帰郷・3
ファヴィルを追って家を飛び出したエリザは、すぐにぬかるみに足を取られて転んだ。
あまりに慌てて飛び出したので、部屋履きのままだったのだ。雨が上がったばかりの地面に、つるつるの底の靴は見事に滑った。しかも、泥に取られたまま、脱げてしまった。
だが、エリザは気にもせず、裸足のまま駆け出した。
かすかな子供の気配を追って、エリザは林の中へと入っていった。道のない道を、ただ少しだけ近いという理由で選び、服を何度も枝に引っ掛けた。
夜中であったことは、エリザに幸運だった。もしも、誰かにその姿を見られたとしたら、それこそ村にいられなくなったに違いない。
髪を振り乱し、銀色の光を放ちながら、ものすごい形相で走っているのだから。
顔は泥だらけ、裸足の足は泥と血だらけになっていた。何か尖った物を踏んでしまったようなのだが、それすらもエリザは気がつかなかった。
さすがに走る速度はだんだんと落ち、足も引きずり始めていた。だが、追われるファヴィルのほうも足腰が危うく、しかも赤子を抱いていた。やがて、村外れの林の道の途中で、エリザはファヴィルとジュエルに追いついた。
「お父さん!」
エリザは叫んだが、父の足は止まらなかった。むしろ、よろよろ歩いていたのに、声を聞いて駆け出したほどである。
エリザはさらに追いかける。ファヴィルは逃げる。追いかける。逃げる。
だが、その追いかけっこは長くは続かなかった。
ファヴィルは明らかに限界だったのである。ついに、エリザにつかまってしまった。
「! お父さん! どうして! どうしてよ!」
老いた父親を押し倒し、エリザは何度もぽかぽかと父を殴った。だが、ファヴィルは倒れたままうずくまり、ジュエルを離そうとはしなかった。
エリザは泣き叫びながら、何度も何度も叩いたり、揺すったりして訴えた。
「返して! 私のジュエルを返してよ!」
ファヴィルは、それでも動かずにエリザのなすがままになっていた。
なぜ、父が命の危険まで冒して、ジュエルを連れ去ろうとしたのか? エリザには、わからない。だが、おそらく今後もこのようなことをする人々が、ジュエルの前に現れるのだ。
おそらく……。
ジュエルが漆黒の髪だから。
エリザは、父にすがったまま、しばらく泣き続けた。
どれくらい時間が経っただろう? 少し落ち着くと、エリザは父を助け起こした。
「お父さん。もう帰りましょう? もう……忘れましょう?」
そう。こんなことは悪い夢にしたい。
エリザはふらふらと立ち上がった。支えた父の体が、さらに軽くなっていて驚くばかりだった。
「何もかも悪い夢だったのよ。家に帰って……これからは、家族みんなで幸せな日々を送れるのよ。ねぇ、お父さん」
まるで自分に言い聞かせるように、エリザは呟いた。
そう……。それがエリザの夢だった。
霊山に留まって、人を憎むことしかできない、最高神官の足を引っ張る事しかできない女になりたくなかった。
故郷で家族と共に暮らし、癒しの巫女として、村人たちを助けること。人々に喜ばれるエリザになること。
それが、エリザの幸せ……故郷に戻ったエリザの姿のはず。
だが、父は根が生えたようにその場から動こうとはしなかった。
「……わしは、旅立つのだ。この子を連れてな。この子は……お前を破滅させる」
「! お父さん!」
まさか、父に力が残っているとは思わなかった。
いきなり、エリザの手を払うと、ファヴィルは再び走りだした。だが、その逃走は、わずか数メートル行ったところで終わった。
エリザの目の前で、父はばったりと倒れた。
足がもつれたのではない。突然現れた男に、棒で頭を殴られたからだった。
暗がりに大柄な影と小柄な影がうごめいている。
リューマ族の蜂蜜商人たちだった。
小柄な男が、ファヴィルの手からジュエルをむしり取っていた。
「何をするの! 私の子を返して!」
エリザが叫ぶと、男たちは一斉に振りむいた。
小柄な男が何か言おうとしたが、大柄な男がそれを止めて合図した。にへら……と顔をゆがめたかと思うと、小柄な男はジュエルを抱いたまま、闇の中に消えて行った。
