弐、世界の外側
一、対面
現在地は、依然として森の中。
黒い虎の背に乗せられたまま、出来得る限り五感を働かせて、森の様子を観察することにした。
見える範囲はやはり樹がうっそうと茂っていて、基本的に視界が悪い。光というものがどこからも届いておらず、どこを向いても仄暗い。
時折、森の中を何かが移動していくようなガサガサという音が聞こえてくる。一度だけ視界に捉えることができたのは、何やら鹿のような生き物だった。
におい、は……山の中のにおい、という感じか。ものすごく変わったにおいがするということもない。強いて言えば、今いる場所が場所なので、獣臭い。
「なあ」
「何だ」
前を歩くアシュレイに声をかけたら、案外すぐに返事が戻ってきた。心の奥で多少安堵しつつ、口を開く。
「ここは、いったい何なんだ?」
何よりも真っ先に抱いた疑問。それを口に出すと、アシュレイは一度こちらを振り向いてから、もう一度前を向いた。
「……正直、どこまでなら話していいのか、私では判断がつかない。詳しい話は、これから会う男に聞いた方がいいんだが」
そう言いながら、前を歩くアシュレイは腕を組む。そうしてしばらく考え込んで、やがて組んでいた腕を解く。
「まあ、簡潔に言ってしまえば」
右手の人差し指を立てて、こちらを振り向いて、アシュレイは言った。
「ここは『外側』だ」
数秒、沈黙が二人の間を流れる。
「そとがわ」
「そう、『外側』」
「……そとがわ」
言葉の意味をうまく理解できず、首を傾げる。そんな俺の様子を見たアシュレイは、やがて小さく溜息を吐き、諦めたように前を向いた。
「やっぱりあいつに詳しく話を聞いた方がいい」
「あいつって?」
「責任者だ」
「責任者」
「そろそろ着くぞ」
その言葉から数歩で、唐突に辺りが明るくなった。眩しさに思わず目を閉じてから、ゆっくりと目を開けた。
「ここだ」
前方で、アシュレイが振り返るのが見えた。
その向こうに視線を移せば、見えたのは巨大な白い塔。周りに群生している樹と同様、視線を上げてもてっぺんが見えない。
「あまり顔を上げると落ちるぞ」
「うおっつ!」
「遅かったか」
視線を上げ過ぎて、黒い虎の背中から落下。また背中を打ち付けたが、今度は起き上がる前に、そのまま目を開けてみた。
樹のてっぺんも、塔のてっぺんもよく見えないが、空が明るいことだけは分かった。
「大丈夫か?」
俺の方を見下ろしながら、アシュレイが手を差し伸べる。キャスケットの下、わずかに見えた眉間から左目の下にかけて、何やら傷があるのが確認できた。
差し伸べられた手をつかんだら、思ったより強い力で引き起こされる。若干バランスを崩しかけて、なんとか踏み止まった。
「世話の焼けるガキだな」
「なんかすみません」
「いや、いい。……シュバルツ、小屋へ戻っていろ」
アシュレイの言葉に、黒い虎は一声にゃあと鳴いて、のそのそと歩き出す。それから塔の方を向いたアシュレイは、小さく息を吐いてから、言った。
「さて、入るぞ」
「あ、ああ」
歩き出したアシュレイの背中を追って、俺も一歩を踏み出した。
***
「まずはお前を責任者のところへ連れて行く」
つかつかと塔の中を進んでいくアシュレイの背中を追いながら、視線を巡らせる。
外観と同様、床も壁も天井も白い。なんとなく、病院とか学校を彷彿とさせるような内装だ。
ガラス窓から部屋の中を覗き込むと、どうやら食堂か何かだったようで、ハンバーグを食べている人がいるのが見えた。
美味そうだなぁ、とか思ったら、ぐきゅるるる、と腹が音を立てたのが聞こえた。
「腹でも減ったか」
「あ、……うん、少し」
「しばらく耐えろ。あいつの話が終われば飯は出す」
「あ、はい」
いまだに小さく音を立てる腹をさすって、アシュレイの後ろに続く。
「アシュレイ部長、お疲れ様です!」
「ああ、お疲れ」
「部長、報告したいことが」
「わかった、こいつを届けてから聞きに行く」
「わかりました、お待ちしておりますね」
時折、すれ違う人がアシュレイに挨拶をしていく。部長、ということは、こいつは意外とえらいやつなのか。
それと、すれ違う人の観察をして気付く。ここにいる人は、どうやら全員が真っ白な髪をしているようだ。
「あ、部長。後で暇ができたら、武器庫に来てもらってもいいかな」
前方から歩いてきた男が、アシュレイに気付いて声をかけた。
やはり真っ白な髪を持つその人は、カーキ色のつなぎを上だけ脱ぎ、袖の部分を腰に巻き付けて結んでいる。白いTシャツと軍手は、油か何かで黒く汚れて見えた。
「少し遅くなっても構わないか?」
「いつでもいいよ」
「わかった」
そんな会話を交わし、その人は軽く手を挙げてアシュレイとすれ違う。安全靴らしい黒い靴から、ごつごつと重そうな足音がした。すれ違い様に俺と目が合ったその人は、空色の目を細めて笑って見せる。
その後ろ姿を見送りながら後ろを向いてしまったところで、前を歩いていたアシュレイとぶつかった。
「何だ」
「悪い、少し余所見をしてた」
