帰郷・4


 エリザを突き飛ばしたのは、頭を殴られて意識がなかったはずのファヴィルだった。

 エリザの目の前が、銀の光で明るくなった。

 その光の中、男のナイフがファヴィルの胸を突いたのが見えた。

 目を丸くしたエリザの頬に、父の血が飛んできた。

 声が出ない。何が起きたのか、目の前が真っ白になった。

 だが、呆然としたエリザの耳に、力強い声が聞こえてきた。

 それは、本当の声ではなく心話だったかも知れない。


 ――早く! わしが引き止めているうちに早く逃げるのだ!


 父の声だった。

 ムテの結界は、本来物理的な防御にはならない。命をかけてはなった父の結界は、緩んできている。銀の光は徐々に薄れていた。

 エリザは、やっと自分に何が起ころうとしていたのかに気がついた。父が身を挺してくれなかったら、刺されていたのは自分だった。

 エリザは、立たない腰のまま、這いつくばって逃げ出した。

「まて! この!」

 リューマ族の男の声に押されて、今度は立ち上がれた。そして、林の中を無我夢中で走り出した。

 怪我をして疲れ果てているはずの足だが、まるで自分の物ではないような勢いで動いた。

 ジュエルのことや刺された父のことを考えるゆとりはなかった。

 ただ、恐怖に駆られて、悲鳴を上げながらエリザは逃げ出していた。


 リューマの男は、チッと舌打ちした。

 年老いたムテ人は意外としつこく、男の手を取って離さなかったのだ。

 だが、もしもムテの女に逃げられて訴えられたりしたら、金儲けどころか死罪で追われる身となる。

 すでに手を汚した身には、一人も二人も同じ事だった。

 そう。この男は元々蜂蜜商人ではない。

 詐欺や強盗で身を立てていたが、女を巡ってある男を殺してしまい、リューの街から姿をくらませていたところだった。

 偶然にも逃走で使った馬車が、ムテに行く途中の蜂蜜商人の物だった。だから、そのまま蜂蜜商人になりすまして、うまく隠れるつもりだった。やや薄のろの相棒は、蜂蜜商人の相方だったが、悪と善の区別がつかない男で、すぐに仲間になった。

