
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