帰郷・7

 

 エオルがエリザを見つけた時。

 エリザの蹴りが男の顎に入った瞬間だった。

 それは、とても冷静に対処することなどできない状態。後先考えずに、名を呼んでいた。

 リューマ族に陵辱されたとなると、ムテの女性にとって、死に匹敵する。たとえジュエルがいなくなったとしても、エリザは村にいられなくなるだろう。

 遠い昔には、そのような目にあってムテを捨てた女性もいた。恋の成就だったのか、それとも陵辱の果てのやむをえない逃避だったのかはわからない。

 いずれにしても、リリィのようにリューマ族と正式に結婚し、ムテに住める女性は極めて珍しいのだ。

 エリザは、どうやらその危機は乗り越えた。だが、やはり命の危険は去っていなかった。

 エオルはエリザに向かって走り出していた。

 しかし、男は怒り狂ってナイフを振り下ろしたのだった。思わず、エオルは目をつぶってしまった。

 次に、妹の断末魔の悲鳴が耳に飛び込んでくる……と思った。

 だが、声は聞こえなかった。


 エリザは、振り下ろされたナイフが自分の喉を裂くだろう瞬間まで、目を見開いていた。が、ナイフは空中で半回転し、目の前から消え去り、エリザに触れることはなかった。

 何が起きたのかわからなかった。

 一瞬の差で、ナイフが男の手から落ちた。

 張りつめていた気が緩んで、エリザはそのまま意識を失った。


 エオルと反対側から、サリサはエリザを捜して、林を走っていた。

 浅はかとも思えたエオルの声が、ぎりぎりでエリザを救ったのである。サリサが、エリザを見つけたのは、その声につられたからだった。

 声の方向に向きを変えた。

 そして、男とエリザの姿を見つけたとたん、懐から白竜の鞭を出していた。

 薄闇の中、計ったように鞭が飛んだ。

 白竜の鞭は、まるで意思でもあるかのように、見事に男の手を叩いたのだ。


「そこまでです。ムテの女性に対する暴力は許しがたい罪。あなたの身柄はウーレン本国に送られ、そこで裁判を受ける事になりましょう。これ以上、罪を重ねてはなりません」

 木の陰から突然現れた男に、リューマの男は、憎しみにたぎった目を向けた。

 まるでエリザへの興味を失っていた。

 ここまでくれば、どうせ死罪だ。ならば、女も男二人も殺して逃げるのみ。

 ムテの純血種など、たいした腕力はない。それに、鞭は殺傷能力の弱い武器である。所詮は、刃物に敵わない。

 男は、払われたナイフをひろいあげた。そして、大きな声をあげながら、サリサに斬り掛かっていった。

 その間に、エオルは倒れたエリザの元へと駆け寄っていた。何度か声を掛けたが、エリザの意識はもどらない。


 ――最高神官が男の気を引いている間に、エリザを逃がさないと。


 どう考えても、ムテ人はリューマ族よりも戦闘能力に欠ける。祈りの力を持つとはいえ、通常の戦いでサリサが勝利する可能性はほとんどないだろう。

 このままでは、時間の問題で三人とも殺されてしまう。

 手を貸したいと思っても、エリザがこの状態では何もできない。エオルは、ハラハラしながら、最高神官と男の戦いを見ていた。


 ところが、エオルの心配は不要だった。

 突進してきた男の目の前から、サリサの体は宙に浮いて消えていた。なんと、白竜の鞭が木の枝をとらえ、サリサの体を上空へと舞い上がらせていた。

 次に降りてきた時には、サリサは男の背後を取っていた。

 慌てて振り向いた男のナイフの柄に、次の瞬間、鞭が絡み付く。その次の瞬間には、ナイフはサリサの手の中にあった。

 それでも命がけの男は、今度は素手で襲いかかってきた。再びサリサの体が宙を舞った。そして、上空からナイフが飛んできた。

 男に突き刺さるのでは? と思えた瞬間、今度はナイフが上空へ舞い上がる。鮮やかな鞭さばきで、ナイフが躍った。

 男の足が止まった瞬間、サリサの指先が男の眉間に当てられていた。

「素直に罰を受けなさい」

 それは、暗示だった。

