帰郷・2


 馬車の行く手には暗雲が立ち込めている。

 だが、今は気持ちよく晴れた空の下を進んでいた。まるで、馬車が飛ぶように、雲を切り開いて進んでゆくようだ。

 それが、まさか最高神官の力とは思わないが、そういう気にさせてしまう不思議な男だ……とエオルは思う。

 馬車にゆられて眠る事しばらく。目が覚めた後、サリサは気持ち良さそうに歌などを歌っていた。

 何とも癒される歌である。

 リューマ族のカシュがつられて鼻歌を歌ったが、こちらのほうはひどい音痴で、しかも声が大きかった。

「この幌、なんとかなりませんか? おろすと暗いし、あげるとまぶしいし……」

 ブツブツとわがままを言っていたサリサだったが、しばらくすると、こてっと藁の上で再び眠っていた。

 しかも、まるで死んだように、である。

 あれだけ人を急かせておいて、何だか気の抜ける男だ。エオルはあきれてため息をついた。

 馬車は、椎の村で馬だけを変えて、すぐに旅立った。

 リューマの男がもう一人乗り込んで、カシュと交替した。カシュもほとんど寝ていないのだ。

 慌ただしい急ぎの旅である。だが、なぜか緊迫感がない。

 荷台の藁の上に、大柄なリューマ族の男が大の字になっている。その横で最高神官が小さくなって眠っている姿は、何とも滑稽であった。

 来るときはあんなに焦っていたのに、帰りは何となくのどかだ。最初は、サリサのペースに飲まれてわけがわからず、そして今は眠ってばかりなのだから。

 こうしている間にも、父は死んでいるかも知れないし、エリザは何か事件を起こしているかも知れないのに……だ。エオルは、不思議な事に心穏やかでいられた。

 結局、サリサは夕の祈りの時間までずっと眠り続けた。

 夕の祈りでは、朝の祈りのような派手な芸当はなかった。もしかしたら、霊山から離れたので、力がでないのかも知れない。しかし、その分、長い時間、馬車にゆられたままで最高神官は祈り続けた。

 そして、祈りが終わったとたん……やはり、こてっと眠ってしまったのだ。

 これではまるで、眠るのが最高神官の仕事と言われてもおかしくはなかった。

 最高神官が持つ気は、それだけで癒しであり、外部からやってくる不安を跳ね返す結界である。

 エオルがそれに気がついたのは、サリサと別れてからである。

 だが、サリサの異常なまでの睡眠は、ムテの力を蓄えていたのだ……と気がつくには、さほど時間はかからなかった。




 蜜の村に降り続いた雨が止んだ。

 ファヴィルは、そっと目を開けた。そして、ベッドのふちに手を掛けながら、やっとの事で体を起こした。

 背骨がばきばきと音を立て、彼は苦痛に顔をゆがめた。だが、声はあげなかった。眠っている者たちを起こしたくはなかったのだ。

 ベッドに頭を埋めて、エリザが眠っていた。

 ファヴィルは目を細めたが、エリザに触れることはなかった。ゆっくりとベッドから降りる。

 隣の部屋では、トラン・タンが同じように深い眠りについているだろう。

 薬草の力もなしに、神官代理の者を眠らせるのは大変だった。だが、ファヴィルは、残りわずかな力を振り絞ったのだ。

 枯れ木のような足は、自分自身の体すら支えるのが大変だった。だが、ファヴィルはゆっくりと歩き、そして、椅子の上に寝かしつけられたジュエルを抱き上げた。

「お前は……わしといっしょに行こう」

 ファヴィルは、青い目をした子供に話しかけた。子供のほうは、何もわからず、ただファヴィルを闇の瞳で見つめるだけだった。


 ――メル・ロイとしての旅立ち。


 寿命を迎えたムテ人たちは、そうして醜い死を愛する人の目にさらさない。

 残されたわずかな時間を、生とは何ぞや? と自問自答しつつ、最後の地を目指して旅を続けるのだ。

 ファヴィルには、もう旅の時間も残ってはいまい。

 だが、彼はやはりムテなのだ。愛する子供たちに、自分の死を見せつけるわけにはいかない。そして……。

「エリザの不幸は……わしが……連れ去ろう」

 曲がった腰のまま、それでも気力で、ファヴィルはジュエルを抱きかかえ、階段を降りた。

 そして、よろよろしたまま、扉を開けて外に出た。


 雨は止んだ……とはいえ、空気は冷たかった。

 しかも、もう日はとっぷりと暮れ、夜である。

 外気に触れたジュエルは、泣き声をあげた。それは、とても小さな声で、誰も気がつく人はいないはずだった。

 だが、二階で眠っていたエリザは、すぐに目が覚めた。

 何か不安を感じて顔を上げてみると、寝ているはずの父がいない。慌てて立ち上がって、椅子の上の子供がいないことも気がついた。

「! ジュエル? ジュエル!」

 エリザは半狂乱となって、椅子の下、ベッドの下まで、必死になって子供を捜した。いるはずもない戸棚やタンスの引き出し、カーテンの裏側まで、ばたばたと捜し回った。

 そしてついに、父親が子供を連れ出したのだ、という事実を認めるしかなかった。

「お、お父さん! どうして?」

 枕を握りしめ、思いきりベッドに叩き付けると、エリザは部屋を飛び出した。

 さすがにエリザの立てた騒音に気がついたのか、隣部屋のトランも飛び出してきた。

「エリザ、いったいどうしたのです?」

「どうしたも何も! 私のジュエルを奪われた!」

 邪魔されたような気分になり、エリザはヒステリックに叫んだ。だが、トランのほうはぼけっとした顔をした。

「あなたの? ジュエル? あれが?」

「お父さんはどうしちゃったの? あの子を盗むなんて!」

 父が心病だとわかっていた。だが、まさかそのようなことをするとは……。

 あまりにもおとなしい父の態度に騙されていた。父は、やはり狂っていたのだ。

「落ち着きなさい。エリザ。あなた、まさか、あの子を本当に、自分の子供だと信じているのですか?」

 トランがいきなりおかしなことを言い出し、エリザの腕を掴んだ。

 どうして皆、こうも奇妙なことを! エリザは苛々した。


 ――あの子は、苦しみの果てに手に入れた希望なのに!

 ――私のすべてなのに!


 誰もがジュエルをエリザから奪い、乱暴に扱い、もしくは閉じ込めようとする。

 誰もが敵だ。誰もが信用できない。

 子供を守る事ができるのは、エリザただ一人。一人で敵と戦わなければならないのだ。

 エリザはトランの手を振り払った。

 そして、まるで転がり落ちるような勢いで階段を駆け下りた。

 残されたトランのほうは、今まで見た事のないエリザの形相に、驚いて動く事ができなかった。

 いや、違う。これはエリザの暗示だった。

 神官代理とはいえ、村を任せられたトラン・タンである。元巫女姫とはいえ、エリザに暗示で縛られるとは、思ってもいなかった。

 彼は必死にもがいて、やっと暗示を解いた後、家を飛び出した。

 だが、もう既にエリザの姿はどこにもなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る