磯姫
小谷杏子
緑風の章 磯姫〜イソヒメ〜
一、極めし栄華も海に果てる
まるで、水に立つようだ。波の動きに合わせて体が揺らめく。勝利の声を上げる者、嘆き叫ぶ者――それらが広大な海に響き渡る。
「――どこへ」
懐で顔を覗かせる子――清く麗しき哀れな子を見やり、彼女は迂闊にも玉のような雫を落とした。
「私をどこへ連れてゆくのです」
子は静かに問う。その毅然とした態度に、女は洟を啜り顔を上げた。
「我が君……愛しい君に相応しい地へとゆくのです。水の中には都も御座います。そこへ、皆で参るのです」
敗因はなんだ。優勢ではなかったか。一体、何故こうなったのか。
悔やみと恨みに唇を噛み、彼女は幼帝と共に船から身を投げた。辺りには水に飲まれた上等な着物や艶めかしい髪が揺らめいている。
「苦しい……息が、息ができない……」
水は冷たく、脅威である。潮に流れるまま、彼女は抱いた子の絶命を聞いた。辺りにはもがき苦しむ女たちの姿も。
「おのれ……源氏らには末代までの祟をもたらそうぞ。この恨み、
重みで沈む。深く。果てしなく。
彼らの怨念は儚くも海の泡となりゆく。暗く冷たい果てなき旅を迎えようと決意を固めて息絶えた。
***
早朝、六時。枕元に置いていた目覚まし時計が鳴る前に彼は目を覚ました。布団の中でしばらく蠢き、腕を伸ばしてスマートフォンを探り当てる。
夢の中で妙な報せを聞いた気がするのだ。寝ぼけ眼で画面を見れば、やはりトークアプリの通知があった。
『今日、そっちいきまーす!』と元気な文字が並んでいる。彼は長い溜息をつき、布団から這い出た。
「何時何分に着くのか分からん。正確な時間を教えろっての」
不満をそのまま文字にし、送り返す。すると数秒で返事が画面に現れた。
『
「チッ」
すかさず舌打ちし、脱衣場へ向かう。シャワーをサラッと浴び、汗や垢を落として清潔なシャツを身に纏う。ラフなスタイルが嫌いなわけではないが、気持ちが入らないので必要外はピシリと折り目のついた白シャツとスラックスを好む。作業を始めるにしても、そのスタイルは変わらない。
「
部屋の裏手にある蔵へ行き、彼はスマートフォンの画面に指を滑らせた。なんなら今から来ても良いくらいだが蔵の整理はしておきたい。用事を同時に済ませれば良いから、仁善はただ素っ気なく『今すぐ』と文字を打ち込んだ。
将海はものの数分で現れた。さすがは幼馴染。彼女は色素の薄い髪を掻き上げながら、家の裏手にある蔵へ迷わずやって来た。
「おっはよう!」
「はい、おはよう。で、今日は何?」
挨拶もそこそこに仁善は問う。彼は長い前髪を耳にかけて蔵の奥地へと足を伸ばしていた。それを将海は雛鳥のようについて行く。
「ゴールデンウィーク、暇かなーって思って」
「残念。仕事だ」
「嘘ばっかり。蔵の整理が忙しいだけでしょ。店はいつでも暇じゃないの」
軽々と言い当てられれば仁善も言い逃れは出来ない。木箱を一つ一つ開封しながら、彼は背後の将海に言った。
「要件を手短に」
「ゴールデンウィークに旅行! さあ、行こう!」
彼女は言われた通り短文で答えた。仁善の手がピタリと止まる。
「旅か……ちなみに、どこだ」
「ふっふーん。今回はね、ちょっと遠くまで行けるよ」
勿体ぶる。しかし、彼女がこう言っているということは行先が決まっていないということ。仁善は木箱を放り投げ、くるりと振り返った。将海を見る。あどけない彼女の表情をじっと見ながら、彼は「ふーん」と唸った。
「じゃあ、九州。
提案すると、将海は「よし!」と拳を握って嬉しそうに笑った。
***
出発は五月一日。十時発の新幹線を手配した。門司へは
将海が大学に進学してからというもの、こうした突発的な旅行は珍しくない。そもそも仁善は一人でもふらりと出掛けていた。そのせいか、彼が営む雑貨屋は「開かずの店」と近所で噂される始末である。とにかく店主が気まぐれなのだ。
「それにしても、なんで九州? 仁善が唐突なのは知ってるけど、今度はまたなんで」