こちらを振り向いたアシュレイは、俺の方を見上げながら小さく首を傾げる。
「気になるものでもあったか?」
「いや、大丈夫」
「そうか」
納得したようにそう言うと、アシュレイは目の前にある操作パネルのようなものに触れた。様子を見ていると、少し前方に丸い床が下りてくる。
降りてきた床が完全に廊下と同じ高さになったところで、もしやこれはエレベーターなのでは、と思い当たった。しかし扉はないのか。安全性は大丈夫なのか。
「これで上へ行く。乗れ」
「あ、はい」
エレベーターに乗り込むアシュレイに続いて、足を乗せた。俺が乗り込んだことを確認したアシュレイは、今度は丸い床に設置された操作パネルに触れる。
がたん、と小さく音を立ててから、エレベーターがゆっくりと上昇を始めた。
***
「ここだ」
アシュレイに案内されて辿り着いたのは、『支部長室』と書かれたプレートがぶら下がるドアの前。文字が読める、という事実に疑問を抱きつつ、アシュレイの横顔を見た。
「まあ、気兼ねするような相手ではないから、気負う必要はない」
「そ、そうなのか……支部長って書いてあるけど」
「肩書きはな。対応としては『近所の兄ちゃん』くらいでいい」
「軽い」
本当にそんな感じでいいのか、なんてツッコむ間もなく、アシュレイがこんこんとドアを叩いた。
「失礼する。『遺失物』を持ち帰った」
ドアの向こうは、静かだ。いつまで経っても、何も動く気配がない。
思わず首を傾げると、アシュレイは迷うことなくドアを開け放った。
応接セットや本棚、さらに執務用と思われる机があるその部屋は、全体的に白いものが多く、がらんとしていて人の気配がない。
きょろきょろと部屋の中を見回していたら、アシュレイが隣で深く溜息を吐いた。
「……またあいつは、勝手なことを」
その言葉に振り向くと、アシュレイも同時に俺の方を向く。
「悪いが、ここでしばらく待っていてくれないか。すぐに責任者をここへ来させる」
「あ、ああ、わかった」
「適当に座っていてくれ」
ごくさりげなく部屋に押し入れられたかと思えば、パタンとドアが閉まり、その向こうから一瞬で人の気配が消えた。
小さく溜息を吐きつつ、応接セットの白いソファに腰を下ろし、背もたれに寄り掛かる。視界に移った天井は、やっぱり白かった。
「……そとがわ……外側、か」
アシュレイの言葉を思い出して、頭を抱えるように両手で視界を覆った。
「何の外側だよ。どこを内側とした時の外側だよ」
小声でぶつぶつとそんなことを言いながら、何とか考えをまとめようとする。
けれどやっぱり考えれば考えるほど考えはまとまらず、頭の中でぐるぐると渦を巻くばかり。
考えるのを諦めたとき、ふと母さんの顔が頭に浮かんだ。
今は、何時頃だろうか。母さんはまだ俺のことを待っているんじゃないだろうか。待ちくたびれて買い物に出かけたかな。
もしかしたら今頃、心配して。
「……心配は、してないか」
いつもの、悪戯っぽく笑う母さんの顔を思い出した。
あの母さんが、俺の帰りが多少遅くなった程度で心配するわけがないのだ。そんなことを自分で考えて、少しだけ虚しくなった。
「はぁー……」
深く息を吐いてから、目を覆っていた手をどける。
目の前に、俺の顔を覗き込む金色の両目と、逆さまの顔があった。
「うおっ!?」
驚いて体を起こし、振り返る。
俺の様子を見ていたその顔、いや、その男は、やがて楽しそうに笑い出した。
「失敬。思った以上にくつろいでいるなぁと思ってつい、な」
「は、はぁ」
「いや、結構、結構。なかなか大物そうじゃあないか」
依然として楽しそうに笑いながら、その男は執務机の方へ移動する。
雲のような模様が描かれた白い着流しの袖と、一つに結われた長い髪が揺れ、下駄がコロンと音を立てる。
足元までありそうなほど長い白髪を見て、思わず素麺を連想してしまったのは、腹が減っているからだろうか。
「改めて、初めまして。俺の名前はレスティオール」
「……レスティオール」
「この施設では一応、支部長を名乗らせてもらっている。とは言え、実質的に支部長らしい業務は、ほとんど副支部長に任せている状態だがな」
はっはっは、などと高らかに笑いながら、その男は何やらバインダーのようなものを取り上げた。それから俺の向かいに移動してきて、ソファに腰を下ろす。
「さて、早速だが、君にはこれから俺の質問に答えてもらう」
「は、はい」
「難しいことは聞かないさ。分からないことは分からないと言ってくれていい」
「はい」
「ただし」
穏やかな笑顔のまま、その男、レスティオールは言った。
「分かることは、例え答えたくなくても答えるように」
威圧感などは全くない、どこまでも穏やかな口調。なのに、心の奥底を見透かされるような居心地の悪さを覚えた。本能が、小さく警鐘を鳴らすのが聞こえる。
この男には、決して逆らってはいけない。
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