エリザは慌てて後を追おうとした。が、大柄な男が道を塞いだ。
「おっと! あれは俺たちのものだ」
大きな鼻の醜悪な顔が笑った。
「ジュエルは私の子よ!」
「あんたの? まさか? そんな嘘は俺たちリューマ族だって見抜くぜ?」
確かに、ジュエルはムテらしい容姿に恵まれなかった。
だが、間違いなく自分がお腹を痛めて産んだ子供である。黒髪であっても青い目であっても、最高神官サリサ・メルと自分の子供以外の何者でもない。
そして、エリザは子供を守る。
どんなに至らなく、誰も認めないとしても。
自分の子であり、神官の子供であるジュエルを。
「ジュエル!」
男の横を突っ切ろうとした。だが、腕を掴まれてしまった。
「あれは、俺たちの金づるだ。あんたの物じゃない」
まるで物のように、男はジュエルを語る。
エリザは、子供を愚弄されたような不快感を感じ、男を睨んだ。
「恨むなら、あんたの兄さんを恨むんだな。もっと蜂蜜が安ければ、俺たちだって真っ当な商売で満足したさ」
「どういうこと?」
「あれを人間狩りのウーレン人に売ったら、蜂蜜よりは金になる」
我が子が蜂蜜並みのわずかな金で売り飛ばされるなんて! エリザは必死に暴れた。
男の醜悪な顔がぱかっと割れて、口の嫌な臭いがした。
突然、エリザは腹部に重たいものを感じて、しゃがみ込んだ。男に殴られたのだ。
気が遠くなりかけた。脂汗がにじみ出てくる。
だが、気を失うわけにはいかない。
「あなたたちに……ウーレンと取引なんてできないわよ。訴えてやるから! ウーレンに行ったとたんに、お縄になるだけよ」
朦朧としながら、エリザはすごんだ。
リューマ族の男の笑いがとまった。
ムテの女性への暴力は死罪になる。エリザが訴えたとしたら、ウーレンからは追われる身となるのだ。当然、ジュエルを売り払うことはできなくなる。
「あの子を置いて逃げれば……何も言わない。何もしないわ」
「……ふうん」
リューマの男は小さく唸った。
これは、どうやら効果的な手だったにちがいない。そうエリザが思った時だった。
男の手に、キラリと光る物が握られた。
「つまり、俺たちにとってあんたは邪魔になるってことだな?」
平和なムテである。エリザには、その男の手の中で光るものの意味を計りかねていた。
エリザが自分の置かれている状況に気がつく前に、男のナイフは振り上げられた。
ムテの銀色の光が反射して、ナイフは煌めいた。
次の瞬間、エリザは突き飛ばされて地面に倒れていた。そして、頬に飛び散る生温かい液体を感じていた。
夕の祈りが終わった後も、死んだように眠っていたサリサだった。
だが、夜更けも過ぎ、蜜の村が近づいてきた頃になると、今度はすくっと起きて寝ることがなかった。
逆にエオルのほうがコクリコクリと眠っていたくらいである。
「エオル。起きてください」
一瞬、深く眠っていたのか、エオルは今朝に時間が戻ったのか? とすら思った。
だが、サリサのほうは朝以上に緊迫した気を放っていた。
「何か……感じます」
言われてエオルも緊張した。
その場所は、もう村まですぐの林の中だ。エオルもよく知っている場所である。
だが、確かに何か不穏な気が漂う。
耳を澄ませた。すると……。
「ぐううう……」
カシュが交替要員として連れてきたリューマ族の御者のいびきである。今、馬車を進めているのは、カシュだった。
「カシュ! 止めて」
サリサが小声で命令した。
馬車は木々の道の中、ゆっくりと止まった。
フクロウの声、かすかな木々のざわめき、それと全く似合わない御者のいびきだけが響いていた。
だが、サリサは耳を澄ませたままだった。
「サリサ様、何もないようです。早く村へ向かったほうが……」
エオルが声をかけた時だった。
――ぎゃああああああ………
林を渡る悲鳴。
まるで動物のような。
だが、間違いなく人の声だった。
「カシュ! 馬車を出して!」
「あいよ!」
馬車は再び勢いよく進み始めた。
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