行きの新幹線で将海はあれこれと食べ物を買い込み、おにぎりを頬張りながら問う。横では涼しい顔をした仁善が缶コーヒーを飲みながら、福岡県全域が載った地図を広げている。
「まあ、お前が持ちかけなくともいずれは行くつもりだったが。実は、最近にこんなものを蔵から見つけたんだよ」
そう言って仁善は、四泊五日の旅にはそぐわない小さめのボストンバッグから古めかしい木箱を取り出した。
「なあに、それ?」
「分からん。だから調べに行く」
「まあ、そうよね……ふむふむ、これはなかなか興味深い代物ですな」
将海はペットボトルのお茶をごくりと飲み干して木箱に手を伸ばす。しかし、仁善がそれを許さなかった。
「この中に、とある手紙がある。多分、父より上の世代が残したやつだろう。その中に『磯の女』とあった。さて、これについて文化人類学部現役生は何を思いつく」
「え、手掛かりが少ないんだけど。どんな脈絡で『磯の女』なのか……イメージとしては、なんだろ、海女さん? 伝説として挙げるなら人魚……あぁ、濡れ女って妖怪いたよね」
将海の真剣な返しに、仁善は満足げに頷いた。それから彼はコーヒーを飲み干してアイマスクを装着する。視界を遮断し、説明を続けた。
「つまり、海や水に関する何かだ。確かに、海女も思いつく。だが、今回は海女ではなく尼かもしれない」
「アマ違いですか」
おどけた調子で将海が問う。仁善は「揚げ足を取るな」とつまらなさそうに言った。
「あの骨董だらけの蔵から出てきたんだ。それに、朽ちた文からは『門司』とも書かれていたし、何より微細な妖力も感じた。これは調べるに値する」
「はあ……要は、仁善の興味とやらがむくむくしたわけだね。まったく、お金のかかる趣味だこと」
将海は呆れの笑いを投げた。そして彼女は思案するようにボソボソと紡ぐ。
「門司……磯の女……仁善が気にかけるということは妖怪絡み……なるほど、面白そう」
「調べは既に済ませてある。お前はこれでも読んでおけ」
そう言って彼は、アイマスクをずらしてバッグからプリントアウトした紙を引っ張り出した。抜かりない。将海は素直に黙々と目を通した。
福岡県北九州市門司区
その正体は、九州地域全般で相次ぐ河童の目撃に関係している。なんと、この海御前は河童の総帥とされるのだ。
「河童ぁ?」
将海は思わず声を上げた。横にいる仁善は眠っているのか反応はない。
「なんだ……どんな大物かと思えば」
しかし、将海は口をつぐんだ。河童というあまりにもメジャーな妖怪に落胆したものの、侮ってはいけない。続く文字を追いかける。
海御前とは河童の女総帥であり、彼女は元は壇ノ浦の戦いで敗れた平氏の猛将、平教経の奥方であるとされる。海に身を投げた平氏らは、後に海の妖怪として九州各地に現れている。女官は河童へ、また武者はカニ(ヘイケガニ)と化した。
この海御前は、五月五日の山青し水温む頃に手下の河童を放す。抱いた恨みは強いもので、源氏の縁ある者を水に引き込むように命じるのだ。
「はあー、なるほどねえ……でも、平家ってあんまりいいイメージないなあ。権力振りかざして贅沢してたんでしょ」
「要は戒めだ。平家物語然り、軍記物語然り。調子に乗るなってこと」
突然に脇から声が上がる。驚いて見ると、彼はアイマスクをしたまま。どんな表情か分からない。将海は小さな吐息を紙に落とした。
「まあ、栄えていると鼻が伸びるのは仕方がないよね」
「製薬会社社長令嬢の言葉とは思えないなー」
「いや、令嬢ったって、金持ちとは限らないし」
冷やかすような仁善の声に将海はむっと言い返す。
「権力がある者こそ、その使い方を学ばなくちゃいけないんだ。うちは無様に没落した平家みたいになりたくないもんね」
きっぱり言うと、彼女は仁善のアイマスクをさっと取り上げた。彼は目を細めて顔を歪める。
「……まあ、お前みたいに賢い人間ばかりじゃあない。ただ、身内の結束が固いのが平家だ。この海御前も言い伝え通りならばそうなんだろう。たかが河童、されど河童。侮ってかかると命取り」
アイマスクを奪い返し、仁善は気だるそうに言う。