 男は一瞬の隙を突かれ、サリサの手中に落ちたのだった。


 エオルは唖然としていた。

 エリザを抱きしめながらも、歩み寄る最高神官をじっと見つめていた。

 ムテの見本のような細い体躯と美しい顔。武器の似合わないしなやかな指先。

 まさか、最高神官にこのようなことができる力があるとは。

 確かに相手に疲労はあっただろうが、勝てるはずはないと思っていた。

 その心を読んだのか、サリサは苦笑いした。

「確かに、戦いは得意とは言えませんけれど。昔……とある人に、ものすごく鍛えられた時期がありましてね。嫌な思い出ですが、役に立ちました」

 そう言いながらも、あまりにも痛々しいエリザの様子に、サリサは顔をしかめた。

「私が弱いばかりに……エリザには辛い思いをさせてしまいました」

 エオルは、最高神官の力に圧倒されてため息まじりだった。

「あなたは……本当に凄い方だ。すべて夢見の通りだったのですね? そして、私たちを救ってくださった……」

「夢見の通り?」

 サリサの眉が一瞬歪んだ。

「……夢見の通りなどではありません。その通りにしたくない一心でした」

 しばし、無言になる。

 最高神官が見た夢は、そうとうひどい夢だったのだ。

 おそらく、エリザはあの男に陵辱され、殺され、切り刻まれたのだろう。

 その夢は、サリサを相当傷つけたに違いない。冷静さを保ち、移動中も力の保持に徹し、傍目には呑気にさえ見えたのは、エリザを救いたい一心だったのだ。

「エオル、お礼をいいたいのは私のほうです。あなたが来てくださらなかったら、私の心は曇ったままで、夢見することもありませんでした」

 うなだれる最高神官に、エオルは恐縮してしまった。

「……でも、エリザを救ってくださったのはあなたです」

「いいえ、夢見の方向を変えたのは、あなたたち家族です。ファヴィルが命をかけて教えてくれなかったら……。あなたがエリザを見つけてくれなかったら……。私の悪夢は本当になっていたでしょう」


 あたりに鳥の鳴き声が響く。夜明けは近い。

 エオルの腕の中で、エリザがやっとかすかに目を開けた。

「……お兄さん」

 力なく声が漏れた。だが、意識がはっきりしてくるにつれ、瞳に恐怖の色が現れた。

「……お父さんは? ジュエルは? あ、お父さんが!」

「大丈夫、エリザ。悪夢は去ったよ。ジュエルは無事だ。お父さんは……お母さんのところへ行った」

 それを聞いて、エリザはううっと小さな声をあげた。

 安心の涙なのか、父の最期を知った悲しみの涙なのか、ほろほろと頬を濡らした。

「もう、何も心配ないから……」

 エオルがエリザを抱きしめる。

 その横で、サリサはその様子を黙って見ているだけだった。

 兄妹愛の間に、居場所が無くなってしまったのだろう。エオルも一瞬、喜びが勝ってサリサの存在を忘れかけたほどだった。

 だが。

「……サリサ様」

 突然、エリザが呟いた。

 最高神官がここにいることを、エリザが気がついた様子はない。サリサが現れた時には、もうエリザは気を失っていたのだから。

 どうやら、遠慮するのはエオルのほうだった。妹の心の中にいるのは、兄よりも別の人らしい。

 エオルは、そっとサリサのほうに視線を向けた。

 それにつられるようにして、エリザもサリサのほうを向いた。

 そのとたん、エリザはバネ仕掛けの人形のようにエオルの腕の中から飛び出していた。

 ボロボロの体で、どうしてそれぐらい早く動けたものやら、わからない。だが、驚くような早さで、エリザはサリサの腕の中に飛び込んでいた。

 これには、さすがの最高神官も予想がつかなかったに違いない。

 やや驚いたようなサリサの顔を見て、エオルは微笑み、立ち上がった。

「私は、この男を連れて先に馬車に戻っています。どうぞ、ごゆっくり……」

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