帰郷・6


 エリザは必死に走っていた。

 ただ闇雲に走っていた。


 目の前で父親が刺されたこと。

 その衝撃は大きく、思い出すたびに悲鳴を上げた。

 その声が、追っ手に居場所を教えているようなものであることも気がつかないままに。

 裸足の足は、何度も木の根や小石を踏みつけて、さらに傷だらけになった。

 何度も転んだが、何度も起き上がり、そして何も考えずに走り回った。

 最初は体が勝手に動いていた。だが、体調も万全ではなく、元々体力のないエリザは、やがて動きたくても動けなくなった。

 心が、逃げよ! と命じても、体がもうバラバラだった。

 木にもたれて、何度も呼吸を整えた。もう逃げ切れたのか? と思ったが、やがてガサガサと木々の揺れる音がした。

 リューマの男のほうも、エリザを逃がしたら死罪なのだ。必死である。

 エリザは、再び走り出すしかなかった。


 ――サリサ様! 助けて!


 恐怖に追いまくられて、エリザの頭の中に浮かんだのは、最高神官のことだった。

 長い間、何か辛い事があると、エリザは最高神官を頼ってきた。

 もうダメだ……と思った時も、彼の微笑みを思い浮かべて、がんばってきた。

 悲しい時も寂しい時も、常にくじけそうなエリザを支えてくれたのは、最高神官だった。

 命の危険に追い立てられて、エリザの中には「恐れ多い」などという気持ちは、もうこれっぽっちもなかった。

 

 ――助けて! 助けて! サリサ様!


 泣きながら、そればかりを唱えながら、必死に足を動かしていた。

 ムテの守り。宝玉。神々しき人。尊きお方。

 最高神官を形容する言葉は、数知れずある。困った時は、誰もが彼に祈りを捧げ、心の支えとするだろう。

 エリザも最高神官を心の支えとして生きていこうと思った。

 だが、違う。

 今、側にいて欲しいのだ。今、腕をとり、いっしょに走って欲しい。

 神のごとく心の支えではなく、共にあって欲しい。体を支えて欲しい。腕を引いて、くじけそうな心を励ましてくれる……あの優しい声が欲しい。

 今、この場で倒れて死んだとしても、二人でいられるのであれば、それでいいとさえ思う。

 一人じゃ……あまりにも恐いのだ。

 

 激しい息づかい。自分のではない。

 振り向かなくても、すぐ近くに男が迫っていることがわかった。生臭い息が、ぜいぜいという音とともに迫っている。


 サリサ様! 


 だが、いくら助けを願ったところで、霊山にいるはずの彼に届くはずはない。

 次の瞬間、エリザは腐葉土の地面に押し倒されていた。

 必死にばたばたと抵抗したが、無駄だった。男の息は荒いが、ちっとも消耗していない。あっけなく押さえ込まれ、馬乗りになられてしまった。

「ちぇ! 苦労させてくれるぜ」

 ペッと唾をはきながら男は言った。


 椎の村で。

 エリザはカシュに襲われるのかと勘違いし、大騒ぎした。その時も恐かった。

 だが、今回。本当に恐ろしいということを初めて知った。

 男の目には、カシュのような憎しみを伴う思いやりもない。ただ、エリザを獲物としか見ていない目だ。

 そこには、人を人とも思わない無機質で残忍な心しかない。

 片手でエリザの両手を捕まえると、頭の上で締め上げた。痛い上に、全く抵抗できない。もう片手にあるナイフが、ペチぺチとエリザの頬を打った。

 もう殺されてしまうのだ……と思った。だが、男はにやりと笑った。

「純血種の……しかも、ムテの最高神官の女か? ただ殺すのはもったいないな」

 その言葉を聞いたとたん、エリザはぞっとした。

 リューマ族の悪評は噂によく聞いていた。だが、まさかそのようなことをする男がいるとは、ムテであるエリザには実感できないことだった。

 気持ちの悪い視線が、首筋に、そして胸元に絡み付くようである。

「リューの花街で、銀に色を抜いた髪の女をよく買った。いいものさ。純血種のような女が俺に媚びへつらう。俺に泣いて懇願する。だが、所詮、そいつは偽物だ。肌が汚くてな……」

 リューマ族の女がいくら純血種を装ったところで、白く美しい肌にはなれない。ましてや、ムテは美貌で知られる種族である。

 絡み付く視線を払いたかったが、手が動かない。それどころか、もがけばもがくほど、ますます男の残忍な心を刺激するようだった。

「命乞いをしろ! え? 泣いてすがれば助けてやってもいいぜ?」

 男が女を欲するのは、けして色恋ごとだけではない。

 相手の種族の血を冒涜したい時。まさに、この男はその目的のために、エリザの体を欲していた。

「どうせ、女みたいなひょろひょろした男しか知らないんだろ? 俺を欲しいと言ってみろ! 抱いてくださいと泣いてみろ! 少しは情けを掛けてやってもいいぜ」

 男の臭い息が首筋に掛かった。耳を舌で舐めたのか、ねっとりとした感覚がびりびりと体中に伝わって、エリザをびくんと震えさせた。


 ――い、嫌! そんなの、死んでも嫌!


 エリザは、目をつぶり、そして唯一できる抵抗を試みた。いちかばちかで、頭突きしたのだ。

 まさか、抵抗されると思ってなかったのだろう。エリザの額は、見事に男の大きな鼻にあたり、男をひるませた。

 やっと自由になった手で土を握り、男の顔に投げつけた。そして、ひるんだところを逃げようともがいた。

 だが、男の体は重たくて、どうしても逃げることができない。足をばたばたさせ、手で何度も男の胸を押して、逃れようとしたが無駄だった。

「さわらないで! あなたに触れられるくらいなら、死んだほうがまし!」

「このぉ!」

 男の手がエリザの耳を叩いた。一瞬、気が遠くなりかけた。

 男はエリザがひるんだのをいい事に、さっさとやるべきことをやろうとした。いきなり足首を掴み、エリザの体を開こうとした。

 男は興奮していた。常に高みで気取っているムテ人たち。彼らの花を手折るのに、何の準備がいるだろうか? さっさと征服して、自分に従わせ、許しを乞わせるのだ。

 だが、その行為は性急すぎた。男の体が浮いたわずかな隙に、エリザはするりと男から逃げ出した。そして、再び足をばたつかせて、男の顎に蹴りを入れることに成功した。

 這いつくばって逃げようとしたエリザの耳に、聞き慣れた声が聞こえた。

「エリザ!」

 林の向こうに影が見えた。

「お兄さん!」

 エオルの姿を見つけて、エリザはほっとして涙が出てきた。

 立ち上がって、兄のほうへと走り出そうとしたが……すぐに倒れた。男に再び足首を掴まれたのだ。

「この野郎! 死ね!」

 男には、もう遊んでやろうなどという気持ちは無くなっていた。

 エオルに見られたならば、もう死罪は免れない。助かるとしたら、エリザも殺し、エオルも殺す事だ。

「やめろ!」

 エオルの悲鳴にも似た声が響いた。だが、彼とエリザの距離はまだまだありすぎた。

 男は、エリザに襲いかかり、ナイフを振り上げた。

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