三、すべてが始まった日
時間は少しだけさかのぼります。
それはある森の、ある場所。
この物語が始まるきっかけとなった、ある出会いの物語。
***
街から逃げ出した青年は、森を進んでいきました。
眩む目をこすって、力の入らない体を引きずるように、歩きました。
“今はとにかく、できるだけ遠くへ逃げよう”
青年はその一心で、痛みすら抑え込んで、歩を進めました。
そしてしばらく進んだ辺りで、青年は視界がぐにゃりと曲がるような感覚を覚えました。
『……っ、なんだ、これ』
耐え切れずそこに倒れ込むと、お腹の辺りがどくどくと脈打つのを感じました。
青年はゆるゆると視線を動かして、自分のお腹の辺りを見ました。
草の一部が、じわじわと赤くなっていくのが見えました。
『……はぁっ……んだよ……こんなところで、終わるのかよ』
息も絶え絶えに、青年は起き上がろうと腕に力を込めました。
けれど、どうしても力が入りません。どうしても、起き上がることができません。
『……んだよ』
吐き捨てるように呟いて、青年は目を閉じました。
何故だか、これまで巡ってきた国の光景が脳裏をよぎっていきます。
何故だか、これまで出会ったいろんな人々の顔が脳裏をよぎっていきます。
何故だか、憎くてたまらない生まれ故郷の光景が、脳裏をよぎっていきます。
顔がはっきりとしない両親が、幼い自分を呼ぶ様子が、脳裏をよぎっていきます。
『……くそ』
青年は悪態をつきながら、いよいよ意識を手放そうとしました。
その時、どこからか、がさがさと草を踏む足音が聞こえてきました。
“追手か?”
青年はもう一度、腕に力を込めました。
けれど、青年の体はもうほとんど動きませんでした。
やがて、足音は青年のすぐ傍で止まりました。
“ああ、終わるのか”
ぼんやりとそんなことを考えながら、青年はうっすらと目を開けました。
視界にうつったのは、黒いブーツでした。
『やあ、ずいぶんと手酷くやられたようだね』
聞こえてきた声は、少女とも女性ともつかないものでした。
少し視線を上げると、ところどころに擦り傷がついた黒いズボンが見えました。
『……誰、だ?』
絞り出すように、青年は言いました。
どうやら、相手は兵士ではなさそうです。
黒いズボンの上に、少しよれた灰色の上衣が見えます。
けれどその背中には、その人の体躯には不釣り合いなほど大きな剣が担がれていました。
『君を迎えに来たんだよ』
その人は、青年に向かって言いました。
少女とも女性ともつかない、けれど穏やかな声でした。
『迎え……?』
かすれた声で、青年は尋ねました。
もう音にすらならない青年の声が、それでも聞こえたのでしょうか。
その人は青年の傍にしゃがみ込むと、語りかけるように言いました。
『ああ、言っておくがあの世からではないよ』
『……』
『死神、という表現については、あながち間違ってはいないけれど』
『……』
『まあ、しかし私は神なんて大それたものじゃない。名乗るのもおこがましいよ』
その人は少しばかり楽しそうに、そんなことを言いました。
青年はその言葉を聞きながら、うとうとと目を閉じかけました。
『それに、厳密に言えば来たのは私じゃない。君の方さ』
『……?』
『呼んだのは私で間違いないけれどね。でもよかった。ちゃんと君を呼ぶことができて』
その人はそう言うと、青年のすぐ傍に座りました。
青年はその様子を視界の隅に捉えてから、そっと目を閉じようとしました。
『さて、どうやら見るところ、寿命が尽きる前に体の時間が止まったようだ』
その人の言葉に、青年は閉じかけていた目を開きました。
言われてみれば確かに、出血が止まっていることに気付きました。
どくどくと脈打っていたお腹の辺りが、今はひどく静かなことに気付きました。
『少しだけ、昔話を聞いてくれるかい』
『……』
『聞いたうえで、決めてほしいことがあるんだ』
そう言って、その人はぽつりぽつりと話し始めました。
その昔、黒い髪を理由に『呪われた子』と呼ばれ、殺されかけたこと。
幼いうちに、目の前で両親を亡くしたこと。
怒りに任せて、生まれ故郷だったと思われる村を壊滅に追いやったこと。
それから、生きていける場所を求めて旅に出たこと。
その話は青年にとって、他人事とは思えないものでした。
『それから私は、この場所へ迷い込んでね。いろいろあって、今はここで生きているよ』
『……』
『もう、何年ほど経ったかな。それももう、今となっては思い出せないな』
『……』
『黒かった髪は、いつの間にか真っ白さ。どうやら、この場所の影響らしいけれど』
ひとしきり、一人で語り尽くしたその人は、おもむろに立ち上がりました。
青年はその様子を目で追いました。
一瞬見えた顔は、どうやら自分と似た年代の女性のように見えました。
『つまり私が何を言いたいかと言うとね』
その人の足が、青年の方を向きました。
青年はその人の足を見て、少しだけ視線を上げました。
『君と私は、とても似ているということ』
『……』
『そして、私に当てはまったことは、君にも当てはまる可能性があるということ』
青年の方を向いたその人は、続けて言いました。
『いいかい、青年。君の生きてきた世界なんて、たくさんある世界の一つでしかない』
『……?』
『“ここ”にはもっと、いろんな世界があるんだよ』
『……』
『だから、君の生きやすい世界もきっとある』
その言葉に、青年はゆっくりと目をしばたきました。
そして、ゆっくりと腕に力を込めました。
『……本当、かよ』
絞り出すような声で、青年が言いました。
その人はその言葉を聞いて、小さく笑いました。
『本当さ』
『……嘘くせえ』
『失礼なことを言うね』
ゆっくりと体を起こして、青年はようやく、正面からその人の顔を見ました。
その人は、穏やかそうな、優しそうな顔をした、白い髪の女の人でした。
『けれど、すべては君の決断次第』
青年に一度背を向けて、その女の人は続けました。
『君が、ここで終わることをよしとするならば、私は君を見送ろう』
『……』
『そうでないのならば、私は全力で君を助けるし、君の生きやすい世界も探してみせる』
そう言って、女の人が青年を振り返りました。
『どうだい?』
女の人の言葉に、青年は考えました。
“この女は、何を言っているんだろうか”
“俺の生きやすい世界なんて、そんなもの”
“ある、はずが”
考えながら、青年は女の人の顔を見ました。
女の人はふわりと微笑むと、青年に向かってそっと、手を差し伸べました。
『一緒に行くかい?』
“一緒に”
その言葉に、青年はわずかに息をのみました。
これまで生きてきた中で、その言葉を向けられたのは初めてでした。
じわじわと、心の奥が温かくなっていくのを感じました。
“この女は、何を言っているんだろうか”
そう思いながら、青年は自分の視界が歪んでいくのを感じました。
歪む視界の中で、女の人が笑みを深めたのが見えました。
『一緒に行こう』
再び紡がれた言葉に、青年は迷うことなく女の人の手を取りました。
握りしめられた手を見て、女の人は目をしばたかせた後、もう一度笑いました。
『……ああ、一緒に行く』
女の人の手を握りしめて、青年は目を閉じました。
閉じた目から、涙が一粒、また一粒、落ちていくのがわかりました。
***
この出会いこそが、すべての始まりでした。
ある者にとっては、大切なものを失うきっかけになった出来事。
ある者にとっては、幸せを手に入れるきっかけになった出来事。
ある者にとっては、物の見方が変わるきっかけになった出来事。
そして、この物語で最も重要なある者にとっては、存在を得るきっかけになった出来事です。
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