「――祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり……儚いな。人ってのは馬鹿でいけない」
そう呟き、将海の不満げな顔を見ると彼は口の端をつりあげて小さく笑った。
「そうだ。先に言っておくが、レポートの手伝いはしない。現地まで一緒に行くだけだから、そのつもりで」
「なっ! ば、バレてた……」
将海は頬を赤らめて仁善から僅かに離れた。
「当たり前だ。俺の趣味にわざわざ付き合うってことはそういうことだと、お前が一年の時に学んでいる」
「くっ……この人でなし……」
将海は悔し紛れの暴言を呟いた。それを仁善はケラケラと笑い飛ばした。
門司港駅を抜けると、将海の機嫌は最高に跳ね上がった。
「うわお! 可愛い! 街が、可愛い!」
視界には煉瓦造りの建物と古いビル、新しいものもあるが、ノスタルジックな景観が広がっている。一方、仁善は「可愛い?」と首を傾げた。
「だって! ほら、すっごいレトロ! ハイカラ! あーいいわあ、こういう景色!」
「明治から既にあった建物ばかりだし、古いだけだろ」
素っ気なく言う。すると、将海は「その古式ゆかしいとこがいいんじゃない」とにこやかに振り返った。
「人力車あるよ! ね、人力車!」
「はいはい。とりあえず、ここから旅館まで行くから……」
「人力車! 乗るっ?」
道に停めてあるものを指差して、将海はキラキラと目を輝かせる。それに対し、仁善は冷たい目で返した。
「乗りません」
ピシャリと言い放てば、すかさず将海の肩が落ちた。
それから二人は、海辺に近い宿に一先ずの拠点を築いた。そこは広大な関門海峡が臨める場所で、この日は麗らかな晴天ゆえに水面は青々と波打っていた。
「きゃー! 見晴らし最高! いやだ、仁善くん、なんだか新婚旅行みたいね」
「お前が泊まるのは隣」
部屋ではしゃぐ将海を見向きもせず、仁善は部屋の真ん中で地図と木箱の中にある古めかしい紙を広げている。長い前髪を耳にかけて、仏頂面は何やら思案に暮れていた。
「向こうに見えるのが壇ノ浦。そしてこっち側が門司。源氏との戦いに敗れた平氏らは、この海に身を投げたわけだ。将海、近くに壇ノ浦の戦いを描いた壁画があるぞ」
親切に教えたつもりだったが、将海は海をバックに不貞腐れた顔を見せていた。
「どうした。お前、レポート書くために来たんだろう。だったらさっさと調べてこい」
「一緒に行こうよ」
「却下だ。拒否する」
「ケチ!」
しかし、仁善は涼しい顔でいる。将海はフンと鼻を鳴らし、荷物を抱えて部屋を出た。
「やれやれ……煩いのが消えたか」
仁善は湯のみに淹れた茶をすすりながら、地図とスマートフォンを睨む。早速周辺を見回っても良いのだが、さて、どこから回るか。
彼は地図と交通機関をきっちり調べあげてようやく立ち上がった。
ふと、窓の外を見やる。
海は静かで穏やかな波。眼下では多くの観光客が港町に集まっている。本当に河童が出るのかと怪しむほどの賑わいだ。
「……まあ、出たら出たで騒ぎになるしな」
自嘲気味に笑い、ボストンバッグを持ち上げる。広げたものを仕舞い、部屋を出る。しかし、その行く手は阻まれた。
「いらっしゃいませ、
壮年の仲居がにこやかな笑みを讃えて現れた。予想外のことに仁善は目を丸くしたが、すぐさま愛想をたっぷりとくっつけた笑みを浮かべる。
「ああ、これはどうも。仁科です。えぇと、部屋は空けることが多いかもしれませんが、食事には間に合うよう戻りますので、お構いなく」
穏やかに言い、彼は仲居の脇をすり抜けようと足を踏み出した。見送ってくれるのだろうと思っていた。しかし、
「ああ、仁科さま。あまり海へは近づかないようにお気をつけくださいね……この時期は人が海に攫われることがございますので」
「はあ……それは、なんだろう。もしかして河童、とか?」
おどけて言ってみる。すると、仲居は顔を強ばらせた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます