帰郷・9
やや遅めの朝を迎えた。
さすがに、最高神官の祈りはなかった。
前日の派手な祈りは、どうやら今日の埋め合わせもあったようだ。
エオルは、下に降りようとして……つい、妹の部屋の前で足を止めてしまった。
帰ってきた時には、すでに日は明けていた。ゆっくりお昼まで寝かせてあげようと思うのだが、何をしているものやら気になってしまう。
遠慮したとはいえ、大事な妹だ。気になるのも当然だろう。
だが、タイミングが悪く部屋の扉があいた。もう既に旅支度したサリサが現れた。
「い、いえ、たまたま通りがかっただけです」
まるで覗き見しようとしていたようではないか?
エオルはますますあやしいいいわけをしたが、サリサのほうは気にしていないようだった。
馬車の中でたっぷり睡眠は取っていたとはいえ、やややつれた顔をしている。それがまた、不思議とこの男を美しく見せるのだから、恐れ入る。
最高神官は、やはり普通の人ではない。
だが、彼自身、自分の不可思議な魅力に気がついているのか、いないのか……。時に似合わない言動をする。
「エオル、僕は帰ります」
「は?」
思わず拍子抜けである。
彼は、エリザを連れて帰るといって、勇んできたはずなのに。
「……だめなんですよ。本当に情けないというか……」
「エリザが何か?」
「いいえ、そうではなくて……僕は、やはりエリザを縛ってしまいそうで……」
――紫の石を拾わなかったこと。
それは、エリザの幸せを願う気持ちを踏みにじったようなものだ。
「そんなに気になるなら、拾ってくればどうです? 場所はわかるのでしょう?」
「いいえ、拾ったら……僕は絶対に底なし沼にでも捨ててしまう。我慢がならないんですよ」
まったく、子供なのか大人なのか、よくわからない人である。
「それは、ただの石ころですよ。問題は、あなたがエリザの幸せを見届ける勇気があるか、どうか、ですよ」
「昨日まではあったのですが……今朝には、萎えました」
「はぁ?」
サリサの顔に、やや紅がさした。
「……あの、その……色々あって」
「はぁ……」
何となく、その色々がわかるような気がする。
一度諦めたものを再び手に入れたとしたら……また諦めるのは、さらに困難なことである。
「僕は………最高神官として、エリザには命令できない。その命令が、自分のわがままなのか、彼女のためを思っているのか、全くわからなくて……」
エオルはため息をついた。
いかんせん、この男は優しすぎるようだ。
昨夜の勇ましさや、ヴィラを救ってくれた行動力に比べて、なんとも踏ん切りの悪い。もっとわがままで勝手でも、おそらくエリザはかまわないだろうに。
エリザは、自分で運命を切り開いてゆくような強い女性ではない。だが、運命を切り開く力を人に与える女性だと思う。
側においてくれたなら、最高神官の力になるだろう。
「サリサ様。私も父も、あなたにエリザを託したのです。誰かにエリザを取られると決めつけるのは、早すぎませんか?」
「でも……夢見で……」
「夢見の結果は、その後の行動で変わるものですよね? あなたは、夢見の運命を変え、エリザを救ってくれたではないですか?」
サリサは少し困った顔をした。
「あまり期待させないでください」
たしかに、最高神官を焚き付けても仕方がない事だ。
個人ではない。誰かと結婚して、幸せな生活を送れる立場の人ではない。
だが、エオルは見知らぬ男よりも、ずっとサリサを信頼している。それに、エリザだって……。
今回の事件がすべてを物語っている。
「でも、戦う前に負けないでください。あなたの気持ちに勝てるような男じゃないと、私だってエリザを任せたくはありませんから」
気持ちを偽って他の男と結婚するのが、エリザにとっていい事とは思えない。
すでに、二人はひとつ心で結ばれているのだ。
サリサのことを好きならば、そのまま、霊山に籠って過ごせばいいではないか?
巫女でも仕え人でも何にでもなって、ずっと最高神官の側で支えてあげる事のほうが、エリザにとって幸せかも知れない。
いや、妹は最高神官が望めば、喜んでその道を選ぶだろう。
「どうか、勇気を持ってください。その夢見の男が、本当にエリザを幸せにするか? なんて、誰がわかりますか? 私の代わりにそれを見極めてくださらないと」
「……そうですね。そうでした」
最高神官は、小さなため息をついた。
「でも、私はこれで失礼します。エリザには……何も強制したくない。身も心も自由になって欲しいから」
サリサはエリザが気がつく前に旅立ってしまった。
エリザに癒しとジュエルに結界を与えて。しばらくは蜜の村に滞在できるだけの暗示を残して。
それは、かなりの力の浪費となっただろう。妹のためを思って……だろうが、さすがにそこまでやられると、エオルも不安になる。
最高神官の力は、ムテのためにあるものであって、エリザのためにあるものではない。私事のために力を使うのは、やはり望ましくない。
うまくエリザを一の村に送り出さないと、彼は更に力を浪費するだろう。
エオルは、馬車にゆられて去ってゆく最高神官を、見えなくなるまで見送った。
「連れて行けばいいものを」
ふっと独り言が漏れてしまった。
それは、エオルが最高神官という重責を担っていないから、簡単に言えるのかもしれない。
だが、少なくても妹が望んでいるものはわかっているつもりだ。
――人の心を読める者は……人の心に疎いらしい。
心は常に揺れ動き、葛藤を繰り返すもの。
それは、まるで裏表のようにコロコロと変わる。
肯定・否定・肯定・否定……延々と続く迷い。時に方向性が必要だ。
エリザが恐れているのは、強制でも縛られることでもない。迷いに翻弄されることだ。
むしろ、その気持ちを封印するな! と、絶対的な力で命令されれば、安心して心を解放することだろう。
すべての不安から解放されて、サリサの元へと飛び込んでゆくだろう。
あの時、エオルの腕から飛び出していったように。
心には、芯が必要だ。
――それなくして自由はない。
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