帰郷・8
エリザは、男に足を取られて倒れた時、地面に激しく体を打ちつけていた。
それまで何度も気が遠くなりかけたが、がんばった。だが、エオルの姿を見て安心してしまったのだろう。ふと、気が緩んでしまった。
朦朧とした意識の中、やはり、ずっと最高神官の姿を思い浮かべていた。
エリザが苦しいときは、いつも彼が手を差し伸べてくれた。
その手にすがりたくて……たどり着きたくて……必死に逃げていたのではないか? とさえ、思えるくらいに。
――もう一度、会いたいです。
弱虫だと言われても、一人で何もできないと思われても……。
あの結界の中で、いや、あの方の腕の中でまどろみたい。
他の人を憎んだり、呪ったり、誰かに八つ当たりしたり……そんなことをしてしまっても、本当は側にいたい。
そんな自分が嫌。そんな自分を見たくない。
でも……それでも、側にいて欲しいです。
わがままでも卑怯でもずるくても……側にいて欲しいです。
――だめ。
頭の中に思い描いた人の名を呼ぼうとして、エリザは思いとどまった。
もうその人の名を気安く呼ぶわけにはいかない身。
その人は、ジュエルの父でも、エリザの夫でも、恋人でも、友人ですらもない。
神のごとき存在である最高神官なのだ。
だが、あまりにも辛くて恐い体験をした。それを癒してくれる人は……。
「……サリサ様」
エリザは、まったく歯止めが利かないままに、最高神官の名を呼んでいた。
だから……。
目の前に現れた人に、エリザは何も感じる間もなく、体を投げ出していた。
――サリサ様! サリサ様! サリサ様!
懐かしい腕が、エリザを受け止めてくれた。
エリザも、首に手を回してその人にすがりついていた。
優しい銀の結界。この気。この感覚。
汚れた息が掛けられた首筋に、清められるような新たな息を感じた。
そして。
甘く優しい口づけ。
「もう大丈夫です」
籠ったような優しい声。
もう二度と会わない……と思った顔が、すぐそこにある。
ほっとする。と、同時に哀しくなる。
これは夢だ。
そう、前にも見たことがある。同じ夢を繰り返しているのだ。
弱虫だから、強くなれないから……。
だから、とても邪で嫌な女になって、最高神官の邪魔ばかりするのだ。
「ご、ごめんなさい。サリサ様……」
エリザは、サリサの腕の中で泣き出していた。
「私……。どうしてもサリサ様に頼りたくなってしまうんです。弱いんです」
情けなくてたまらない。
そして、夢の中の最高神官はこういう。
彼はとても優しくて、特に弱い者には優しいから。
毒気のない美しい微笑みを浮かべながら……。
――いつまでも、頼ってくれていいのです。
だが、今回の夢は違った。
痛いほどの抱擁。そして、まるで現実のようなぬくもり。
優しい手が何度もエリザの頬を行ったり来たりした。涙や泥、血を拭う手だった。
「弱いのは……私のほうですよ」
耳を疑った。
サリサは少しだけ微笑んでいた。
「あなたがいなくなってから、どれだけあなたを頼りにしていたのか……よくわかりました。私には、あなたが必要です」
信じられなかった。
こんなに弱い自分が、最高神官に頼りにされるなんて。
「そんなこと、ありえません……」
「ありえます。誰も……そんなに強いわけではありませんから」
「でも……サリサ様は……」
「あなたがいたから、強くなれた」
優しい腕に抱かれて、エリザは再び気が遠くなった。
まるで、夢のよう……いや、これはいつもの妄想に違いない。
「これは……夢ですわ」
でも、あまりにも耐えるには恐い思いをした。
夢だと思っても、身をゆだねて甘えたい。エリザは、そっと目をつぶった。
「……サリサ様が、そのようなことを言うなんて……ありえないですもの」
エリザが腕の中で眠ってしまった時、サリサは焦っていた。
つい、調子に乗って再びエリザを追いつめるような真似をして、それで意識を離したのかと思ってしまったのだ。
祈り所の夜以来、エリザが自分を失ってしまう発作は、しばしばサリサを苦しめていた。
だが、腕の中のエリザは、実に安らかな顔をして眠っていた。だた、疲れが出てしまったらしい。
サリサは、ほっとしてエリザを抱き上げた。
すると、足下に何かがキラリと光った。よく見ると、紫石の首飾りである。
拾い上げようとして……サリサは躊躇した。
この石が放つ気に、抵抗を感じたのだ。
――エリザのことを心配する者が他にもいる。
それは、けして悪いことではない。むしろ、ありがたいことだ。
だが……。
今、この空気にこの石はそぐわない。
サリサにとって、エリザと心を通わせる事ができるわずかな時間。
あの男を入れたくはない。
兄のエオルでさえ、気を利かせてくれたというのに、この石の持つあつかましさといったら……ない。
そう思ってしまう自分の了見の狭さに、サリサは苦悩した。
手を伸ばした。拾おうと思った。だが。
エリザに思いをよせる男が贈った品。
それを、エリザの首に掛けるのか? 常にエリザに持たせるのか?
このわずかな時間でさえ、二人きりになれないのか?
とても、できない。
サリサは、石を拾わなかった。
見なかったことにした。
もしかしたら、後でエリザに責められることになるかも知れない。
だが、唯一。
それだけは許して欲しいと願った。
たとえ遠く離れても二人で分かち合おうと思った宝玉の欠片は、祈りで砕いでしまった。
もうサリサにはエリザに渡す石はないのだから。
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