二、ある旅人が消えた日
もう一つの始まりは、それからもうしばらく後のことです。
また別のある世界、ある国の、ある街で起きた、小さな事件。
***
その青年は、ある小さな町で生まれました。
生まれながらに持っていた黒髪を指し、町の人々は彼を『悪魔の子』と呼びました。
彼の両親が早死にすると、町の人々はいよいよ彼を虐げ始めました。
直接的な迫害はありませんでしたが、陰でこそこそといろいろな噂を立てられました。
『悪魔の子なんだって』
『ご両親も、もう自分には必要ないからって殺しちゃったんだって』
『怖いね』
『しーっ、悪魔に聞こえるよ』
『悪魔だからね、地獄耳なんだって』
『変なこと言ってるのが聞こえたら、殺されちゃうよ』
それこそ、あることないこと好き勝手な噂が立てられました。
ある時は、何もしていないのに怯えられ、逃げられました。
またある時は、目が合うや否や避けられました。
『怖いね』
『本当だね、怖いね』
『見た? すごく怖い目をしていたよ』
そうして後ろ指を差される生活にうんざりした彼は、やがて旅に出ました。
嫌悪の対象にされた黒髪は、できるだけ短く切って、深い帽子で隠しました。
町の人々に呼ばれていた名前も、過去を捨てるために捨てました。
そうして、国境を越えたり、森を抜けたり、山を越えたり。
いろんな国や街を渡り歩いて、長い旅路を歩いて、その日その街に辿り着きました。
***
『なあ、宿屋はどこかな』
『兄ちゃん、旅の人かい?』
『ああ、まあね』
『そいつはご苦労様! 森は強い魔物が多かったろう』
『ははは、たいしたことでもないさ』
青年はそんなことを言いながら、腰に差した剣を軽く叩いて見せました。
深くかぶった茶色い帽子の下で、黒い目が人懐こそうに細められます。
『兄ちゃん、強いんだねぇ。ああ、宿屋はこっちだよ。案内しよう』
『ああ、助かるよ』
感謝を述べると、青年は街の人に続いて歩き出しました。
こつん、黒い靴が地面を蹴ります。
茶色い外套が翻り、暗い緑色のズボンと、薄く汚れた白い上衣が見えました。
『ここは、活気にあふれた街だな』
『ああ、そうだろう! この街は商人が多くてね。いろんな国から物が集まるんだよ』
『へえ、そいつは楽しそうだ』
『兄ちゃん、しばらくこの街に滞在するのかい?』
『そのつもりだよ』
『そうか! なら、朝になったらバザールに出掛けてみるといい。面白いぞ!』
『へえ』
楽しそうに語られる言葉を聞きながら、青年はきょろきょろと辺りを見回しました。
するとその時、後ろから駆けてきた小さな男の子が、青年の背中にぶつかりました。
『んごっ!』
『兄ちゃん、大丈夫かい!』
真正面から地面に倒れ込んだ青年は、顔をさすりながら起き上がりました。
振り向くと、小さな男の子が心配そうに青年の顔を覗き込みました。
よく見てみると、その男の子は高級そうな服に身を包んでいました。
『ご、ごめんなさい、お兄ちゃん……大丈夫?』
『ああ、大丈夫、かすり傷だよ』
青年は鼻を押さえながらそう言うと、男の子の手を取って立ち上がらせてあげました。
その瞬間、周りの人々が、ざわざわと騒ぎ始めました。
『そっちこそ、怪我はないか?』
『うん、大丈夫! ありがとう、お兄ちゃん!』
男の子はそう言うと、またパタパタと走っていきました。
その背中を見送っていると、先ほどの街の人が、青年に向かって言いました。
『あんた、すぐにこの街から出たほうがいい!』
『へ?』
『早く、軍の奴らに見つかる前に――』
街の人が言い終わる前に、兵士らしき人たちが青年を取り囲みました。
青年は唖然とした顔で周囲を見回し、不思議そうに尋ねました。
『何だよ、何か用か?』
『何だと?』
『へ、兵士さん! その兄ちゃんはさっき街に着いたばかりの旅の人で……!』
街の人が言うのを一瞥してから、兵士はもう一度青年の方を向きました。
『なるほど。運がなかったな、旅の者』
首を傾げる青年に、兵士は銃を向けたまま、言いました。
『この街の法を知らなかったのだろうが、そんなことは関係ない』