 しばらくはうまく行っていたが、蜂蜜を持たない蜂蜜商人ということで回りに疑われ始め、慌てて蜂蜜の買い付けに向かったのである。

 運良く、ムテの最高神官の祈りは弱まっていた。まさか、通れるはずがないと思っていたムテの結界も、偽の証明書で抜けることができた。

 だが、真っ当な商売を知らない男に、善人を装う事は無理だった。

 先日、ジュエルの顔を見たとたん、更なる悪事が思い浮かんだ。しかも、忍び込もうと思った矢先に、獲物のほうが飛び出してくてくれたのだ。

 男はファヴィルの頬を殴りつけると、胸に刺さったナイフを抜いて、さらにもう一突きした。それは、ほぼ意味のないことだが、しなければ気が済まなかったのだ。

 その間にも、エリザの姿は見えなくなっていた。

 だが、女の足が早いはずはない。しかも、薄明が始まっていた。木立の中を、かすかに悲鳴が響いている。

 男はファヴィルを見捨てて、エリザを追いかけ出した。


 ――悲鳴。


 エオルは不安だった。

 馬車から流れてゆく木立の影を見つめながら、嫌な予感に苛まれていた。

 徐々にあたりは明るくなってゆく。朝が近づいてきている。

 だが、エオルはこの夜が無事に明けないのでは? と思えてならなかった。

 あの声は……父・ファヴィルの声だった。

「カシュ! 止めて!」

 再びサリサの声。

 何かが馬車の前をよぎったのだ。

 黒い影のようなものが、ふらりふらりと、まるで糸の切れた凧のように。

 サリサは、止まらないうちに馬車から飛び降りていた。

 エオルも慌てて馬車を降りた。じっとしていると、恐怖が襲ってくる。いても立ってもいられなかったのだ。

 馬車の前に飛び出した者は、道の中央で倒れて動かなくなっていた。サリサが、それを助け起こしている。

 エオルは歩み寄り、そして足を止めてしまった。

 何かが心に重くのしかかった。

「……お、お父さん」

 思わず口元に手を当てた。吐き気がしそうだった。

 サリサに助け起こされた人は、エオルが旅立った時よりもさらに老いた……いや、もう屍のようにボロボロになったファヴィルだったのである。

 銀色の光がファヴィルを包んでいた。

 それは、ファヴィルのものではなく、最高神官が放つ結界の光である。

 エオルは、父がもう死んだも同然であることに気がついていた。最高神官の力が、わずかに残ったファヴィルを助けて生命をかろうじて維持している。

 震えて側に近寄れないエオルに、サリサはちらりと顔を向けた。


 ――離れていて……。


 エオルは、すべてを察した。

 こくりとうなずくと、ゆっくりと馬車に戻った。

 そして、片隅で震えたまま、嗚咽を漏らした。わかっていたこととはいえ、あまりにも残酷だ。

 ムテ人にとって、愛する人の死に直面する事は、命を縮めることにもなりかねない衝撃。父は、エオルに死の瞬間を見せることを望まないだろう。

 つまり……そういうことだ。


「あぁ、尊きお方……」

 おそらくファヴィルの目は、もうサリサの顔を映し出してはいないだろう。だが、ファヴィルはサリサが誰であるのか、気がついていた。

「教えてください。ファヴィル。エリザはどこに?」

 唇が無くなり、笑ってもいないのに歯が見える口元が開いた。

「あの子は……愚かなところもあるが、純粋で優しい子です。どうか……どうか、助けてあげてください」

 骨と皮になり、変色した指先が、サリサの長衣に絡み付いていた。

「よくわかっています。あの人のことは、私に任せてください」

 ファヴィルのひからびた頬に涙が一筋流れた。その瞳は、涙を絞り出した後、光を失った。 

「エリザは……エリザは……」

 骨だけになっていた。カツカツと歯だけが音を立てる。言葉にはならない。

 サリサは、一瞬うつむいた。が、はっきりと言った。

「エリザは、私の大事な人です。必ず、幸せにします」

 その言葉を聞いた瞬間、ファヴィルの手がサリアの長衣から外れた。そして、そのまま、さらさらと粉になった。

 サリサが抱き上げていたファヴィルの姿は無くなった。まるで、砂が崩れるように消え去った。

 寿命を使い果たしたのだ。

 ムテでは珍しいほどの、完全消化だった。

「トア・メ・ラモーラ・ムメ・アモーラ・メル・ロイ・タリラ……」

 サリサの口から、古いムテの祈り言葉が流れ出た。


 エオルは、馬車の中で震えていた。

 母の旅立ちを見送ったことがある。寿命を察した母は、まだ美しい若い姿のままで、エオルの前から去っていった。

 その時も、身を切られるような悲しみに涙した。

 しかし、このような身内の死を直に感じるのは初めてだった。

 別れは当然悲しいこと。

 だが、衰え、老い、苦しみの果てに去られるのかと思えば。そして、それを身に起きたように感じ取ってしまえば。


 ――どうやって正気を保てばいいものなのだろう?


 やがて、馬車に乗り込んできたサリサが、横にやって来たかと思うと、そっとエオルを抱擁した。優しい気が満ちて少し安心したと同時に、エオルは最高神官が震えているのに気がついた。 

 やはり、死を目の前で見届けるのは、命ある者にとって苦しいことである。ムテの最高神官といえど、死を見届けるのは簡単なことではないのだ。


 ――この方は、何度このように人を見送ったのだろう?


 おそらく、長い人生のうちの何度かは、かなり命に関わるような悲しい思いもしただろう。

 それは、徐々に慣れて当たり前になって、耐えられるようになるものなのだろうか? それとも、徐々に積み重なり山となって、苦しみを深めるものなのだろうか?

 我々ムテ人は、祈りによって守られる。だが、その祈り手は……どのように守られているのだろう?

 


「馬車を出しましょう。やはり、私が夢見たようなことが起きている……としたら、エリザに危険が迫っています」

 最高神官の声は、冷静だった。

 そう、ここで泣いていては、さらに悲劇は大きくなるのだ。エオルは、ふっと深呼吸した。

 父親の死に動揺してしまい、泣いてすらいる自分が恥ずかしくもなる。

「私は……大丈夫です。それよりも、エリザに迫っている危機とは何です?」

「すぐにわかります。まずは……せっかくファヴィルが命をかけて教えてくれた事を無駄にしないことです」

 どうやら言葉以上に、ファヴィルは色々なことをサリサに伝えたらしい。

「カシュさん、右手の道を進んでください。リューマ族の馬車に追いついたら……中にいる男は、殺さない程度に殴っていいです」

「よし、わかった!」

 腕がふるえると知って、カシュの声が元気になった。

「エオル、あなたは馬車を見つけたら、あとはカシュに任せて、そこから林の中を北に進んでください。私はここから南へ進みます。きっと、どちらかが先に、エリザを見つけられるはずです」

 まるで、すべてを知っているようにサリサは言った。

「もしも、何か危ない事があったとしても、時間稼ぎに徹してください。必ず、私も追いつきますから」

 そう言い残して、サリサは馬車を降り、あっという間に林の中に姿を消した。

 エオルに何の質問もさせる間もなく……である。

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