『法?』
『この街では、黒い髪の人間が王族や貴族の人間に触れることは死罪だ』
兵士の言葉に、青年はハッとして頭に手を添えました。
倒れた拍子にかぶっていた帽子が脱げてしまったことに、青年は気付きました。
『また、この髪が原因かよ……』
ぐしゃり、自分の髪の毛をつかんで、青年は忌々しげに呟きました。
『悪く思うなよ。恨むなら黒い髪で生まれた自分を恨むんだな』
兵士は青年に向かって、嘲笑するように言いました。
青年が兵士を睨み上げると、兵士はその様子を見て鼻で笑いました。
『鬼の子め』
その言葉は、青年にとって『禁句』とも言えるものでした。
視界が真っ赤になるような感覚がして、青年は強く拳を握り締めました。
『てめえ、ふざけんじゃねえ!』
衝動的に、青年は目の前にいた兵士に殴り掛かりました。
それと同時に、他の兵士たちが青年を取り押さえ、がっちりと手錠をかけました。
『連行しろ!』
『はっ!』
『離せ! 離せよ、ふざけんな!』
両手を手錠で繋がれた状態で、それでも青年は抵抗しました。
目の前の兵士に頭突きをし、後ろの兵士に肘鉄をして、強く抵抗しました。
『貴様っ、往生際の悪っ……んがっ!』
『大丈夫か!』
『い、石頭め!』
街の人々が見守る中、青年はとうとう兵士を振り払い、走り出しました。
『おっさん、悪い! また今度!』
『お、おおう』
道案内をしてくれた街の人にそう叫びながら、青年の後ろ姿が遠ざかっていきます。
『逃がすな! 撃て! 撃てーっ!』
兵士の叫び声の後に、乾いた銃声が数発。
街の人々は口々に悲鳴を上げ、子供の目を塞ぎ、自身も目を閉じました。
『負けるか、くそ!』
倒れそうになるのをこらえ、青年は街の外を目指しました。
青年が歩いた後には、赤い跡が点々と落ちていました。
***
兵士の数人は、すぐに血の跡をたどって、青年の後を追いました。
他の数人は、すぐに城へ戻って、国王様に青年のことを報告しました。
国王様は話を聞くと、兵士たちに命じました。
『すぐにその旅人を探し出し、処刑せよ!』
兵士たちは、隊を成して森へと出かけていきました。
その日のうちに、黒髪の青年に関する根も葉もない噂が広がりました。
『黒髪の旅人が、貴族のご子息とぶつかったそうだ』
『謝りもせずに逃げて行ったと聞いたよ』
『やはり黒い髪は鬼の子の証か』
事の次第を見ていた街の人々は、すぐに訂正しました。
『貴族のご子息が、黒髪の旅人にぶつかったんだ』
『旅人は貴族のご子息を助け起こしていた』
『彼は、きっと優しい人間だよ』
それでも、青年に関する悪い噂ばかりが広がっていきました。
日付が変わって、もう一度日が昇りきる頃には、街中の人が青年のことを知りました。
そんな頃に、森へ出かけていた兵士たちが少しずつ戻ってきました。
入れ替わるように、また何人かの兵士が森へ出かけていきました。
『もしかして、あれだけ捜して見つからないのか?』
『いったいどうやって逃げ切ったんだろう?』
街の人々の噂は、そんな風に変わっていきました。
やがて、出かけていく兵士がいなくなり、静かに捜索は打ち切られました。
『もしかして、本当に鬼の子だったんじゃないのか』
青年について、街の人々はまことしやかにそう語りました。
***
捜索が打ち切られた翌日、最初に青年を案内した街の人が、森へ出かけていきました。
青年が落とした血の跡を辿り、森の奥へと歩いていきます。
『あれ、おかしいな』
しばらく進んだところで、街の人は首を傾げました。
青年が落とした血の跡は、ある場所で忽然と途絶えていたのです。
『神隠しにでもあったのかな』
街の人は、しばらくきょろきょろと辺りを見回していました。
けれど、やがて諦めて、街へと帰っていきました。
血の跡が途切れた場所、そこに一つだけ、不自然な半円形の血の跡があったことには、誰も気付きませんでした。
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